第12話 忠誠の帰結

文字数 2,682文字

 降伏は決まったが、正式なそれは五日後となった。
 洛陽内の兵や民への説明や後始末などもあるが、包囲する劉秀の兵を一定距離退かせる必要があったのだ。
 朱鮪(しゅい)は劉秀と岑彭は信用したが、他の将たちのことはほとんど知らない。中には功名に駆られたり、誤った忠誠心をもって朱鮪を(だま)し討ちする将がいないとも限らなかった。少なくとも朱鮪や彼の兵を安心させるためにある程度距離を開けるのは必要なことで、これは劉秀自身が将たちに指示していた。
 例外は岑彭の軍だけである。朱鮪の降伏を直接受け容れる将は彼以外いなかった。


 だが諸将が退いても朱鮪はまだ完全に警戒を解いていない。それは自分ではなく、あくまで兵のためである。
 約束の日時、洛陽の城門が開かれると朱鮪があらわれた。
 全軍をともなってではない。数騎の軽騎兵のみを率いてである。
 騎兵を連れた朱鮪は岑彭のもとまで近づくと、あらためて久闊(きゅうかつ)(じょ)することもせず厳しい表情で告げた。
「洛陽に残っている兵には、もし私が還らなければただちに轘轅(かんえん)(洛陽の東南にある山)に上り、(えん)王に()するよう命令してある」
 郾王とは尹尊(いんそん)のことで、朱鮪同様、以前は更始帝に仕えていた。郾は洛陽のある河南尹の隣郡にある。
 更始帝が完全に没落したこの時期、尹尊は封地の郾で独立し、勢力を保っていた。
 朱鮪はこれから劉秀に謁見(えっけん)し、降伏を確約し、兵の安全を確保し、その上で開城するつもりだった。
 もしそれが成らなければ兵は尹尊へ降伏させる。
 これはそのための保険であり、脅しでもあった。


 尹尊は後に劉秀からその強さを認められるほどの男である。
 この時勢、尹尊でなくとも兵はいくらでも欲しいはずで、朱鮪の兵を喜んで迎え入れてくれるだろう。
 洛陽籠城中、尹尊に援軍を求めなかったのは、もしかしたら朱鮪とは折り合いが悪かったのかもしれない。あるいは援軍を求めてしまえばどうしても尹尊の下位になり、なし崩しに彼の傘下に入ることになりかねず、それを恐れたのかもしれない。
 朱鮪はもう自らが認める主君以外に仕えたくなかったのだ。


 だがそれならなぜ洛陽に籠城したまま尹尊に降伏するよう命令しなかったのか。天下の名城である洛陽を手土産にした方が、尹尊は喜ぶであろうに。
 つまり朱鮪は、もし仮に自分が騙され捕殺されたとしても、洛陽だけは劉秀に引き渡すつもりだったのだ。
 それが降伏を認めてくれた劉秀への、朱鮪の感謝のしるしだった。
「構いません。参りましょう」
 乱世の将の一人である岑彭は、朱鮪のこの処置を卑劣とは思わず、むしろ当然のことと是認している。
 それどころかその覚悟と心遣いにあらためて感服しつつ、朱鮪を連れ、劉秀のもとへ向けて進発した。


 このとき、劉秀は河陽に戻っていた。洛陽へ親征する前に行幸していた土地であり、なにかと都合がよかったのであろう。
 当然洛陽からも近く、朱鮪もすぐに到着し劉秀の前に現れたが、その姿は後ろ手に縛られた罪人のものだった。
 もちろん岑彭が縛ったわけではなく朱鮪自身が望んだものである。自らを罪人と称し、その身命を相手に差し出すことで全面降伏の意を示しているのだ。
 そしてこれももちろん、劉秀はすぐにその縄を解かせ、あらためて朱鮪と対面した。
「兵はどうした」
「洛陽に残しております」
 劉秀に尋ねられた朱鮪はその理由を告げる。その内容は岑彭に告げたものと同じで、劉秀も気を悪くすることなく、朱鮪の筋の通った用心深さと周到さにあらためて感じ入った。
「では急いでおぬしを洛陽へ戻さねばな。朕としてもおぬしの精兵を、むざと尹尊に奪われてはたまらぬ。岑廷尉、すまぬがまた左大司馬を洛陽へ送ってやってくれ。おぬしでなければ左大司馬も信用できぬであろうからな」
「御意にございます」
 諧謔(かいぎゃく)交じりに真情を告げた劉秀は笑って命令し、朱鮪の横で膝をつく岑彭も神妙にそれを受ける。
 細かな話は兵を連れた二人が戻ってきてからと、劉秀は立ち上がって引見をすませようとするが、ここで朱鮪が顔を上げ、思い切ったように新たな主君へ(ただ)してきた。


「陛下、なぜ私をお許しくださいましたか。李軼(りいつ)は許されませんでしたのに」
 朱鮪としては、やはりどうしても確かめずにはいられなかったのだ。
 古代中国において、親族を殺されれば復讐を誓うのはほぼ常識と言っていい。現に朱鮪を介してとはいえ、劉秀は李軼に報復している。
 なぜ自分だけが例外なのか。それともやはりいずれ復讐の対象になってしまうのか。
 劉秀が真意を語るかはわからないが、それでも本人の口から理由を聞いておきたかったのだ。


 問いを受けた劉秀は、まず朱鮪が自らの謀略――朱鮪を使って李軼を害させた――に気づいていたことに驚いた。この降将(こうしょう)は想像以上に優秀な男かもしれない。
 そう考えて少し表情をあらためると、立ち上がろうとした椅子にまた座りなおして答える。
「李軼はおぬしとは違う。あの者は兄を盟主として朕と共に舂陵の挙兵に参加しておきながら、おのれの栄達のために我らを裏切り、あまつさえ兄殺害に加担したのだ。絶対に許せぬ」
 口調は静かだが劉秀の怒りは本物だった。
 時代に冠絶する大器の彼をして、やはり時代の影響を完全に排することは不可能だった。
 だがだからこそ、彼は時代から乖離(かいり)することなく臣下にも民衆にも愛されたのだ。
 朱鮪にも劉秀の怒りは共感できるものだった。


 その朱鮪に、少し表情をゆるめて劉秀は続けた。
「だがおぬしに対しては、最初から恨みはほとんどなかった。兄のことも、朕の河北派遣阻止のことも、おぬしの行動や諫言(かんげん)は常に無私で、すべて長安の皇帝のために為したことだとよくわかる。それにその後のおぬしを見ても、自身が冷遇されるとわかっていながら、正しき諫言、正しき行動を繰り返しおこなっている。そのような忠臣を考えもなしにただ感情のまま殺しては、朕の(かなえ)軽重(けいちょう)が問われようよ」 
 劉秀のその答えに、朱鮪は上げていた顔をはっとうつむけた。
 漢王朝への忠誠。それは朱鮪が誰にも理解されないまま貫いてきた信念であった。その信念を理解してくれていた人がいたことに、反射的に涙がこぼれそうになったのだ。
 劉秀とはさほど面識もなく、まともに会話をしたこともなかったのにである。
「劉秀とはこれほどの男だったのか」
 更始帝とは雲泥の差があり、歴代漢帝の中でも彼にまさる者はほとんどいないであろう。
 そのことを実感した朱鮪は、きつく(まぶた)を閉じながら、生涯変わらぬ決意を心に刻みつけた。
「私の忠誠はこの方にすべて捧げよう」
 朱鮪は自らの人生を懸ける相手を見つけたのだ。
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