第3話 劉縯謀殺

文字数 2,872文字

 しかしそんな朱鮪(しゅい)の忠誠心が一つの悲劇を生んだ。
 劉稷(りゅうしょく)という男がいる。勇は三軍(全軍)に冠たると称されるほどの猛将だが、彼は劉縯(りゅうえん)びいきで、更始帝を見下していた。
 更始帝らはそんな劉稷を苦々しく思いながらも彼の武勇を惜しみ、抗威将軍に任じて懐柔しようとしたが、劉稷はこれを拒否。激怒した更始帝らは数千の兵を率いて劉稷を捕えるが、そこへ彼の危機を知った劉縯が飛び込んできた。
「お待ちを陛下! なにとぞお待ちを!」
 息せき切って駆け込んできた劉縯は、縛られた劉稷の隣にひざまずき、更始帝らを説得しはじめた。
「稷の無礼なること、陛下のお怒りはごもっともなれど、かの者の武勇は大漢、ひいては陛下の(おん)ために必要なものにございます」
 膝を折り、(こうべ)を垂れる劉縯は、劉稷助命の嘆願を繰り広げてゆく。それは理においても情においてもほぼ完璧で、いきり立っていた更始帝も、彼の側近である緑林の首領たちも、徐々に熱を冷ましていった。


 が、その中で朱鮪だけは劉縯にまどわされなかった。
 朱鮪は劉縯の言を聞きながら、その裏にあるものを探り続けていた。
 実はこの日より少し前、更始帝一派は、(うたげ)にまぎれて劉縯を暗殺しようとしていたのだ。功績と名声のありすぎる臣下は、乱世の主君にとって危険極まりない。いつ簒奪されるかと思えば小器の主君がそのような暴挙に出るのはむしろ自然な話で、そして更始帝と彼の側近は小器そのものだった。
 この暗殺は更始帝が土壇場でおじけづき未遂に終わったのだが、劉縯は彼らの目論見に薄々感づいていたらしい。
 それでも劉縯は更始帝らに恐れる色も見せていない。その理由はなにか。
 朱鮪は劉縯の言も、表情も、声音も、仕草も、すべてを深く観察していた。
 その朱鮪に眼力は、劉縯の口角がわずかに上がるのを見逃さなかった。
 それは朱鮪でなければ見抜けない、更始帝たちに対する、侮蔑の笑みだった。
「なりませぬ陛下!」
 朱鮪は劉縯の言を(さえぎ)り、更始帝らへ言い募った。
「縯の言、いかに陛下の御ためを装っても、すべては巧言でございます。そもそも陛下のご聖恩に叛く稷を擁護するなど、縯にも叛意あることは明白。どうぞこの二人に極刑を!」
 朱鮪の表情も口調も激しているが、半ばは演技である。
「ここで劉縯を殺しておかねば、次の機会はやって来ない」
 朱鮪も必死だった。
 劉縯は優秀な男である。ここで劉縯らを生かして帰せば、内外における更始帝の評価はさらに下落する。その評価を後ろ盾に、劉縯が本当に叛乱を起こし、更始帝一派を討ち滅ぼすことも充分ありえるのだ。
 いや、更始帝の疑心を察する劉縯は、自らを守るためにも必ず蜂起(ほうき)する。
 そしてそれは必ず成功する。
 そうなれば朱鮪も共に殺されるかもしれないが、今の彼は自らの命より更始帝、というより皇帝という存在を守るために命を懸けていた。


 前漢が滅ぼされて以来、朱鮪はおのれの居場所を探していた。
 新に服することもできず、かといって自らが立ち上がって新に叛し漢を再興することもできなかった。
 まがりなりにも居場所を与えてくれたのは更始帝だったのだ。
 朱鮪には恩があり、なにより漢の天子(てんし)(皇帝)と社稷(しゃしょく)(国家)に忠誠を尽くすことは、彼の祖先から骨髄に染みついた習い性である。


 朱鮪は隣に立つ李軼を肘で突いた。このとき李軼は更始帝陣営の一員として劉稷捕縛に随従していたが、正式に劉縯一派から抜け出したわけではない。そのように中途半端な立場だけに、李軼もこの場では何も言わず、何も言えず、ただ成りゆきを見守っていたのだが、朱鮪に小突かれたことで軽く我に返った。
 と、そこには鬼神のような眼で自分を見る朱鮪の顔があった。
「この場でどちらにつくか決めよ。さもなければ私がおぬしを殺す」
 言葉はなくとも朱鮪の眼はそう告げている。それを感じ取った李軼は蒼白になり、即座に旧主を捨てる決心をした。
「さようにございます陛下。縯はこれまでもしばしば陛下を軽んずる言を口にしていたのを、臣は幾度も耳にしております」
 ややたどたどしく、李軼は「証言」する。
 すべてが出まかせではない。その性に増長の気がある劉縯は、確かに更始帝を見下していた。しかし明確な叛意につながるような悪口(あっこう)を発したことはなく、ましてそれを李軼の前で口にするはずもない。
「お待ちを、陛下!」
 李軼に対する怒りより、突然訪れた命の危機に、さすがに劉縯も表情を変えて弁明しようとする。
 が、このときすでに、更始帝も側近たちも、自分たちが劉縯を殺したがっていたことを思い出していた。
「こ、殺せ! 縯も稷も殺してしまえ!」
 劉縯の必死の表情から顔をそむけ、更始帝は裏返る声で命じた。
「勅命である! すぐに二人を斬首せよ!」
 その命令に朱鮪はすかさず反応し、背後に控える兵たちに命じる。
 それから二十を数える間もなく、劉縯と劉稷の首は兵たちによって斬り落とされ、誅殺された。


 劉縯と劉稷の遺体が片づけられる間、朱鮪はわずかに茫然としていた。
「これでよかったのだろうか…」
 劉縯の方が更始帝より皇帝にふさわしい人物であることは朱鮪ですら認めている。あるいは劉縯に叛乱を起こさせ、更始帝を()い、皇帝を()げ替える方が漢にとってよかったかもしれない。
 そのために自分が更始帝一派として劉縯に殺されたとしても、大漢帝国のための殉死と思えば悔いはない。まして一度は忠誠を誓った更始帝に殉じるのだ。常に忠臣たらんと欲していた自分にとって、それこそが理想の死ではなかったか。
 だがあのときはそのようなことを毛ほども想起しなかった。ただただ更始帝の命と権威を守ろうと必死だった。
「そうだ、これでよかったのだ」
 もし劉縯を助け、更始帝を死なせていれば、朱鮪は間接的に主君を殺した逆臣として自分を一生許せなかったであろう。
 真の忠臣とは、皇帝個人ではなく皇帝という存在そのものに忠義を尽くすものである。個人において皇帝が(みち)をあやまろうとしたときに命を惜しまず諫める者である。いかに天下の一部しか治めておらぬ皇帝であろうとも、漢帝を称する御方に自らのすべてを捧げ、尽くしきる。
「それが朱鮪という男の生きる道だ」
 そう納得すると、朱鮪はここでようやく李軼のことを思い出した。
 見ると彼は蒼白になっている。
 それはそうだろう。いかに半ば離反していた相手とはいえ、劉縯は起兵当時から大将として仰ぎ見ていた男なのだ。それを裏切り、あまつさえ処刑に直接加担してしまったのだから、李軼が衝撃を受けるのも無理はなかった。
「案ずるな。悪いようにはせぬ」
 李軼をさほど高く評価していない朱鮪だが、直接裏切る契機を作った身としてはそう言うしかない。李軼は必ずしも無能ではなく、また朱鮪自身も無情ではないため、彼を放り出すなどできなかったのだ。
 だが様々なことが突然に起こりすぎて頭も心も落ち着いていなかったせいだったろうか。朱鮪は気づいていなかった。
 更始帝たちがすでにこの場から立ち去っていたことに。劉縯誅殺の最大の功労者である朱鮪に一言の褒詞(ほうし)すら与えずに。

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