大風の歌
文字数 671文字
そもそも大風の歌とは何か、ということで、出典を『史記』から引いておきます。
のち漢の礎が築かれ、黥布の討伐が終わった後、沛を高祖(劉邦)は通り過ぎられました。以下にその文を引きます。
高祖は(黥布の討伐から)歸(帰)ることにされ、沛、留(いずれも都市の名)を通り過ぎられた。
酒を沛の宮に置き、ことごとく故人の父老子弟を招きて酒をほしいままにし、沛の中 の児、百二十人を得て、彼らに歌を教えられた。
酒が酣 となり、高祖は筑 (楽器の名)を撃ち、自らために詩を歌っておっしゃった。
「大風 起 ちて雲は飛揚 し、威 は海内 に加わって故鄉に帰る、ここに猛士を得て四方を守 らん!」
児らをしてみなこれを和させ習わさせました。
高祖はそして起ちて舞い、慷慨 (感情が昂ぶる?)して傷懷され(感傷に浸る?)、涙が数行下られました。
そして沛の父兄に言って申されました。
「出游した子は故鄉を悲しむ。吾れは關中(旧秦の土地)に都すと雖も、萬歲の後(死してのち)は吾が魂魄 はなお沛を思うをこいねがうだろう。
かつ朕(高祖・劉邦)は沛公より出てそして暴逆を誅し、遂に天下をたもつにいたった。ここに沛を朕の湯沐の邑とし、またその民は、世世 予 かるところあるなきこととする。」
そうおっしゃった。
沛の父兄諸母故人は日び飲を楽しみ驩 (歓)を極め、旧故をいって笑楽を為しました。
『史記』巻八、高祖本紀から引用、意訳
故郷を思い、民を思う高祖の心の深さが、漢の時代を通じて流れているようにも私には感じられるのですが、それは間違いでしょうか。
ともかく、ここに物語を始めたいと思います。
のち漢の礎が築かれ、黥布の討伐が終わった後、沛を高祖(劉邦)は通り過ぎられました。以下にその文を引きます。
高祖は(黥布の討伐から)歸(帰)ることにされ、沛、留(いずれも都市の名)を通り過ぎられた。
酒を沛の宮に置き、ことごとく故人の父老子弟を招きて酒をほしいままにし、沛の
酒が
「
児らをしてみなこれを和させ習わさせました。
高祖はそして起ちて舞い、
そして沛の父兄に言って申されました。
「出游した子は故鄉を悲しむ。吾れは關中(旧秦の土地)に都すと雖も、萬歲の後(死してのち)は吾が
かつ朕(高祖・劉邦)は沛公より出てそして暴逆を誅し、遂に天下をたもつにいたった。ここに沛を朕の湯沐の邑とし、またその民は、
そうおっしゃった。
沛の父兄諸母故人は日び飲を楽しみ
『史記』巻八、高祖本紀から引用、意訳
故郷を思い、民を思う高祖の心の深さが、漢の時代を通じて流れているようにも私には感じられるのですが、それは間違いでしょうか。
ともかく、ここに物語を始めたいと思います。