第2話

文字数 1,912文字

   「安西の時間」


物がなくて困ったもんだと思っていたが、そこら中ありすぎると、
ありがたみを感じないもんだ。
とはいえ、もともと物欲のない俺だ。どっちでも楽しめる。

千駄木からぼつぼつ歩いて三時間ちょい、随分東へ来た。
荒川の土手は久しぶりに踏んだ。河川敷に球場か、緑の芝とサイクリングロードだろ。
長閑(のどか)な風景。なんとも居心地悪い。

対岸へ渡ると江戸川区の葛西だ。
会社の同僚のマンションがここの環七沿いにあって、
酒を飲んだ後、何度か泊めさせてもらった。
二LDKで天井が高い。ワインセラーがダイニングに置いてあった。
俺はワインはやらない。洋酒は日本人の舌に合わないって。

そいつ一緒にバカやるが、俺と違って仕事好きで、勉強熱心な男だった。イギリス、いやドイツか・・・。会社の金で建築デザインの専門校に留学して、それから・・・なんだったっけ。
手紙が来たな。内容は忘れた。陽気な手紙だった気がする。勤めを続けてんなら、立派な役に就いてるだろうよ。

働き者は堅実だ。うらやましいよ。仕事と金、女、うまい食い物、左ハンドルの車は一直線に繋がっていて、わかりやすいもんな。
公式は社会が作ってくれてるだろ、よそ見しなくていい。よそ見が好きなのは俺だ。

疲れたとこで乗り捨てたバイクがあった。でけえ新車も転がってれば、ただの椅子。適当に座って足を延ばし、顎をさすった。くせっ毛の髭がざらりとする。
道路のあっち側のコンビニ。タバコの自販機が倒れて、箱が散在してる。
のっそり立って、がらがらの幹線を渡って、品定めするか。
やっぱセッタだろ。昔ながらのオリジナルのやつ。ひと箱いただくぜ。
葛西橋を超えたら浦安。ここからはもっぱら南へ進む。

ワインはだめだが酒はいいな。特に日本酒、こいつはいい。
俺はツウでもアル中でもないが、辛口の冷って胃に凍みるうまさだね。

富山に仕事で長期出張してさ、他が満室で老舗の旅館に滞在した。
言っとくけど趣味じゃないぜ。
小金持ちの観光客が選びそうなとこさ。旅館の女将がくれた純米酒はよかった。
風呂上がりにすきっ腹で二杯、喉に投げて飲むんだ。
胃に凍みるっていうのはな、じわりと冷たい辛みが腹に刺さる感じで、
俺の飲む顔が「むずがる赤子」そっくりって、女将に揶揄(からか)われたな。
雪国のイメージだろ。緯度は北関東と同じくらいで過ごしやすいんだ。
立山はドカ雪でも、俺がいた黒部は厳しくなかったね。白エビ丼っての、よく食った。

旅館の女将に年の離れた妹がいて、フロントとか配膳で、キリッとした和服姿でよく働く人だった。女将は大柄でずんぐり、妹は逆。どっちも愛想はある。
妹の亭主ってのが銀行員のくせしてギャンブル狂でね、酒も度を越して、妹に手を挙げる。
女将が別れさせたいって俺に愚痴こぼしてさ、暴力亭主も自分の愚かさ認めて、
いやなら別れても構わんらしい。
ところが女の方が、踏ん切りつかず迷ってる。そばに男がいないとだめなんだとよ。
女将から、妹の相談相手になってくれって、白エビかかえて夜な夜な口説かれたっけ。
二〇年前の話だぜ。女将の魂胆はさ、妹の気持ちを汲んでの話しなんだし、まあな。俺も若かったんで、迷いはあった。生き方の迷いがね。

まったくしつこい暑さだね。今年は猛暑。影が去年より濃い。こうなったら陽射しの強い側を歩いてやろう。

駅の構えに着いた。さて、久しぶりの眺めだ。
休みに限らず絶えず人だかりだった。夢心地の例のメロディが流れて、修学旅行の団体やらカップルが、心躍らせて並んでて。
ゲートは顔パス。誰もいねーか。
人間が作った完璧な楽園だよな。人が作れるのさ。
オールウェザーカバーのバザールを過ぎておなじみのお城、回れ左。ヤシの木が茂るエリアが目印だ。
変わんねーな、この建物。
支柱の曲線と窓枠がこだわってんだろ。建材はアメリカ製の直送品。設計指示がやたら細かくて辟易(へきえき)した。夜間作業で短納期、安全対策の書類作成はエンドレス。めんどくせー施工手順で、俺の終いの仕事だった。完成の出来栄え見て、みんな泣いて喜んでやがる。あきれたね。
おあつらえのベンチだ、一服しよう。
きちんとした紙巻タバコなんざ、いつ咥えたか。たまらんな、(むしば)む感じ。
かりそめの快楽と引き換えに、俺の臓器をけがす。
無害なタバコがあっても吸わない。生身の肺が、自由の紫煙(しえん)をつくるのさ。
俺は靴を履いてる。服を着てる。おまけに胸ポケットにタバコときた。十分だ。
物にかぎらず、背負わない生き方って、どうだね。

突風を受けて、前のめりなった。驚かすぜ。
今度は黄色い光が頭を覆う。でかい入道雲が瞬きひとつで消えやがった。
やれやれ、たいそうな天気だ。
俺は足を組み、タバコの煙を心地よく胸にしまう。煙を空に飛ばすんだ。
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