第3話

文字数 2,273文字

   「長谷部の時間」



点滅する信号、死んでいる信号、両方ある。
長谷部(はせべ)は眼鏡のレンズを伝う汗を拭わず、ハンドルを切る。
ドリフト音を立てて旋回するパトカー。車体を左右に揺らし、通りを走行した。
路駐車両が多く、衝突を繰り返す。バンパーは凹み、フロントガラスに亀裂が伸びる。
彼の青い制服のほとんどが、汗で濡れている。
腰ベルトに刺さる口径九mmの回転銃。ベルトと拳銃をつなぐ紐は外れていた。
何処へ行くのか、ぼやけてきた。「辻堂(つじどう)」だと意識を立て直す。ナビ画面の時刻は十一時を過ぎた。残された時間はわずか。
速度が落ちた。アクセルを踏む。だめだ。ガス欠だと諦める。
パトカーを乗り捨て、路上を駆ける。
ゴムの消炎した匂いに嗚咽した。交差点の案内標識は「静岡市草薙」。乗り換えて富士、小田原を超えればたどり着く。
放置車両で試す。キーの付いた普通車がすぐ見つかった。四WDのトールワゴンだ。
数キロ進んだところで、バックミラーに下がったお守りが視界に入った。
マイカーにもあった。妻の手作りの護符はカラフルで、向日葵の花模様だった。
「ご利益ありそうだ、中身はなんだ」と尋ねたら、
「私と娘の写真」と彼女は微笑んだ。

長谷部は妻と一人娘がいる。妻は結婚するまで看護師で、子供が生まれて専業主婦になった。
向こうっ気が強く、娘第一で教育熱心だった。
子供ができると夫婦の会話が減った。妻は夫の仕事に関心がない。命を削って街を守る警務の仕事を、安定した公務員の日課と感じるらしい。
それでいい、どこの夫婦も似たりよったり。新婚時代は終わったし、子供を授かっただけで幸運だ。妻は家庭を守り、子供を大事に育ててくれれば、あとはどうだって。
娘は幼く、人生は始まったばかり。自分には帰る家庭があり、誇れる仕事がある、
と信じてた。
右手の車窓に穏和な海が映る。未だ波は緩い。ワゴンのスピードをさらに上げた。

災いの予兆はずっと以前に遡る。科学者が訴える壮絶な観測に、ほとんどの市民は相手にせず
平穏に暮らし、一握りが徒党を組んで騒いだ。
国は安全を保障し、長谷部たちが力で治安を維持した。
しかし、空の様子が違ってきた。だれが見てもおかしい。
凶兆が具現化し、絶望が目の前になった。
 「避難する場所はある」と、国家が慌てて宣言する。
希望者へ公平な選択が実施された。
妻と娘は選ばれた。長谷部は警官として逃げない。
無理をすれば枠にまぎれこめるが、留まる道を選んだ。
警官の仕事を全うしたいというのは詭弁で、地上のどこへ行っても結局は同じと観念した。
長谷部は妻に、三人家族で残ろうと強く勧めた。説得は有無を言わせぬ脅迫だった。
彼女は頷き、長谷部を職場へ見送り、その足で娘と連れ立った。より固い、高地へ。
家族を無くし、今日を迎える。職場で着替え、持ち場の市街を回った。
彼の役割を埋めるように、無法化した街に犯罪が跋扈(ばっこ)していた。
住居侵入、放火、窃盗、破壊行動を犯す。
はたして彼らは罪人か。彼らから守る市民と財産がどこにある。
長谷部は混乱しそして銃を抜き、夢中で乱射した。腕に不快な衝撃。
我に返り、弾倉を確認した。弾丸は残っている。この弾で、無法者を確実にしとめる。失った自分を始末する手段にもなる。

急カーブのガードビームと接触し、楕円を描いてワゴンが舞った。火花を放ってアスファルトを滑り、横倒しに止まる。ホイールキャップが乾いた音で自転し、倒れると、事故が嘘のような静寂に戻った。
長谷部の手が歪んだドアに現れる。シートを蹴って、窓から脱出。大破した車の脇で、目が眩み倒れた。
数分後、蘇生した長谷部は、腕時計をかざす。予測時刻だ。
立ち上がり、潮騒(しおさい)をたよりに走る。
砂浜は辻堂海岸か・・・。江の島が見えるので、確かだろう。
広大な海岸が太平洋に沿って延々と伸びる。
長谷部はかつてここにいた。愛する女に自慢の海岸を見せて将来を語り、人生を共に過ごす約束を得た。育った街が近く、子供のころ遊んだ場所もここだった。
最後は辻堂だと、妻に言っていた。それは変えられない。
浜は多くの人がいた。
長谷部同様に職業のわかる服を着た者がいくつか、
近親者のグループ、単独の若い者もいる。
一様に東の水平線を眺め、その時を待っている。長谷部が波打ち際まで進むと、他の者もならって海岸線に並ぶ。
長谷部は眼鏡を掛けなおし、目を細めて景色に見入る。
遠く積乱雲が漂っていた。柔らかい白波の響き、悠然としたカモメの鳴き声。澄んだ空気。
見るもの全てを沈黙させる、在るがままの世界。
集まった人々はそれを知って、(かえ)って来た。
腰の拳銃が重たい。長谷部は砂浜に銃を砂に差す。

不思議な現象が起きた。波が消えたのだ。海原が鏡張りに天を映した。
海を仰ぐ家族が手をつなぐ。家族は別の隣人の手を握る。無言の連鎖で列が結ばれる。
長谷部の左側は冷たく骨ばった指、右側は柔らかな手先だった。視線を向けると初老の女と、片側は髪の短い女だった。
長谷部は家族を感じる。ずいぶん先の妻と娘だと思った。やっと会えたと安心した。
突風が(からだ)を引いた。
海波が退き、黒い海底を露にする。海岸線が彼方へ移るまで数秒足らず。
長谷部たちは懸命に支え合い海と空に臨んだ。
星が降り稲光が。
雲が一瞬で消える。低い轟音が響き、水平線が乱れた。
躍動して迫り上がる圧倒的群青。
長谷部は右側を見る。
女は神に魅了された表情だった。
左側の娘は頬を赤めて緊張している。「こわいのか」と唇の動きで思いやると、
娘は首を横にふり、交えた指をきつく握り返した。
巨壁は光を遮って昇る。水しぶきが霧になって髪を濡らす。
長谷部は、妻と子の名を口にした。
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