3-1(回想)

文字数 3,736文字

 高校二年時の十月初旬。まだ残暑なるこの時期、里美の通う高校では、小高い山の中腹にある避暑地で学年をあげた宿泊研修がおこなわれた。文系理系半々を条件に、女子なら女子、男子なら男子だけで、ランダムに選ばれた六名のグループが形成され、一つの部屋での寝泊まりは当然のことながら、当地で催される各イベントもグループで参加することが義務づけられていた。
 毎年、教員らが下準備してまで、研修の中で最も力を入れている野外行事があった。生徒主体でおこなわれる、アドベンチャーレースさながらの、周囲の山林一帯に隠してあるチェックポイント探しである。そのとき、数合わせのグループが順位を競うチームとなり変わる。ただし、順位が良かったからといって、特別優遇されることはなく、夕食までの自由に過ごせる時間が増えるだけであった。それでも、順位があると聞くと、それだけでやる気を覚えるのが、彼ら若人である。また、イベントを催した側の興を削ぐ、チーム同士が結託して場所を教え合うといったことがなくなることも、教師らが過去の反省を踏まえて順位を決めることにした理由でもあった。
 朝食後の小休憩を終えた朝九時、草木のむせかえる青臭さが立ち込める中庭に呼び集められたジャージ姿の二年生全員は、そのとき初めて、今日の野外イベントがこれまでのマニュアル化された受動的なものと異なり、自分たちに主導権が託された、いわばレース競技のようなものであることを知らされた。ちなみに鼻を突く草いきれは、この前日、生徒全員で建物一帯の草むしりをしたからであり、今回のイベントはそれに対する教師からの褒美も兼ねていた。続いて、代表者が前に呼ばれ、グループごとに台紙と、おおまかなチェックポイントが赤書きされた周辺地図のコピー、それにコンパスが渡され、学年主任の教員より各ポイントにあるスタンプを台紙にすべて押印し、ここに戻ってきたらゴールになることが(演出を兼ねた心持ちぞんざいな口調で)言い渡された。昼食時には必ず弁当を取りに戻ってくることだけ厳命し、号砲代わりの手一本で、丸一日を費やしたイベントが開始された。
 こんなとき、われ先に飛び出すのが競技に参加する選手一般であるが、教師らが奥に控えたあとも、生徒たちは中庭に居残ったままで、指示のない状態に動揺し、顔を見合わせたり、周囲の様子をうかがったりするばかりだった。それでも、一チーム目が動き出してからは、なし崩し的に残るチームも外門へと歩きだし、最初の丁字路を右へ左へとほぼ均等に別れていった。
 選んだコースによっても、大幅な順位変動など紆余曲折あったが、ここではレース内容は割愛する。
 ダントツだった一位の男子チームが十四時半にゴールしてから遅れること四十五分、二位の男子チームがゴールして以降、女子チームを含め次々とゴールするチームが現れた。そんな中、里美のいるグループは、どうしても最後の一つを見つけ出せずにいた。
 森をさまよって三十分になろうとしていた。理系の三人の中でもっとも成績が良いという、お門違いもはなはだしい理由で、地図係を押しつけられた里美は、上下の向きを変えて何度も地図をあらためていた。
「本当? 里美」
「うん。ここら辺にあるはずなんだけど……」
 ここまで、行き当たりばったりな面は否めないながら、里美の地図読みのおかげもあり、ほとんど迷うことなくチェックポイントを通過してきたものの、道なき森に分け入り、さまようこと三十分でその信用は失墜し、いまや彼女を頼りにする理系二人と、文系三人とのあいだには大きな溝ができてしまっていた。どこを見ても似た風景で、これといった特徴的な自然物もない、幹の太さも均一な同じ種類とおぼしき樹木ばかりである。ついに離れた場所で話し合いをしていた文系の女子の一人が、手を差し出して、里美に迫った。
「向野さん、悪いけど、コンパス貸してくれない」
 低姿勢ながら、片手を突き出した時点で、それは相談でも要請でもなく強制であった。
 里美は慌てて、手首に吊るしていたコンパスを、差し出された手に渡した。一も二もなく従ったのには理由がある。ここまで、分岐では必ず合意を取って進んでいたのだが、今にいたった責任はすべて自分に押し付けられていることを、彼女は痛いほど感じていた。彼女はもう、二十分も前からこの任を別の人と代わってもらいたかったが、仲の良い理系の二人に譲るのは無理だった。これまで里美の言うことに阿諛追従するばかりで、方向音痴なのも明らかだったから。立てた枝が倒れた方向に道を選ぶような女子に、この役目を任せては、結局自分のせいにされかねないのはわかっていた。だからこそ、文系の女子に代わってもらうのは、待ち望んでいたことでもあったのだ。
「ごめん。じゃあ、地図も」
 このグループのリーダーでもある文系の女子は顔をそむけるようにして、天地が返され、文字が読めるよう向けられた地図の受け取りを拒んだ。
「ううん、地図はいらない。もう見たってわからないし」
 そもそも文系側の女子は、道中も世間話――アイドルの誰某がどの女優と仲が悪く、過去誰と付き合っていたかなど――に花を咲かせるばかりで、地図に興味を示したことは一度もなかった。少しでも方向感覚に自信があれば、ほうってはおかないものである。別れ道に来て、里美が位置確認の説明する際、しかたなく見るだけだった。したがって、彼女らには台紙だけを任せることになっていた――せめてもの、チームの意識づけとして。
 里美は手に持った地図をひっこめるどころか、かえって差し出すようにして言い張った。
「で、でも、この辺りにいるのは間違いないから。チェックポイントも書かれてあるし――」
 里美がそれっきり口を閉ざしたのは、疲労と不信があらわな視線でギロリと睨みつけられたからであった。
「もう、チェックポイントなんてどうでもいいじゃない! 成績がどうなるもんでもない、単なるお遊びなんだから」相手の女子生徒はつっけんどんに言い渡すと、理系の二人に向かって諭すように呼びかけた。「さ、帰りましょうよ」
 それがさっき、離れた木陰で、ささやき声の会合をもった文系女子たちの出した結論だった。
 残すポイントはたった一つである。里美としては、絶対にこの辺りにあるという確信と、日没まではもう少し時間があり、地図とコンパスから遭難にいたらないための退路だけは確保してあるつもりだったので、もう少し粘りたかった。何よりこれまで、学校の宿題はもちろん、言ったことさえ忘れている友達の依頼さえ、やり遂げるよう努めてきた彼女だけに、どんなに遅くなろうとも完走だけはしておきたかった。とにかく、リタイヤはしたくなかった。それだけに『どうでもいい』『帰りましょう』というのは、想定外の申し出だった。せめて事前に『もう帰りたい』旨を一言でも言ってもらえていたら、彼女だけでも最後の頑張りを見せ、諦めもつくのだが、こういう他人行儀な関係というのはえてしてそういうものだが、言い出したときが最後なのだった。
「エッ――、だけど……」
「『だけど』もへったくれもないの。あなたがチェックポイントなんてのに固執するから、こうなったんじゃない。さっさとあきらめて帰ればよかったのよ。もうたくさん、くたくたに疲れきっちゃったわ。さっきから声も全然聞こえなければ足音だってしないし、みんなもう宿舎に帰ってるんじゃない? ここからいうと、建物は北東にあるのよね。じゃあ、その方角だけに足を向けて歩きましょう」
 なすすべなく立ちつくした里美であったが、歩き出した文系の女子たちに向けて、最後、追いすがるように嘆願した。
「じゃ、じゃあ、帰りがけに見て回るから、せめて台紙だけでも、わたしに持たせて」

 日の入り目前の午後六時前、里美のチームが最後となって宿舎に戻ったとき、人数は五人に減っていた。手を膝に乗せて歩く五人であったが、宿舎の外門を越えると、うち理系の二人がつんのめるように走り出して、迎えに出た教師にすがりついた。
「残念だったな、走ったっておまえたちが、ドンベだよ。ほんの五分差だがね。ん、おい、どうした? なにか――」
 教師の言葉をかき消すように二人が声をそろえて叫んだ。
「里美、まだ戻っていませんよね?」
「先生、里美が……はぁはぁ……向野さんがいないんです! はぐれちゃって……もしかしたら、十一番のポイント周辺にまだいるのかもしれません!」
「な、なんだとッ」
 教師陣は慌てふためき、すぐにも若手が『ポイントの近くに行ってみます』と名乗り出たが、別の教師により『もうすぐ日没だ、きみまで遭難したらどうする!』と制された。大広間にいる生徒たちに気づかれぬよう、教師全員がひそかに施設の玄関口に呼び出され、最低限の人数を残して、二人一組で救助に向かうことに決まった。
 その全光景を、電気を消した自室の部屋の窓から目撃していた生徒がいた。声こそ聞こえなかったが、無声映画を見るように、その生徒には即座に何が起きたか把握することができた。
 彼は――その男子生徒は、部屋にある非常用の懐中電灯を引き抜き、懐に忍ばせ、にわかに部屋を飛び出した。
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