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文字数 3,485文字

 あくる朝、こめかみに痛みを感じても、記憶ははっきりしていた。この夜のことを振り返っても、なぜこうなったのか――『それも〈一夜に二回、別人と〉よ……』、ともかく里美にはわかりかねた。
 話を戻そう――。彼女は今、トイレに行くふりをして、酔い覚ましに風に当たろうと(居酒屋のアルコールが今になって祟ったのだ)、廊下の丁字のつきあたりを、トイレとは逆の非常口のほうに足を向けたが、鉄扉には鍵がかかっていて、プラスチックのカバーを破壊しなければ、外には出られないようになっていた。そりゃそうであろう。出ていけたら、無銭飲食がやり放題である。『バカね、オフィス用のビルじゃないんだから……』彼女が自嘲の笑みを浮かべ、廊下を戻ろうと振り返ったところ、埋め込み式の電球照明を三つ隔てた先に、物音ひとつ立てることなく塩原が立っていた。ただでさえ、薄暗い廊下である、彼の表情はうかがい知れなかった。
「どうしたんですか、塩原さん? トイレなら向こうですけど」
「知ってる」
「じゃあ、どうして?」
「どうして、ぼくがここにいるかって? きみを口説くためだよ。最初からきみしか狙っていなかった」
 塩原はゆっくりと近づいてきた。里美は彼をまともに見ることができず、恥じらいながら、距離を取るように下がった。実を言うと、盛り立て役を演じる一方で、彼女も四人の男の中で、いつしか彼しか見えなくなっていた。彼の前への一歩は、彼女の後ろ足の一歩より、はるかに大きくすぐに距離は狭まった。必然、彼女は袋小路に追い詰められることになった。
「エッ、ア、あの……塩原さん?」
 二人は手の届く距離になった。里美は、背中が壁に当たると、今度は壁の隅に身を引いた。
「ぼくのこと、嫌いかい?」
 彼女は首を左右に強く振った。この場合、単純に好意の度合いを問われれば、彼女はそれを明かすのをためらったであろう。しかし、このように否定形で問われた場合、ただでさえ、出会ってまもない関係であり相手に自分の心情を悟られぬ段階であれば、嫌いでないという意思表示は無意識にも強くなるものである。とはいえ、理性がすぐさま“強く”否定したことを彼女自身に後悔させた。
「いえ、そんなことありません。で、でも、もう戻らないと……」
「うん、戻ろう。だけど、向こうに戻ってからも、結ばれていることの約束だけ、今しておこうよ」
 塩原の右手が背中の壁につかれ、里美は完全に彼の懐に入る形となった。逃げ場がないわけではない。彼の脇の下をくぐれば、この状況を回避することはできた。しかし、おそらく、いやだからこそ、彼女はその場に留まったのだろう。そして、こぶしに固めた両手を胸に置き、上目遣いの目を閉じて、彼女の唇が塩原の唇と合わさった。
 だが、合わさった刹那、里美は眠りから目覚めたように彼の胸を押し返して、自分も壁に背中を打ちつけながら身を引いて、彼の横をすり抜け、塩原の背後に回った。
「わ、わたし、先に戻ります……」
 里美は下を向いたまま、それだけ言い残すと、駆けるような早足で、自分たちの部屋に戻った。
 戻ったあと、彼女は彼に対して、逆に一線引く態度をとった。塩原とは短い受け答えに徹し、他の男性とは、話題に割り込むほど長く話すようになった。一方、塩原はといえば、これまでは折に触れ、伺うような視線を投げかけていたものが、あまりにも堂々と、臆面もなく、周囲に見せつけるように里美を見つめるようになった。そのため、場が急速に熱を失い、特に三人の女子と正毅はすっかり興醒めしたようになった。それから三十分と経たず、コンパは散会することが決まった。他の三人の女子が、いい人を見つけられたのかそうでないのか、このあとどうなったのか、里美は知らない。『じゃあね』と言われたっきり、三人は静かに去っていった。まずは確定している二人から分断していく――これがこの場合のしきたりなのだった。明日香だけが振り向いて、あとで電話するようにとひそかなジェスチャーを送った。里美が一緒に付いていけなかったのは、そのときにはすでに、塩原より『店裏で待ってて』と耳打ちされていたこと、それに今どういう印象が残っているにしろ、キスを交わした責任があったからであった。
 彼女が待っていて当然のように、塩原はなかなか現れなかった。じろじろとねめ回す酔ったサラリーマンを回避すること六人、ようやく両方の手をポケットに入れ、水たまりを飛ぶような軽快さで、塩原はさっそうと現れた。彼は闇夜でもわかる白い歯で微笑むと、そのまま彼女の腕を掴んで、どこかに連れ出そうとした。
「行こう!」
 腕を引っ張られながら、里美は仕方なくついて歩いた。
「どこに行くんです? あの、わたし、その前に――」
「『その前に』の用件は、ぼくの部屋で聞くよ。向こうにタクシー乗り場がある」
 里美は膝を寄せ、開いた足を踏ん張って、その場に立ち止まった。掴まれた腕は引っ張られ、肩の辺りまで持ちあがった。重力を無視したわけではない。彼のほうがだいぶ背が高かったからである。
「エッ、ま、待って! 待ってください。わたし、行きません! だって、塩原さんとは今日知り合ったばかりじゃないですか」
 彼は一度大きく目をみはると、わが目を疑うとでもいうように、瞬きを繰り返した。
「驚いたな……きみ、本当に二十五なんだよね? フッ、冗談だよ。そんな怖い目をしたら、せっかくの均整のとれた造形美の顔がもったいない。つまり、きみはぼくが、部屋に連れ込んだことで、きみに何かをするんじゃないかと危惧しているんだね。でも、安心していい。決してぼくから、その『何か』をするようなことはないから」
 里美は明らかに軽蔑した視線を投げかけると、眼前のうぬぼれ屋に言わねばならぬことだけを事務的に伝えた。
「塩原さん、あなたはもしかすると、いま酔ってらっしゃるのかもしれません。さきほど電話番号の交換をしましたよね。近日中に必ず電話しますから、そのときまた会っていただけますか?」
「ハハ、きみはぼくに、あらぬ疑いを抱いているようだね。恋愛は理屈じゃなく、もっとフィーリングを大事にすべきだと思うけどな。たとえば、さっきの廊下にいたときのきみのようにさ。おうっと、そういえばきみは理系女子だったね。だったら、やっぱり、ぼくの部屋を見ておくほうがいいと思うよ。部屋を見れば、その人の人間性もわかるというからね」
 里美は理系ならではの至極冷静な態度で聞き返した。
「……逆にお聞きしたいのですが、こんな時間にお宅を訪問して、わたしは何をしたらいいのですか?」
 彼の片方の眉がピクリと動いた、仮面が剥がれるように、少しずつ怒りがあらわになった。
「別に――、ぼくがどんな人間かわかるまで、部屋を散らかしまくるがいいさ。眠くなったら寝たらいい。その姿をただ見守ってほしいなら、ただ見守ってあげよう。あくる朝には、執事さながら、きみを車で送ってあげてもいい」
 無駄話を断ち切るように、間髪入れず彼女は言った。
「手を離してください」
 彼女は毅然と申し出たが、聞き入れられなかった。彼ははじめ、彼女の肘下を掴んでいたが、もっと掴みやすいよう、今では右手首をしっかりと掴んでいた。彼のほうは返事を待つように、ただ黙って彼女を見つめるばかりだった。
 再度、里美が口を開いた。
「では、はっきり言います。あなたの部屋には行きません。そして、たぶん、今後もきっと行くことはないでしょう。お願いですから、手を離してください」
「痛く握っているわけではないから、そんなに大きな声を出さないでもらいたいな。きみは恥ずかしくないのか? あんなまねして、今更態度をひるがえすなんて」
「あなたこそ、恥ずかしくないんですか、塩原さん……」
 彼女の憐みを催した顔が、彼の神経を逆撫でた。
「痛いッ」
 腕を強く握られた里美は思わず悲鳴を上げた。
「きみがそんなにタクシーが嫌だって言うなら、友達の車で連れていったって構わないんだぜ」
 そのとき、突然、二人の予期せぬ方向から声が上がった。
「まったく、その子の言うように、よく恥ずかしくないものだな、あんた」
「だ、誰だ?」
 そう声を荒らげるなり、塩原は声のほうを振り向いた。薄く開いた従業員用出入り口から、紺のキャップに茶色の腰エプロンを巻いた男が現れ、近づいてきた。
 本当に驚くと、声は出ないものらしい――大きく口を開けた里美は、声を失ったまま、何も考えることができず、腕の痛みすら忘れて、その場に立ちつくした。
 そのカラオケ店の店員は、まぎれもない、玉川健だった。
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