第1話

文字数 3,431文字

「新九郎は、この川の由来を知っておるか」
 太く高い声に、遠藤喜右衛門は耳をそばたたせた。目の前にいる大柄の女性は尼で、己より優に頭一つ分背が高い。体重もあるようで、主君の姉ながら重量をつい目測してしまう。
 横にいる主君もやはり大柄で、肥満している。この少年は十五歳になるが、この体躯は主家である浅井家の血筋によるものなのか、一族の者はみな背が高い。そのくせ引っ込み思案で、誰の目にも柔弱に映った。
 永禄二(1559)年四月、近江国浅井郡に流れる姉川のほとりで、喜右衛門は大柄な姉弟がたたずんでいるのを見守っていた。姉川は東にある伊吹山に水源を発する大河で、急流によって氾濫を繰り返すも恵みをもたらす思い出深い川だ。やがて琵琶湖に注ぐが、その様を見ていると己も亡くなれば湖に吸い込まれると想起させ、時に喜右衛門は手を合わせることがあった。
 喜右衛門は二六歳になる。浅井家譜代の家臣で、少年期に当主である久政の命で嫡男の守役となった。大柄な子の守りとなるなら同じように背の高い男でなくてはならぬ、という理由で選ばれたが、それまで武辺一辺倒だった喜右衛門は自ら学び、史書を読み兵書の講義を聞いて新九郎の助けとなるよう励んだ。顔は細長く、人の好さだけが目立つ朴訥な男、というのが周囲に与える印象だった。
 目を伏せた時、新九郎が言葉を返した。湖北の者であれば誰であれ知ったことです、と舌足らずな口調だった。
「昔、伊吹山で大雨が降った時、山の中に大きな池ができました。近くの者はもし池が溢れたらみな流されてしまうと危惧し、みなしごの姉妹を人身御供と差し出しました。池に落とされた姉妹は二匹の龍と化し、琵琶湖を目指したのです。姉の龍が通った道が姉川となり、妹が通った道が妹川とも呼ばれる高時川となったのです」
「その姉妹に。お前はならねばならぬ」
 姉の一言に、喜右衛門はかける言葉を失った。この方は我らが切り出せぬことを代わって伝えているのだと分かると自然に頭が下がった。弟の方は分かっております、と頷いていた。
「父の代わりに戦え、というのでしょう」
「そう、父は苦しんだ。祖父と比べられることを恐れ、当主という地位に苦しみ、戦に出ることを拒むようになった。気の毒な方だとは思う。だが、世の中は怯懦を許してはくれんのだ」
 弟をそう慰めると、お前は強くなければならぬ、強くなければ生きることはできないのだと語彙を強くした。
 少年は浅井新九郎という。琵琶湖の北東にある湖北三郡(近江国の坂田郡・浅井郡・伊香郡)と呼ばれる地域の領主、浅井久政の嫡男だ。浅井家はもともと北近江の守護、京極氏の家臣に過ぎなかったが、京極氏の家督争いから勢力を伸長し、やがて主家を凌いだ。だが久政の代で南近江を治める六角氏に敗北し、今は従属を余儀なくされていた。
 久政は三十四歳の男盛りだが、敗戦以来戦いを厭うようになっていた。新九郎と同じように巨躯を誇るもいかにも肚が据わっておらず、戦場では落ち着きなく右往左往する。引きつった顔で采配を振る姿が滑稽で、家老たちも愛想を尽かしているが、それでもこの地に留まるのは湖北の地を守ろうという気概があるからだ。彼らのために、新九郎は英明でなくてはならなかった。
 この月、事件が起きた。一月に十五歳になった新九郎は六角氏当主の義賢(今は出家して承禎と名乗っている)から「賢」の偏諱を貰い、名を「賢政」として元服し、義賢の養女を妻とした。だが新妻は新九郎の巨体ぶりを嫌がり、三か月で去って行った。六角氏と手切れとなることを久政は懸念し、一方で家老たちはこれを機に反逆の兵を挙げるべしと主張している。憐れだったのは新九郎で、妻を愛そうとしたものの誠意が通じなかったことに気落ちしている。口論する父親と家老たちの間で所在なげにしている新九郎を見かねて喜右衛門は気散じを提案し、浅井家の居城、小谷城の付近にある実西庵で出家している腹違いの姉、見久尼を訪ねた。
 新九郎にとっては頼りになる姉だ。姉川を見ようと言われ徒歩で向かったが、二人とも巨体であるため領主の子息でなくとも一目を引いた。五尺六寸(176センチ)の身長ばかりでなく、双方とも体重は二十八貫(105キロ)を過ぎている。水流を眺めつつ、見久尼はやがて新九郎を励ますが、それがしは変われないのです、と首を振るばかりだった。
「妻に好かれるように努めましたが、何も通じなかったのです。それがしは人が怖い。だから人当たりのいい振りをしているのです。家老たちにも丁寧に接し、誰にでも愛想笑いを浮かべ、嫌われぬように心がける。大柄だから強いだろうと仰がれますが、本当は刀を見るのも怖い。斬られれば命を失うと思うと、掴むこともできぬのです」
「新九郎はいい子だからそう思うのです。三年前、わらわは出家した。嫁げと言われたが、このなりじゃ、嫁に願う男はおらぬ。出家して新九郎を守りたいと答えると、父は許してくれた。それだけお前のことを案じているのだ」
「しかし、それがしはどうすればよいのでしょう」
「大嘘つきになりなされ」
 見久尼は笑う。
「もうすぐどうするか、会議となるのでしょう。その時もしお前のことを不甲斐ないという輩がいれば、我を侮る六角など打ち破ってくれる、と放言なされ。家臣らは恐れ入り、お前に従うことでしょう」
「しかし、それがしにできるでしょうか」
「できる。お前なら、できる」
 敵以上に味方の視線に耐えられるか、と新九郎はいつも懸念していた。喜右衛門は守役として、剣の稽古や兵書の講読をしていたが、できないなりにも新九郎は懸命に向き合った。やがてどちらも上達が見えたので些細なことでも喜右衛門は褒めた。克己に務めた新九郎のことを一人前の武士と認めた。ならば今度は送り出さねばならぬと声を強めていた。
「殿、それがしは殿がほら吹きであってもかまいませぬ」
 新九郎が振り返る。本当になればよいのです、と告げる。
「ついた嘘が事実となれば、嘘をついたことにはなりません。それがしは殿の大度を信じたからこそ、あなたに仕えたのです。気概をお持ち下さい」
「分かった。どうすればよい」
「会議では我慢なされ。容赦できぬと思えた時、怒ればよろしい。それと」
 喜右衛門は深く息を吸い込んだ。
「六角氏に勝つことも、己に勝つことも、同じことです」
 新九郎は次の瞬間、身を固くした。上背をそらし、喜右衛門を見つめる。
「喜右衛門、我が後ろに控えよ」
 その足で小谷城へ戻った。すでに新九郎に迎えた姫が立ち去ったことについて久政と家老たちが唾を飛ばして話し合っており、姿を見せた新九郎に誰しも目線を外した。久政はあくまで六角氏に従うと主張しており、家老たちも断念しようとした時、新九郎は前に進み出た。
「父上は六角を恐れるに余りある。あなたがそんなことだからそれがしも嫁に侮られるのです。本当に一家のことを案じているのでしょうか」
 普段と違い、父親を糾弾し始めた新九郎に、その場は静まり返った。一方で喜右衛門は新九郎の抑圧された自我が父親への反抗という形で現れ、それがよい方面に発芽したと快哉を叫びたくなった。小癪な、と久政は声を荒らげる。
「戦っても勝つことはできぬのだぞ。六角氏は我らの五倍の兵を集めることができる。近江源治の一族として、隠れなき実力を持っているのだ」
 そもそもお前が嫁に逃げられるからいけないのだ、と久政も怒りを見せるが、新九郎は止まらなかった。
「我らが主と仰いだ京極様ももとは六角氏と祖を同じくするもの。祖父亮政はその一家臣でありながら小谷城の主となり、下剋上を遂げて主家を凌ぐ力を得ました。成り上がり者が叩かれるのは世の常のこと。父上、ここで恭順を示せば六角氏はさらに我らを見下した態度をとりましょう。それがしは性根の腐った女を妻とすることはできず、追い返したのです。ここで手切れとし、増上慢を思い知らせてやりましょう」
 家老たちから歓声が上がった。新九郎様の言、まさしく我らの心と合致いたしますと一番家老の赤尾美作守が応じ、一丸となって六角を討ちましょう、と全員が声を張り上げる。不快さを顔に出した久政は勝手にせよと席を立ち、会議は終わった。
 全員が新九郎を当主として仰ぎ、取り巻いていた。当人は憑き物が落ちたかのように晴れ晴れとした顔をしている。喜右衛門は一礼をして退くと、一年後には大戦になることを自覚して空を見上げていた。
 



 
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み