5-2

文字数 4,255文字

 ――こんなことを考えながら、ぼくはまたいつものように散歩している。
 さて、前から、しょんぼりと肩を落とし、下を向いた、背の低い中学生が近づいてきた。この少年は、五人の集団のしんがりとして、先の角から曲がってきたのだが、話し込む同学年の少年四人を見送るように立ち止まると、切なそうに振り返って、ぼくのほうへと歩いてきたのだった。四人が振り向いて、ニタつくのを、ぼくは正面から見ていた。四人は延長上にいるぼくと目が合うと、いそいそと前に歩きだした。
 お互いあと一歩ですれ違うというときに、ぼくは中学生に声をかけた。このようなうら若い相手(少年)を呼び止めたい場合、最初の一言が肝心で、可能な限り、さりげなくおこなう必要があった。
「おい」少年は、けげんな顔でこちらを見上げ、立ち止まった。「おまえ、いじめられてるな」
 少年はびっくりして、思わず背後を振り返ったが、目で追った四人はすでに遠くへ歩き去っていた。
 肩に抱えていたサブバッグをぎゅっとわが身に手繰り寄せると、少年はためつすがめつ、こちらを見つめた。何度考えても心当たりがないことに気づくと(当然だ、こっちだって知りはしないのだから)、少年はやっと口を開いた。
「あ、あなた、だれ?」
「てことは、いじめられてるわけだ。普通は先に否定するものな」
「い、いじめられてなんかないよ。じゃ」
 すれ違おうとする少年の前に、ぼくは横足を突き出した。逃げられなくなったのは、この少年が車と逆行する路側帯の壁側を歩いていた報いだ。
「ふ~ん、おれには挨拶するのに、同級生のお友達にはお別れの挨拶もしないんだ」
 少年は、『いじめ』という重き言葉の出所を、単なる自分の姿身ではなく、あの瞬間を見られたからだということに気づいたらしい。
「……しようとしたけど、しそこなったんだ。そんだけだよ。もういいでしょ」
 少年が身体をぎりぎりに寄せてきたので、ぼくは次の言葉を言い放って、足を引いた。
「おれもそうだった。もっともおれは先頭だったがね」少年がその場を動かずに、聞き耳立てていたので、ぼくは話を続けた。「おれからやつらを無視してやったが、結局はいじめられていたんだ」
 少年は初めて、まっすぐにこちらの顔を見上げた。
「……おにいちゃん、だれ?」
「誰かが死にたいと思ったときに現れる、人のなりをした悪魔さ」
 怖がらせるつもりだったのが、あいにく期待外れに終わった。少年は上目遣いで、唇を尖らせた。
「……うそつき」
 結婚を申し込んだナンパ詐欺師だって、こんなには動揺すまい。
「な、なんでだよ」
「漫画と同じじゃん。読んだんでしょ」
 ぼくは心の中で叫んだ――『なに! 漫画にあるのかよ、この筋書き』。すると、無性に腹が立ってきて、少年に詰め寄った。
「そいつが――悪魔が、こんなナリをしてると言うのか?」
「いや、あっちは死神で、バケモノだけど……おにいちゃん黒い服着てるし」
「フン、実写版の悪魔向きってわけかよ。まぁどうだっていい。おまえを見たら、一度くらい『死にたい』、『死んだらどうなるんだろう』と考えたことくらいわかるさ。ここを二百メートルほど戻ったところに、公園があるのを知ってるな?」
 話が定まらないことに不安を覚えながらも、余儀なく少年はうなずき、質問に応じた。ちなみに、日本人というのは、道に迷った人間を道案内をする際、相手の視点に立って説明するのが一般である。相手の立場になって考えるのは、なにも日本人に限ったことではないが、それでもそう断りを入れたのは、たとえば幼い子に自らの理解を促す場合、日本人は相手のことを『ぼく』と呼ぶ(たとえば『ぼく、お名前は?』など)からで、こういった二人称を一人称で表すのは日本人独特のものだと聞いたことがあったからだ。ところで、この主観を自分に置き直した『戻った』との言い回しは(少年からいえば行く先にあたる)、言うまでもなく、こちらの道が歩く側として優先だからであり、特にこの場合、中学生ぶぜいに思い知らせる意図はないが、このことに気づくかどうかは放任した形である。
「し、知ってるけど……」
「明日の土曜日――」ぼくは携帯電話を開いて時刻を見た。もう数分で十九時――午後七時なるところだった。「夜七時に、おまえに手を上げたやつの名前と住所を書いて持ってこい」
 長い沈黙のあとで、少年は下を向いたまま尋ねた。
「……どうして? なにするの?」
 ぼくは答えなかった。顔だけ『わかってるくせに』と唇を斜めに引き延ばして――。
 少年は顔を振り向けると、切羽詰まったようにわめいた。
「おにいちゃんは……おにいちゃんは、どうしてそんなことしようとするの?」
「さっき、悪魔だって言ったろ。将来のおまえに雇われた、な」
「う、うそだ! そんなことあるもんか!」
 もちろん、こいつは中学一、二年生だから、こんな話を真に受けているわけではない。それでも、こいつが声を荒らげたのは、仮説としてだってあり得ないことを、ぼくや自分に言い聞かせたかったからに違いない。
「そいつは、こんなこともおまえに伝えてくれって言ってたな――『友達に裏切られた。教師は信じられない。学校には味方なんていないと思ってるだろう? だがな、おまえが毛嫌いしているやつで、とんでもない味方になってくれるやつがいるんだぞ――教科書ってやつがな。そいつと仲良くなれば、おまえが手を上げても、他人に手を上げられることはなくなる』ってな。まぁ、それはそれとして、おれは土曜の夜七時に、あの公園を訪れる。いいか、土曜の七時におれがいるってことを忘れるな。さ、行け!」
 それから土曜の七時は公園の前を通るようにしたが、二度と少年を見かけることはなかった。

 俗にテレビ業界でゴールデンタイムと呼ばれる時間帯に、来客を告げるチャイムが鳴った。ぼくは二階の私室にいたが、この時間のテレビ番組を嫌忌しているので、その音は、閉め切った部屋にいるぼくの耳にもはっきりと聞こえた。無意識にチラと時刻を確認し、再び読み物に没頭したとき、母親がぼくの名を呼んだ。驚いたことに、警察官がぼくを訪ねてきているという。
 すぐさま脳裏をよぎったのは、先の中学生との会話だった。しかし、腑に落ちなかった。アレは二、三キロ離れた散歩道だったし、早々に警察が出るような話でもないはずなので。もっとも学校中の話題にでもなれば別だろうが。
 玄関に降りて、なお驚かされたのは、若い制服姿の警察官だけではなく、スーツ姿の中年の男をともなっていたことである。いやこれは逆で、だぼついたスーツを着ている男のほうが、制服の警官をともなっていたのである。スーツ姿の男は、刑事にほかならなかった。しかし、スーツの男はしばらく成り行きに任せるように一歩下がって、いちいち細かく玄関周りを見回していた。刑事のこの視線が、ぼくの熟考をことごとく邪魔したものである。
 ところで、訪ねてきた理由というのは、先日この家から五百メートルほど離れたところで起きたタクシー強盗に関することであった。
「そのことはご存じですね?」
 そうぼくが聞かれた刹那、用件を聞くまでその場を梃子でも動かなかった母親が、身を震わせ、悲鳴のような声を発した。
「こ、この子が、タクシー強盗をしたっていうんですか!」
 警察官は母親へと向き直ると、安心させるつもりか、両手を肩の位置まで上げて、そんなつもりはないと意思表示したが、その大袈裟な態度が、かえって相手に疑いの念を増幅させかねなかった。ぼくが思うに、この制服警官は、現行犯以外、捜査して犯人を逮捕した経験がなく、職務上、疑いある人間以外とは接触を持ってこなかったようである。
「いえいえ、そうじゃなく、被害を受けたタクシー運転手が、目撃者としてあげた人物が、息子さんとよく似ていたものですからこうして――」
 ぼくはその話をそばで聞きながら、内心むかっ腹を立てていたのは、横にいる刑事が一心にぼくの顔を見つめていることに気づいたからである。
「もういいよ、母さん。下がっててよ。その犯人の身長は、百八十センチ近くあるんだから、ぼくのはずがないよ」
 ぼくは無理やりにも母親を居間へと戻らせ、部屋の引き戸を閉め、二人の前に戻った。
「狭苦しくてすみませんね。それとも上がって話します?」警官のほうが刑事に伺いを立てたが、返事など待たず、ぼくは続けた。「冗談ですよ。おたくらもさっさと用件を済ませたいでしょうからね」
「靴はどうされてるのです?」と、だしぬけに刑事が尋ねた。「ご両親のはありますが、あなたのはないようですので」
「靴? ああ、ぼくは自分の靴は必ず靴箱になおすんです」
「そりゃまたどうして?」
「……出しておきたくないからです。いけませんか」
「まったく。ところで、お一人暮らしをされたことは?」
「……ないです。変なことばかり聞きますね」
「いや、申し訳ない。じゃあ、きみからまず事件の概要を説明してあげて」
 刑事の隣で胡散臭そうにこちらを見る同世代の警官を制して、ぼくは知っていることを先に暗唱した。
「いえ、説明を聞く必要はありません。この数ヶ月、二、三週間のあいだを空けて、似た手口のタクシー強盗が頻発しているのは、ニュースでも知っていますから。ドライブレコーダーのメモリーを抜き取って逃げるため、詳細な犯人像が割り出せないとのことでしたね。最初、ぼくは多くを隠し過ぎる警察の悪い癖が出たなと思っていましたが、こうしていまだ捕まらないところをみると、そうではなかったようですね。身長の件も、『長身』から『百八十センチ前後』と細かく更新されたようですし」
 胡散臭いというよりは、もはや犯人を見るような目つきで、横の警官は、ぼくを睨みつけていた。
 ぼくは不意を突いて彼に尋ねた。
「何年です?」
 表情をかきくもらせて、制服警官はぼくを睨みつけた。
「はぁ?」
「何年交番に勤務したら、『いいか、本気になれば、ほこりの出ない人間なんていないんだぜ』っていう顔ができるんです?」
 今度は刑事のほうが一歩前に出て、ぼくらに割って入った。
「ま、待ってください。わたしらの態度がわるかったのなら、申し訳ない。今日はきみに尋ねたいことがあって、来たまでなんだ。お互い無用な警戒心は捨て去ろうじゃないか。きみには、まだ名乗ってもいなかったね。わたしは五十川。ほら、きみも自己紹介するんだ」警官はしぶしぶ諸岡と名乗った。「はい、これがバッジだよ。彼は見せなくてもいいだろう?」
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み