文字数 2,205文字

 お互い呼吸が落ち着くのを待ってから、サトルに連れられて川沿いの遊歩道まで移動した。

 ベンチに並んで座る。正面に見える川は茜色の空を反射して、輝いていた。

 先に口を開いたのはサトルだった。

「ごめん」

 それは、何に対する? 

 答えを求めて顔を上げると、そこにはひどく狼狽した表情があった。それでも彼は何とか微笑んで、言葉を加える。

「僕は察しが悪いから、言葉で教えて欲しいな」

「……」

 わたしは顔を背け、川の向こう岸に向かって尋ねた。

「……ユキのヘアピン、なんでサトルが持ってるの?」

「ユキのヘアピン……?」

 サトルは復唱したあと、黙り込んでしまった。

 やがて「あっ!」というサトルの声がした。そして布の擦れる音と、「しまった……」という苦々しい独り言。

「これ、ユキって人の?」

 サトルはヘアピンを手のひらに乗せて見せる。やはり、ユキがいつもつけていたものだ。

「……たぶんそう」

 わたしがぶっきらぼうに答えると、サトルは慌てて謝った。

「ああ、ごめん。質問に答えてなかったね。今朝、拾ったんだ。駐輪場で」

「どうしてそれが今、ポケットに入ってるの」

「すぐに教務室に届けるつもりだったんだけど、途中で園山(そのやま)くんに捕まっちゃって。園山くんってあの、去年クラスが一緒だった」

 背の高い、そばかす顔の男子が浮かんだ。活発で運動が得意な反面、勉強は苦手で、たびたび他人のノートを書き写していた。

「1限目の数学の課題ができてないとかで、付き合わされたんだ。一緒に問題を解いてるうちに、すっかり忘れちゃって」

 それで、今の今までポケットにしまいっぱなしだったらしい。

「……ほんとうに?」

「そんな嘘ついて何になるのさ」

 サトルはきょとんとする。 

 どうやら、謝らなければならないのはわたしのほうらしい。けれども、一度むすっとしてしまった手前、簡単に態度を改めることができない。それにやっぱり、ややこしいふたりがややこしいタイミングでうっかりを重ねるなと言いたい。

「……ユキって、1組の友達なんだけど」

「うん」

「すごく可愛いモテる子で、前にサトルのことを褒めてたの」

「そ、そう」

「それで、そのユキのヘアピンが、サトルのポケットに入ってるのが見えたから、ふたりの間に何かがあったのかなって、勘違いしちゃっただけ」

 努めて淡々と説明したつもりだが、やっぱり顔が熱い。じっとしていられなくて、さらに続ける。

「それにこの前、わたしが熱出して映画に行けなかったことあったでしょ。あのときの試写会の半券を、ユキも持ってたの。サトルは妹さんたちにあげたって言ったけど、嘘かもしれないじゃん。それも重なって、パニックになっちゃったの」

 サトルは優しい声で「そっか」とだけ言うと、携帯を取り出して何やら操作を始めた。そしてその画面をわたしに見せる。そこには SNS の投稿が表示されていて、上映前のスクリーンをバックに試写会の半券とポップコーンが写っていた。

「これ、妹のアカウントなんだけど」

 文章を読むと、そこには兄から試写会の券をもらい、母親と一緒に観に行ったことが若者言葉で書かれてあった。

「……疑ってごめん」

「いいよ。ヘアピンの方はちょっと証拠ないけど、せっかくノゾミさんと付き合えたのに、そんな馬鹿なことはしないって」

 サトルはやっぱり、子供のように無邪気な笑顔を見せる。

 あっという間に安心させられてしまったのが何だか悔しくて、少し意地悪なことを言ってみる。

「そのわりにサトル、あんまりそれっぽいことしないじゃん」

「それっぽいこと?」

「手をつないだりとか」

「それは、ええと……」

 サトルは困ったように笑いながら、頭をかいた。

「中学のころ、一部の女子たちに『気持ち悪い』って避けられたことがあったんだ。僕の持ち物を投げつけて反応を楽しむ男子たちもいて。そのときのことが、トラウマまではいかなくても残ってて……だから今でも触れたりするのはちょっとためらってしまう」

 その笑顔に微かな悲しみの色がさしたとき、わたしの体はひとりでに動きだした。上体をひねって遠い方の手をつかみ取り、こじ開けてわたしの指を絡ませる。わたしたちはちょうど、鏡合わせのような格好になった。

「そんな奴らの言動に、サトルが縛られることない」

 中庭で返事をしたときと同じように、サトルは真っ赤な顔で目を白黒させている。あの日からずっと、自分の気持ちがわからなかった。だけど今のわたしは、彼の気持ちがわからなくなるのがとても怖い。

「ハグ、しよ」

「えぇっ!?」

「なに? 嫌なの?」

 サトルはぶんぶんと首を横に振る。

「そんなわけない!」

「じゃあ、ほら」

 重ねていた手を解き、両手を広げて見せる。サトルは落ち着きなく視線をさまよわせていたが、やがて覚悟を決めたようにまっすぐわたしを見つめた。そして、おそるおそるという感じで両腕を腕を伸ばす。

 その手は、まるで陶器を扱うかのように優しくわたしの背中に触れた。一瞬震えてしまったのが恥ずかしくて、強く抱き返すと、サトルの腕にも少しずつ力が加わった。体と体がくっついて、彼の匂いと体温が伝わってくる。ついさっき、無我夢中で走っていたときと同じくらい、心臓が高鳴っている。

 なんだ、わたし、こんなにもドキドキするんじゃないか。

 心が軽くなりすぎて、どこかへ飛んで行ってしまいそうだ。わたしはしがみつくように、サトルの体をもう一度強く抱きしめた。
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