天下に郡県を布く
文字数 1,491文字
だいたい、秦王・政が始皇帝を名のるまでを描きました。ここからは始皇帝死去までの『通鑑』の記述を意訳したいと思います。
初め(かつて)、齊の威王 、宣王 の時、鄒衍 が五德 の運 (めぐりか?)が終始 することについて論著 しました。始皇帝 が天下を併合するに及び、齊人がこれを奏し、始皇はその説を採用し、以為 うには周は火德 を得ており、秦は周に代わったことから、(火の)勝たざる所に従い、水德 としました。始めて改年し、朝賀 はみな十月の朔 よりすることにしました。衣服 、旌旄 、節旗 はみな黒をたっとびました。数は六を紀 としました。
丞相の綰 が申しました
「燕、齊、荊(楚)の地は遠く、そのために王を置かなければ、そのためにそれらの国々を鎮めることはできません。請いますに、諸子を立てんことを。」
始皇はその議 を下しました。
廷尉 の斯 が申し上げました。
「周の文王 ・武王 の封 ずるところの子弟 ・同姓 、甚 だ多きも、然る後、属 は疏遠にして、相い攻撃すること仇讎 のごとく、周の天子も禁止することができませんでした。今、海内 を陛下 の神靈に頼 り、一統 してみな郡、縣とし、諸子 ・功臣 は公 の賦税 で重くこれらを賞賜 するならば、充分に足 り制 しやすいのです。天下に異意ないということは、安寧 の術にございます。諸侯を置くことは便 あることにはございません。」
始皇帝 はおっしゃいました。
「天下はともに戦闘に苦しみ休んでいなかった、侯 ・王 があったからだ。宗廟 に頼 り、天下は初 めて定まった、またいくつも国を立てれば、これは兵(戦い)を樹 てることになる。その寧息 を求 るのは、なんと難しいことではないだろうか!廷尉 の議 は是 である。」
そこで天下を分けて三十六郡とし、郡には守 、尉 、監 を置きました。
天下の兵 を収めて咸陽 にあつめ、けずって?そして鐘 ・鐻 (鐘の類か)としました。金人 十二、重さそれぞれ千石を、宮庭の中に置きました。一つに度 、衡 、石 、丈 、尺 を法とし、定めました。天下の豪桀 (『史記』には豪富とありという、豪商人か)を咸陽 に徙 すこと十二萬戸となりました。
諸廟 と章台 、上林 はみな渭水 の南にありました。諸侯 を破るごとに、その宮室 を写 しならい、咸陽 の北阪 のあたりにつくりました。南は渭水 に臨 み、雍門 以東から涇 、渭 に至るまで、殿屋 、複道 、周閣 がそれぞれつづき、得るところの諸侯の美人、鐘鼓 をそれらに充 てて入れました。
秦王政、始皇帝の時代、二十七年(B.C.二二〇)、『通鑑』は始皇帝の年号を使っていないので、『通鑑』にならいます。
始皇は隴西 、北地 を巡 り、雞頭山 に至り、回中 を過ぎました。
長信宮 を渭南 に作り、それができれば、名を更 めて極廟 と曰 いました。
極廟 より道を驪山 に通じ、甘泉 の前殿 を作り、甬道 を築きて咸陽 よりここにつなげました。馳道 を天下に作りました。
二十八年(B.C.二一九)
始皇は東に郡、縣に行き、鄒嶧山 に上 り、石を立てて功業を頌 しました。ここにおいて魯 の儒生 七十人を召し集め、泰山 の下 に至り、封禪 のことを議論させました。
諸儒 のあるものが申しました。
「古者 は封禪 は、蒲車 をつくりました、山の土石 、草木 を傷 うを悪 めばなればです。地を掃 きて祭り、席 は葅秸 を用います。」
議 はそれぞれ乖異 していました。始皇帝はその施用 しがたきがために、そう此 がために儒生 をしりぞけました。そして遂に車道をはらい、太山 の陽 (南)より上って顛 に至り、石を立てて德を頌 しました。陰(北)の道より下り、梁父 に禅 しました。
その礼はすこぶる太祝 の雍 の上帝 を祀 るに用 うるところをもってし、そして封藏 してみなこれを秘 し、世は得て記すことができませんでした。
初め(かつて)、齊の
丞相の
「燕、齊、荊(楚)の地は遠く、そのために王を置かなければ、そのためにそれらの国々を鎮めることはできません。請いますに、諸子を立てんことを。」
始皇はその
「周の
「天下はともに戦闘に苦しみ休んでいなかった、
そこで天下を分けて三十六郡とし、郡には
天下の
秦王政、始皇帝の時代、二十七年(B.C.二二〇)、『通鑑』は始皇帝の年号を使っていないので、『通鑑』にならいます。
始皇は
二十八年(B.C.二一九)
始皇は東に郡、縣に行き、
「
その礼はすこぶる