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文字数 4,494文字

「わたしが会社を辞めたのは、働くって行為は、実際は目の前にいるお客さんのためじゃなく、遠目でしか見たことがない雇い主のためにあるっていう当然の仕組みを、現場でまざまざと思い知らされたからなの。重役以外、店長ですら、すべてはこき使われる存在に過ぎないってことを知ったから。笑わないでね。わたし、お客さんの喜びの先に、会社の利益があると思っていたの。でも必ずしもそうじゃない。お客と反対側に、会社の利益があることだってある。そういうとき、わたしたちが何をするかといえば、わたしたちへの信頼を逆手にとって、相手を言いくるめるの。『ソレより、こっちの自社製品のほうが効能が上です』なんてうたってね。もちろん、うそはつかないわ。テレビショッピングと一緒、他社より劣っている点には触れないだけ。よりきわどいことを言う人ほど成績はよかった。そういう作業を命じられたとき、わたしは、他の人に比べてノルマの達成が遅かった。そうして三年近くが過ぎて、こんなことに一生涯を捧げるのだとしたら、わたし、何のために生きてるんだろうって思うようになったの。勘違いしないでね。もちろん楽しいことも、生き甲斐を感じることもいっぱいあったわ。新人研修や進発式は、本当に楽しかった。でもやっぱり、チームとして成績を競う上で、わたしが足手まといになることも多かった。辞めるとき、目をかけてくれた三十代の店長に『ここが堪え時なんだよ』って、大きな温かい手を肩に置いて諭してくれましたけど、わたし、一歩下がって、深々と一礼したの。その戻れぬ門をくぐりたくなくて辞めるのだから。それまで、そんな気はまったくなかったんだけど、ロッカールームでは泣いちゃった」
「正しいか正しくないかでいえば、出てゆくきみも正しいし、居残る人も正しい。『生きる』という行為の中に、生活が占める割合が違うのさ。大人になるほどその割合は増してゆく。きみのいう戻れぬ門も数字で示せば、この割合になるのだろうな」
「あら、じゃあ、わたしは、まだまだ幼いってこと?」
「あいにく女子大生ってふうには、もう見えないがね。フッ、安心しなよ。もっと精神年齢の幼いやつが目の前にいるだろ。ところで、以前、こんな話を聞いたことがある。数学者ってのは、一般業務をさせると大した能力は発揮しないが、百黙一言、何年かに一度、経営方針の転換を迫るくらいの一大発案をする。だから、それだけで十分に一般社員以上の価値があるんだと」
「でも、わたし、玉川君みたいに、数学得意じゃなかったから」
「ぼくだって、数学者じゃない。理系的なものの考え方を言ったまでだよ。会社を辞めたのだって、その一端と言えなくもない。あのとき、唇は許したが、家には行かなかったってこともね」
「ア……、じゃあ、それでも、わたしは『正しい』と言えるの?」
「『正しい』さ。うだうだ能弁を垂れるやつより、実行に移して、意にそぐわなければ、身を引く人間のほうがよっぽど立派だから」
 羞恥からだろう、彼女は一旦視線を窓の外にそらした。ぼくはグラスに手を伸ばした。
「そ、そうだ、思い出したわ。昨夜、突然彼から謝罪の電話があったのよ」
「『彼』って?」
「うん、ほら、あのとき、あなたが路地裏で言い争いをした人。わたしが、その――」
「塩原、のこと?」
「そう、よく名前覚えてたね。その人から唐突に電話があって――わたしは削除してたんだけど、番号交換だけしていたから――、あのときのことを謝りたいって。ついては、あなたにも謝罪したいから、電話番号を知らないかって言うの。教えられるはずないから、もし会うことがあったら、その気持ちだけ伝えておきますって、こっちから電話を切ってやったけど。どういうつもりかしらね。おかしな人、あれからだいぶ経ったあとだというのに。……どうしたの?」
 ぼくは持ち上げぬまま、握ったグラスを見つめて考え込んでいた。
「いや……それで、今日会うってことは、彼に話したの?」
「まさか、言うもんですか。それにしても、ココってあのときのカラオケ屋さんから、そう離れてない場所だったね。もっとも昼間だから、あんなやつと会う心配もないけど」

「金持ちは、無条件で嫌いだ。仕方なくなったやつも含めてね。あいつらが言う、格言や名言なんて聞きたいとも思わない。流行作家が書いた小説なんて、金をもらったって、読む気になれない。偶然話をする機会を持ち、意気投合しても、そいつが金持ちだとをわかった時点で、ぼくは理由も告げず席を立つだろうな。それくらい嫌いだよ。もし逆にぼくが金持ちだったとしたら、人前にしゃしゃり出ることはしないだろう。金持ちというだけで罪を背負ったようなものだからね。できるだけ部屋の隅で、似た者同士、肩身狭くしゃべるくらいだろうな」
「じゃあ、玉川君は誰を尊敬するの? 尊敬できる人はいないの? 対等に話のできる人は?」
「死んだ人間は尊敬するよ。死んだ者に比べたら、生きてるやつなんてほんのわずかだし。未来のことを知りたいなら、どうして過去と向き合おうとしないのか不思議に思うよ。読んでるものも、必然死んだ作家のものに限られる。実のところ、前衛なんてものを含め、今しかないと思えるものは、ほぼすべて過去にあるんだ。その上、完成度は過去のほうがはるかに高い。文学、映画、音楽、お笑い、そういったすべてにおいてね。それと、対等に話せる人だっけ? では確認するが、きみは金持ちかい? だったらきみのような人となら、もちろん対等に話ができるよ」

 食後の飲み物に差し掛かったときだった。指先が触れたことで椅子の隙間に何かあることに気づいた向野が身をよじり、慎重な手つきでクッションの隙間から欠片状のものを取り出した。それは、形が整ったまま折れずに残った動物型のクッキーで、とぐろを巻いたヘビだった。軽く表面を払うと、彼女はテーブルの端っこにそれを置いた。
「ヘビが嫌いな子が置いていったのね。それともおいしくなかったのかしら?」
 独り言のようにつぶやいただけだったが、ぼくはうっかり答えてしまった。
「……そうでもないさ」
「エッ、玉川君、これ、食べたことあるの?」
「……ああ」
「そ、そうなんだ。ちょっと意外……」その顔つきは『ちょっと』どころではなかった。「ちなみに、いつ食べたの?」
「……三ヶ月ほど前……」興味深げに覗き込む彼女の視線に耐えかね、ぼくは自ら沈黙を破った。「いいさ、食べることになったいきさつを明かしてもかまわないが、これは別に何の意図もなくて、ただきみに隠し事なんかしないし、する必要のないことを証明するために言うんだからな。そう――、あれはたぶん三ヶ月くらい前だった。散歩をしていると、うれしそうにコンビニから走り出てきた五歳くらいの男の子が、マットに蹴つまずいて、手を広げたまま、崖先からダイブでもするように転んじまったのを目撃した。ああいう子には受け身も何もあったもんじゃない。敷物と身体が柔らかいおかげで怪我はしてなさそうだから、店から出てくる人たちは、視線を送るも、声はかけずに通り過ぎていった。一方、男児は立ち上がったまま、ビニール袋を持った右手を胸の前に上げて、泣きたいのに泣けないような、悲しそうな顔をしていたんで、ちょうど前を通りがかったぼくが声をかけてみた――『おい、大丈夫か?』。そばに立って、ようやくその子が泣くに泣けない立場に追い込まれている理由がわかった。袋の中の生卵が割れて、黄色い黄身がビニールの内側にべっとりへばりついていたんだ。コイツなりに『やばいことになった』と思ってるんだろう。蒼くなった顔でぼう然と立ちつくすばかりだった。ちなみに、袋の中には、その他に食パンとお菓子らしきものが入っていた。無意味な一人芝居になったが、ぼくは大きな溜息を一つして見せ、その男児に『ついて来い』と言って、店の中に向けて顎をしゃくった。振り返ると、自動ドアが閉まった先に、男児が取り残されたまま、こっちを見ている。ぼくは戻って『なんでついて来ないんだ?』と問いただすと、男児はこう答えやがった『しらないひとについていっちゃだめだもん』。『ふん、しつけはなってるが、こんなちっちゃなガキに買い物に行かせるなんてな』『ちっちゃくないもん! それに、これは、ぼくがかいにいくっていったんだ、もん……』。『フン。じゃあ、ここで待ってろ』そう言い残して、ぼくは一人店に入り、同じものを買った袋を、男児に差し出してやった『ほら、交換してやるよ』。男児はうれしいくせに、変にもぞもぞしながら必死に表情をこらえて、お礼を言う代わりに、こうのたまった――『おにいちゃん、だぁれ?』。ぼくは最後くらい意地悪をしてやりたくなった『おまえの二十年後だよ』『う、うそだぁ』『なんでわかる?』。もしかすると、そのくらいの幼子には、お金というものは命の次に大事なもので、というのも稼ぐすべを知らない子供には、なんにでも交換できるお金は魔法のようなものであり、そんな貴重であり額に関係なく高価なものを赤の他人に躊躇なく費やしてくれることのほうが考えられなくて、ぼくを二十年後の未来と言われても、あながち突拍子もない話とまでは思えなかったのかもしれないな。『……じゃあ、おしごと、なにしてるの?』『無職さ』そう聞くやいなや、突っ走って帰りやがった。現金なもんだよな。ぼくはその子の袋を持って帰り、食パンと割れてない卵で母がフレンチトーストを作り、ぼくは卵で汚れた紙箱を捨て、お菓子の中身だけ取っておいて、後日そこにあるやつと同じ、動物クッキーを食べたってわけさ」
 彼女は話の冒頭、ジュースを飲みながら聞いていたが、途中で喉が堰き止めたのだろう、ストローを離して、口に含んだものを大きな音を立てて飲み込むと、オレンジジュースのグラスを脇に押しやって、両肘をテーブルに乗せ、若干前のめりになって、何度も目を見開いて聞き入っていたが、話が終わると黙り込み、しばらくしてから、だしぬけにこう切り出した。
「……あのね、玉川君。わたしの親戚が、小さい子向けの塾を開いてるの、知ってる?」
 ちょうど口にくわえたアイスコーヒーのストローを外して、ぼくは答えた。
「なんだい、急に。知るはずないだろう」
 彼女の頭は状況を見極めるどころではなかったらしく、タイミングの悪さを詫びるように、ぼくが喉をうるおす間をとった。
「わたしね、今でもたまに呼ばれて行くことあるの。そこにね、送り迎えで親と一緒に、小学生の生徒さんの弟や妹もついて来ることがあってね。だから、わかるんだけど。その子が走って帰ったのは、『ムショク』っていう言葉の意味がわからなくて、両親の元に聞きに帰ったのだと思う。いえ、きっとそうよ。だから、二十年後があなたのような人であることを、その子は決して悲観したわけじゃない。それどころか、その意味を知りたくてたまらないという、逆の意味のあらわれだったんじゃないかしら」
「……フン、どちらにしても、親は『そういう大人にはなるな』と言うに決まってるさ」
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