第4話

文字数 6,541文字

 永禄十(1567)年の八月十五日、斎藤家の稲葉山城が織田信長によって落とされ、美濃は信長のものとなった。一年後には三好三人衆によって殺害された室町将軍足利義輝の弟、義昭を奉じて上洛することになり、浅井家に協力要請が来た。
 使者はねんごろな言葉を長政に伝え、信長の妹、お市の方を長政に嫁がせるので同盟されたい、と言った。信長に私淑している長政は一にも二もなくこれを了解し、家中にその考えを伝え、了解を得た。
 この時期、すでに竹中半兵衛は自らの居城、菩提山城に帰っていたが、信長が美濃の主となると再び浅井家を頼った。それが立ち去ったのは、織田家の武将、木下藤吉郎が自ら足を運んで自身の師となることを懇願したからだという。できれば浅井家で登用され、隣り合って長政を支えてもらいたかったので、喜右衛門は寂しく思うとともに織田家に羨望の眼差しを向けていた。
 それが同盟国になる、と言っても嬉しくはなかった。尾張と美濃を手中にした織田家は浅井家など軽く見るだろう。それを妹を嫁がせてまで上洛する、というのは途中にある障害をできるだけ排除するためだ。そのことに長政は気づいていないのか、美しい妻を迎えて喜んでいる。信長の様子をお市の方から聞き、我もかくありたいと無邪気さを見せていた。
「喜右衛門、義兄上が天下を静謐にするために室町将軍を正当の方に据える。儂も協力せねばならんのう」
 やに下がった顔で笑いかけられ、喜右衛門は返事に窮した。憧れた人物、大国の持ち主に対等と見なされていると認識されているのが嬉しいようだが、長政が勘違いしているように思え、赤尾美作守のもとへ行って訴えた。
「殿は喜んでおられるが、これより我らは織田家の下風に立たねばなりません。舅殿もお考えあるよう」
「悔しいか」
 舅に酒を勧められ、大変悔しく思います、と喜右衛門は応じる。
「殿は自らを信長になぞらえることで六角を破った。その信長がこちらに手を差し伸べるのはよい。そのまま織田家に取り込まれることが、悔しいのです」
「殿はお市の方様に熱をあげておられる。二人の仲は睦まじく、誰も引き裂くことはできん」
 すでに、側室との間に万福丸という子息が生まれていた。だが、正妻にほれ込んだ長政はお市の方との間に男児が生まれればすぐに後継者として指名する、と息巻いている。憐れだったのは万福丸の母親で、息子ともども出家すると泣いている。
 赤尾美作守も織田家との融和策を尊重していると分かり、喜右衛門は喋ることをやめた。気持ちは分からんでもないさ、と赤尾は喜右衛門の盃に酒を注いだ。
「お前は殿に近江一国を領する大名になってもらいたかったのだろう。そうさせることが自らの役目と考えていた。だからこそ、織田家の下風に立つことが気に入らぬのだ」
 その通りです、と苦い気持ちで一息で酒を飲み干すと、長政が湖北三郡の支配者であれば自分でもその師は務まった、それ以上を望むのならやはり竹中半兵衛を帷幕に入れておかねばならなかったのだ、と憮然となる。
 竹中半兵衛は一度郷里の菩提山城に戻ったが、信長が稲葉山城を落とすと再び浅井家の食客となったものの、織田家配下の木下藤吉郎が説得し、その与力として織田家に仕えている。惜しい、と喜右衛門は唇を噛んだ。あの人がいれば浅井家は天下を取れなくとも一級の国家を築けたはずだ。あの人から学べる人が増えれば知識人が集まり優良の士が小谷城に集まったに違いない。そう思えてならなかった。
 八月七日、浅井家は佐和山城に信長を迎えた。この城は琵琶湖の東側にあり、水運を扼するとともに東山道、北国街道が麓を通る交通の要衝であり、山の急斜面の上にあるため堅城としても知られている。二百の馬廻りとともに来た長政は城門で信長を待ち受け、その四分の一の兵を率いて信長は現れた。
 見ると、目つきが厳しく鷲鼻が目立つ美丈夫だった。いわゆる鎧直垂姿で、梨子打烏帽子を被り、褐色の小袖と大口袴をはいている。大柄な直垂で身を包んだ長政は、人の懐に入ってくるような身軽さに驚き、かつ信頼されているとばかりに破顔した。
「義兄上、お目通りがかない嬉しく思います」
「大儀よ。我らはこれより、先の将軍様を弑し奉った三好の一党を京から排除し、正当な方に将軍位に即いていただく正義の戦いをしなくてはならぬ。よろしく頼むぞ」
 気安い口調に長政は信頼されているものと感極まったようで、本丸に信長を迎えると開かれた宴会で上機嫌で酌をしている。内心ため息をついた喜右衛門は信長の家臣たちの接待を命じられ、酒肴を運んでもてなそうとすると、小柄で目をきらつかせる男と目が合った。小男は笑いかける。
「遠藤喜右衛門殿でございましょうか」
「さようにござる。どちらかでお会いしたことがありましたか」
「いえ、半兵衛に浅井家中で智謀の人はこの人、と教えられておりましたから」
 半兵衛が仕えた木下藤吉郎だと分かり、喜右衛門は頭を下げた。恐縮とばかりに藤吉郎も頭を下げたが、ともに酒を飲んでみるとけたたましい声を上げた。
「それがし、卑賎の身ではありますが我が主は認めて下され、このたび上洛の軍に参加させていただくことになりました。この藤吉郎、粉骨砕身の働きをするつもり」
 片腹痛い、という気持ちが働いていた。このような男にあの半兵衛が仕えたのか、と考えると軽く嫉視も覚えた。藤吉郎は隠棲していた半兵衛を連れ出したが、その時の様子をとくと語る。
「どうか我が師になって下され、と両手をついてお願いしたのです。あなたを教師とし、何があってもあなたの言葉に従いましょう、と。半兵衛はそこまで言われるのであれば、と不承不承立ち上がってくれましたが、今は軽々しい振る舞いはするな、と叱りつけてきます。言質を取られている分逆らえず、羽目を外すこともできません。ですが、教育というものはこういうことだ、と納得しているのです」
 教育、という言葉に喜右衛門は盃を置いた。主君への遠慮もあってこれまで長政を叱りつけたことはなかった。忠言を受け入れる余裕があれば半兵衛は浅井家に留まったかもしれない。年若く、新参の者を重用することができなかったのは、家中に閉鎖的な空気があったからだ。苦々しいものをこらえていると、藤吉郎の舌は滑らかに動いた。
「明日の軍議では、上洛の計画をともに練ることになります。先んじてお知らせしておきますが、まずは六角殿にも味方に参じるようお願いするつもり。そのあたり、よろしいでしょうか」
「我らは六角氏と長年争ってきました。今になって和睦せよ、と言われましてもすぐに承諾できることでは」
 喜右衛門は難色を示していた。なんとなく協力したくない、という気持ちが湧き上がっている。争うことになっても構いません、と藤吉郎は素知らぬ顔だった。
「なにしろ、六角承禎は以前対立した三好三人衆と誼を通じておりましては。通達に応じることはない、と我らも見ております」
「では、戦う名分を得るために使いを出すのですね」
「珍しいことではあるまいかと。新しく公方になられる義昭公は兄の仇に通じた者を許すことはできないでしょう。浅井家も軍を出し、信長公の覚えをめでたくするよう、忠告しておきます」
 やはり織田家は浅井家を格下と見ている。頷きつつ、喜右衛門は越前の朝倉家から美濃の織田家に移動する足利義昭が移動した時、小谷城を宿所にした時のことを思い返した。
 兄が殺されるまで出家の身であった分、武士然としたところは感じられなかった。やや肥満体であるのは、朝倉家で持て成されたためだろうか。この人に仕えたいとは思わない、と感じており、その点確かめざるを得なかった。
「新しく公方となられても、織田家の後ろ盾がなければすぐに京から追われることになりましょう。その点、どう考えておられましょうか」
 喜右衛門の言葉に、我が意を得た、とばかりに藤吉郎は応じる。
「おっしゃる通りです。公方様と言われればありがたがる人もいますが、実際は我らが指導しなければ何をどうすればよいかも分からぬ人なのです。常識と節度のある態度を取っていただければよいのですが」
 やはり織田家は義昭を傀儡とするために将軍に据えるのだと理解し、喜右衛門は表情を消した。翌日、軍議では藤吉郎が語ったことを信長が長政たちに伝え、理解を得るとそのまま佐和山城に留まった。六角氏の返答を待つ、ということだった。
 その日のよる、喜右衛門は長政の寝所に赴いた。眠そうに目をこする長政に、今夜のうちに信長を討つべしと進言し、主君を仰天させた。
「本日、我らは協力を約したのだぞ。その日のうちに掌を返せというか」
「織田殿は将軍家に立ち替わり己が天下人たらんと欲しています。天下を安んずるつもりはないでしょう」
「将軍家に権威も実力もないことなど儂も承知済みよ。義兄上は幕府の後ろ盾となるつもりなのだ」
「よく考えられよ。新しく将軍に据えた後、影と操り使い捨てるつもりでしょう。今のうちに亡き者にしておくべきです」
 喜右衛門の言うことを、長政はやんわりと否定した。
「儂は、地方の者は将軍の命令に従い各地を治めるのがよい、と思っている。その将軍を立てるという義兄上の正義を、儂は信じた。信じたればこそ、協力しなければならない。儂はあの方のようになろう志してここまできた。ゆえに、序列があの方より下であっても構わぬのだ」
 やはりこの方は湖北の地を治めるだけの器の人、と喜右衛門は嘆じると、では、と改まった。
「今後、織田殿が何を言われようともその令に従いますよう。それだけは注意しておきます」
 分かっておる、と長政は手を振り、喜右衛門は追い返された。その後六角氏がはっきりと協力を拒んだために力攻めをすることになったが、長政は上洛軍に五百の兵を添えるだけとした。
「六角氏を追い払っても、その領地を我らに下さることはないようだ」
 長政は近江一国を与えられるつもりでいたが、軍議では領地についての話し合いはなく、無視された、と憤懣やるかたないように見えた。
「敵はあの六角ぞ。手こずるに違いないわ」
 その時に援護の兵を送り、恩を高く売るという。小さな仁に過ぎない、と喜右衛門はため息をついた。損得勘定なく織田家を支援する、という態度を取らない限り、信長は長政のことを高く評価しないだろう。それを思いつつ喜右衛門は浅井玄蕃が兵を率いて出るのを見送ったが、ただの一戦で織田家は六角氏を破ってしまい入京を果たしたと聞いて黙り込んだ。
 足利義昭が京に入ると玄蕃は戻ってきたが、わずかな兵しか出さなかったことを織田家の群臣になじられたとこぼした。
「織田家の同盟国である徳川家も兵を出し、そちらの方は果敢に六角氏の居城、観音寺城を攻めた。我らは主君の言われる通りに後備えになっていたが、幕府奉公の気構えが足りぬ、ということらしい。浅井家は小さい、この程度が限度であろうとあざ笑う声もあった」
 これ以上の協力はいかがなものか、と目で訴えている。喜右衛門も頷いたが、義昭が将軍になっても報酬はなく、朝廷からそれなりに官位が贈られることもない。長政はふさぎこむようになり、喜右衛門もいつしか織田家のことを口にしなくなっていた。
 だが、義昭が宿所としていた相国寺で三好三人衆の残党に襲われた時には長政は兵を動かした。信長にとって自分は必要な人間であると証明したかったのだろう、義昭にも賞賛されると満面の笑みで、喜右衛門はその無邪気さが心苦しかった。
「なんのために兵を動かしているのか」
 小谷城の支城の一つ、横山城を預かる三田村左衛門に難癖をつけられ、喜右衛門は気鬱に応じた。高齢ながらもそれと分かるほどに筋骨隆々としており、頭髪もひげも白いが当人は不衛生で、なかなか風呂に入らないためにいつも周りに人がいない。
 喜右衛門も辟易としたが、議論を始めると知らないうちに一晩が経っていた。織田家は浅井家を軽く見ていると左衛門が言うと、そのような相手に自信の妹を嫁がせるものかと喜右衛門は応じ、左衛門はお市の方は二十二歳、いき遅れを仕方なしにあてがったのよと左衛門は怒鳴る。それについては事前に喜右衛門は調べていて、お市の方は実母の土田御前がふさぎこみ、その看病のために嫁げなかったのだと答えたが、そこから意見は堂々巡りとなった。互いにののしり合うこともなかったが、議論し尽くして気力もなくなり、座敷で座ったまま眠り込んでいたので、朝になると笑い合っていた。
「御老人の浅井家への思い、痛み入りましてございます」
「いや、喜右衛門の苦労も分かった。今後はなにかれとなく相談してくれい。儂も力になろう」
 左衛門はかっかと笑う。喜右衛門も静かに応じたが、織田家から伊勢に侵攻するのに援軍をよこすよう長政は要請され、磯野丹波守が出陣した。織田家は領地を広げたが、浅井家には何も与えられず、将兵ともに不満をくすぶらせた。
 信長はやがて、義昭の行動を掣肘するようになり、永禄十三年の一月二十三日、五か条の条書を突き付けて勝手な行動を戒め、さらに諸大名に回状を発して幕府、しいては織田家に従うよう命じたが、その内容を見咎める者がいた。
 近江では京極氏を浅井家の上に置いていた。浅井家の本来の主筋であり、序列としては正しいが、もはや力の差は歴然としている。あのような者たちの下に我らは置かれるのか、と怒気を発する配下を前に長政もその気になった。
「喜右衛門、儂はあの方の義弟よ。同列とは言わんまでも、侮りを受ける謂れはないはずだ」
「その通りです。ですがあの時、殿は信長を信じた。もはや織田家は我らが手出しできぬほどに強大となっております。この上は従うしかないかと」
 尾張・美濃・南近江・伊勢までも勢力下に置いた織田家に勝てるとお思いか、と喜右衛門が迫ると、長政は身を震わせた。
「臣従して配下となるべし、とお前は言うのか」
 睨まれ、それしかありますまい、と喜右衛門は語調を改めた。
「あの時信長を殺すべし、とそれがしは進言しました。殿は約定を違えるわけにはいかんと取り上げられなかった。今となっては信長に従うしか、浅井家が残る道はありませぬ」
「お前は信長が天下を取ると思っているのか」
「もし信長が征夷大将軍となり幕府を開けば、殿は名実ともに信長の配下。そうなってもよい、と判断したのは殿ではありませんか」
 両雄並び立たずと言います、と喜右衛門は長政を見た。深くため息をつくと、長政は無念そうに呟いた。
「儂は、うまく騙されたのだな」
「信長を殺して公方様を擁立する器量も殿にはなかった。当家のため、こらえられるべきかと」
 それでは六角氏を打倒しようとした頃に逆戻りよ、と長政は書状を広げた。
「今の将軍から手紙が来ておる。天下のために信長を討て、と」
 足利義昭は信長に反発する土豪らを煽り立て、反逆の兵を挙げるようそそのかしている。文面からそれを察すると、小人が束になったところで信長を倒せるものですか、と一蹴した。
「当家だけで信長を打倒する、という覚悟もないのに、謀反を起こすとは身の程知らずと言うのです」
「倒せなくともよい、儂はかの人から同格の者と認められたいのだ」
 憧憬とした人に従うのではなく、ともに立つ者と見なされたいという声に、よろしいでしょう、と喜右衛門も覚悟を決めた。
「それがしは殿に一国の君主たる人であれ、と望みました。それがしも殿が信長に頭を垂れ、その一言一言に恐々とするところなど見たくもありません。この上は、ともに下剋上を成し遂げましょう」
「下剋上か。主筋と思ったことなど一度もない」
 長政はそう笑ったが、喜右衛門のお市の方とその間に生まれた子供を織田家に帰すべし、という言葉には反論した。
「お市は信長が儂のことを認めた証拠よ。娘も含めて、手放すことなどない」
「では約束していただきたい。今度お市の方様が男児をお生みになっても、跡継ぎにはしないと」
 儂の世継ぎは万福丸よ、という言質を取ると、信長が越前の朝倉家を攻めた時、と喜右衛門は声をひそめた。
「その時こそ、反逆の兵を挙げるべし。深入りしたところで退路を断つのです」
「お市は
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