第1話

文字数 824文字

     「実和子の時間」



蝉の抜け殻のように衣を残し
逃げ去った相手を より深く想う彼に
実和子は恋する。
いたずらな風で ページが跳ねた。
実和子は指で抑え 続きの文字を追う。

美しき母は尊き父の寵愛(ちょうあい)を受け彼を生むが
病に伏し 逝ってしまった。
父を慰めるために入内した亡母と
生き写しの女性に彼は愛を受け
やがて結ばれる。
その後 空蝉(うつせみ)という名の
気品を具えた女性と出会い
一度は情を通じるが 彼女は再会を拒む。
手紙を送り逢瀬(あいせ)を求めるも遠のき
思いが募る。
夜更けに意を決して忍びこめば
空蝉(うつせみ)は 忘れられぬ彼の香りで察知し
衣を残し
屋敷の奥へと姿を消した。
そうとは知らず添い寝をすると
空蝉(うつせみ)とは別人の若い女人が横たわっていて
期待に満ちて彼を迎える・・。

チャイムの音がした。昼の予鈴だ。
彼女一人を包む静謐(せいひつ)な図書室は
若葉の息吹がゆきかっていた。

夏は古典を読もうと決めて
「紫の物語」を手にした。
古語と口語訳が 対になっている。
読み進めるスピードは 普段より遅い。
きちんと原文の音を楽しみ
艶やかな情景に (ひた)って読んだ。

入学以来通う 上質の場所。
落ち着いた木製の書棚が並び
三階の窓は(にれ)の木立が望める。
そして 数多の蔵書。
生涯をかけても読み尽くせぬ
書籍の一冊ごとに 小さな宇宙がある。
文字は黒糸の模様で
頭の中で紐解ける。
鮮やかな色彩に目を見張るかと思えば
狂おしい情念に 追いつめられる。
あるいは 
経験を超える男女のビジョンに捕われ
戸惑った。

姿勢よく実和子は腰掛け
時折 前髪をはらう。
セーラー襟から伸びた首筋に光が届き
僅かな産毛を際立たせた。
彼女は唇を摘み
一千年の時を隔て 主人公と触れ合う。
彼が一七の夏の出来事なので
実和子と年齢が重なる。
体感する愛の(もつ)れは
まぎれもない初恋になった。

チャイムが鳴った。
レースのカーテンが波打つ。
実和子は薄い腰をそらし 窓へ振り返った。

乱暴な気流が 部屋を訪れる。
追いかけて 雷のような閃光(せんこう)が連射した。
実和子は 視線を落とす。
黒髪を耳にかけ ページをめくった。



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