第4話

文字数 1,715文字

  ☆

 ハッキリした決断の無いまま、那美は妊娠四か月目を迎えた。
 検査から帰った那美が笑顔で言った。
「今の調子なら産めるって」
 那美の病状は落ち着いている。
 湯河原で温泉玉子を食べて以来の那美の笑顔。
 那美が命を懸けて覚悟を決めた。
 今になって、ようやく俺は障害者の父親になる不安が湧いたきた。だが、その時の俺は何よりも那美と御腹の中の子供の命の燈火を見詰めていたかった。

  ☆  

 大きな時代の流れだったのかも知れない。
 人類は選択してきた。火を使う事。言葉を操る事。農耕を営む事。それぞれの決断が人類の社会や遺伝子にも影響してきた。

 それはヨーロッパの小さな街から始まった。
 人工授精する妊娠者に対して税制優遇する法律が施行された。その動きは世界中へと広まっていった。
 着床前スクリーニングは障害者を激減させ、社会保障費の削減につながった。また、不妊治療患者の妊娠率を劇的に向上させ、市民に受け入れられた。しかし、不妊治療患者以外の着床前スクリーニングは障害者の排除になると声を上げる者もいた。かつて、ドイツにあった断種法や日本にあった優生法を連想させた。
 きっかけは小さなプラカードだった。
 人工授精推進法案への抗議デモ。その一方でデモ参加者への誹謗中傷。世論は二分され、殺伐とした空気が街を覆い尽くした。

 俺はやめとけって言ったんだけどなぁ。横着せずに一緒について行けば良かった。
 子供を産む決心をした那美と俺は万が一に備えて、障害のある子供の出産を積極的に受け入れている病院を選択した。

 妊娠五か月目。強い風が吹いた寒い日だった。
 街は人工授精推進法案を巡って騒然としていた。
「こんな日に、行かなくてもいいだろう。週明けには陽気も良いみたいだし」
「定期健診だから。夕べから、この子、凄く動くの」
 那美は笑顔で大きくなった御腹を押さえた。那美の笑顔を見ると障害者の父親になるという不安が和らぐ。
「じゃぁね。行ってくるね。帰りにスーパーに寄るけど何か欲しいものある」
「あぁ。そうだな。なぁ、那美。ついでに役所に寄って婚姻届け、もらって来てよ」
 俺は照れ隠しでテレビを観ながら素っ気無く言った。二秒の沈黙の後、那美が呆れた顔で言った。
「なぁによぉ。それっ。プロポーズのつもり」
「そろそろ、入籍しないとな」
「ばかぁ。そんなプロポーズ許さないからね。今夜、スキヤキにするから用意しといてね」
 二十五歳の那美が残した最後の笑顔。
 何で俺は一緒に行かなかったんだ。

 人工授精推進法案への抗議デモと、デモ隊反対派の集団が那美の通う病院近くで衝突した。負傷者数十名を出す大惨事に那美が巻き込まれた。
 俺と那美の子は生きる前に殺された。俺と那美の子の死は活字で新聞に小さく載った。
 俺が病院に着いた時、既に那美の御腹に子供は居なかった。
 緊急搬送された那美は分娩室には入ったが死産。
 男の子だった。
 何事も無かったような那美の寝顔。静かな寝息。顔には傷一つない白い頬。まるで彫刻か仏様のような表情の那美。
 全てが嘘だと感じた。那美と俺の子供を見た時に、現実を突きつけられた。保冷材に包まれた塊が俺と那美の子。那美の血なのか。子供の血なのか。俺はそんな事を考えていた。
 那美が俺に気づき、虚ろな目で言った。
「子供は」
「男の子だったよ」
「そう。名前、付けなくっちゃね」
 那美は安心したような表情で眠りについた。

 那美は五日間、意識がもうろうとしていた。二週間の入院。
 俺は那美に知らせる事なく、一人で子供を荼毘に付し灰を埋葬した。その時は自分の子を亡くしたという実感が湧いてこなかった。
 那美の子宮は損傷し、今後、自然妊娠や出産は出来ないと言われた。
 俺は病院のベットに横たわる那美に結婚を申し込んだ。
「那美。結婚しよう」
 哀しい眼で口を閉じたまま微笑む那美。
 返事はなかった。

 三ヶ月後、那美が俺の前から姿を消した。

 もう二度と那美は戻ってこない予感がした。
 俺は那美のいない世界を漂うように歩き続けるしかなかった。
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