第2話

文字数 1,710文字

  ☆     

 あの日。遠い昔の、あの日。生きる目的があった、あの頃。俺と那美はもがき苦しみ、傷ついていた。

 俺と那美が出逢ったのは偶然だった。
 知人の貴子に誘われたワイン会の帰り。帰り道が一緒だった俺は電車の中で那美に声をかけた。
「やぁ。さっき、ワイン会で一緒だったよね。何処まで」
「えっ、えぇ。品川まで」
 屈託のない笑顔。派手さはなく幼顔。薄い唇だが光沢のあるピンク色。ゆったりしたワンピースにヒールの低い靴。マニキュアの色もない。小さな指で肩まである黒髪を束ねた。シャンプーの薫りが俺を誘う。
「ねぇ。花やしきって行った事ある。浅草の。チケット、二枚あるんだけど行ってみない」
 精一杯の誘いだった。 それにしても何でディズニーではなく、花やしきだったのか。今想うと、それが功を奏したのかも。
 那美は緊張が解けたかのように笑った。
「えっ。あっはぁ。花やしき。行った事ない」
「そうっ。行ってみよう。今度の連休は。神谷バーって知ってるぅ。そこで一時半に」

  ☆

 俺は浅草の神谷バーの前で独り、待っていた。小走りで那美がやって来たのは約束の時間から三十分が過ぎていた。
「ごめんなさい。もう、居ないかと思った」
 伏し目がちな瞳で苦笑いする那美。俺は彼女の気持ちを考える余裕もなく、ただ強引に誘った初デートに心踊っていた。
 俺は神谷バーで御決まりの電気ブランとギネスを飲み干し、那美と花やしきに向かった。
 ジェットコースター好きの那美に、しがみついて泣き叫ぶ俺を彼女は大笑いして見ていた。
 二人で描いてもらった似顔絵は今、何処にいったのだろう。
 オレンヂ色に染まっていく浅草の街並みを展望タワーから見詰めていた那美。
 俺は那美と自分の未来を想像していた。
 花やしきを出た俺と那美は浜松町に向かった。
 隅田川を下る水上バスに吹く風には湿った街の薫りがまとわりついた。
 遠くに点在する家々の灯かりがかすんで見える。

  ☆

 街中を横切るように流れる小さな川にかかった桜橋の上で那美に会った。  
 ゆったりとしたワンピースに、ヒールの低い靴。 マニュキュアも無し。派手さが無く、幼顔の那美が大きな瞳で俺を見詰めている。
「でも、俺の事、好きだろ」
「ぜんぜん」
 笑顔ですねてみせるように、つれない返事をする那美。俺は那美の小さな薄い唇にキスをした。那美は俺の左手のくるぶしをつかみながら言った。
「あたし。もう、会えない」
「何、言ってんだよぉ。そうだ。お台場。那美が好きな芝居、お台場で公演してるって。行こう」
 浮かない表情の那美を強引に誘った。
 それから、俺と那美は、二週間に一度位の割合で会うようになっていった。

  ☆

 何気ないメールの一文だった。 
『寒いね。温泉でも行きたいね』
『いいね』
『よし。行こう。来月の連休に予約するよ』

 俺と那美の最初で最後の二人旅。湯河原の小さな温泉宿だった。個室に小さな露天風呂のある部屋。
 その部屋風呂の湯船にスーパーで買った生卵を浮かせてみる。
「これで温泉玉子が出来るかな。多分、三十分位で何とかなるじゃないかな」
 子供じみた実験は大成功だった。大笑いしながら食べた自家製の温泉玉子は人生で一番美味しい格別の味だった。

 暖房の音だけがする静かな部屋。俺は窓の外の暗い海原をぼんやりと眺めている。
 窓ガラスに滲む漁火が揺れる。大浴場から帰ってきた那美が映る。口を閉じたまま、俺の背中を見ている那美。
 振り向くと艶やかな洗い髪の那美が微笑んだ。
 初めて触れる那美の白く滑らかな、柔かい肌が俺を高揚させた。

 夢現(ゆめうつつ)の俺は、ありもしない未来を信じていた。
 あの時、観た未来は一瞬で儚く消えていた事に、俺はまだ気づいていなかった。
 あの頃、俺は那美の心の支えになったのだろうか。
 それとも、心の重荷になってしまったのだろうか。

 翌日、東京へ帰る電車の中でウトウトしている俺をジッと見詰めていた那美。
 あの時、何を思っていたのだろう。

 那美と連絡が取れなくなった。

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