第2話 幸福

文字数 1,451文字

 「これ、あげる」
 ぼくがその

を兄に渡したのは十二月、歴史的な暖冬の最中だった。リビングで五秒に一回は笑い声があがる陽気な番組を見ていた兄に、ぼくはとっておきの毒薬――いるかの作ってくれた洋ナシのタルト――を差し出した。
 「どうしたんだ、これ。美味そうだな」
 ぼくと兄は正反対だ。いるかと初めて会った日、ぼくは人間関係にも「正解」があると言ったが、兄はその「正解」をいとも簡単に射抜くことができる人だった。みんなが兄を好きになる。陽介という名前にふさわしく素直で明るい兄に、ぼくはずっとコンプレックスを抱いていた。
 「ぼくの彼女が作ってくれたんだ」
 という真実を口にはせず、黙って微笑んだ。五ヶ月という時間は、ぼくといるかを恋人に変えていた。あの喫茶店から出発したぼくらは順調に距離を縮めた。いるかから連絡が来たし、ぼくからも連絡をした。打ち解けた口調が丁寧語に取って代わった。デートしてぼくが告白するまでの関係は、気味が悪くなるくらいなめらかだった。
 兄にいるかの手料理を分けたのは、お兄さんにも良かったらと、いるかが言ったからだ。兄は去年卒業した新聞部員のOBだったから、いるかとは面識があった。ぼくがタルトを毒と呼んだのは、ぼくにとってそれが兄を見返す手段だったからだ。ぼくの彼女が、ぼくのために作ったタルトを食べさせたら、それは社交的な兄に対するひとつの勝利だと思っていた。つまりぼくはいるかを道具に使ったのだ。

 「お兄さんも美味しかったって? よかった!」
 後日、ぼくはタルトに関する兄の感想をいるかに伝えた。ただし、兄にそれがいるかの手料理だと言わなかったことについては、内緒にしていた。
 「ぼくの舌だけじゃ信用できなかった?」
 「そういうわけじゃないんだけどね」
 いるかが困ったように笑う。そんなじゃれ合いさえ楽しかった。朝から雨で、母親が

とぼやいていたのを覚えている。電車通学のいるかをぼくは駅まで送っていくと申し出たのだが、いるかは遠慮した。
 「遠慮するよ。西口さんが、雨に濡れて風邪を引いたら、嫌だもの」
 「雨は嫌いだな、それなら」
 「とにかく、わたしは平気」
 ゆるゆる首を横に振るいるかを優しいひとだと思った。ぼくは照れ隠しに、
 「いい加減、苗字はやめてよ」
 「だって、これで定着しちゃったから、仕方ないでしょう」
 名前で呼んでほしかったけど、口を尖らせるいるかには逆らえない。
 それより、気にしていることが二つあった。一つ目はぼくがまだ全然いるかのことを知らないことで、二つ目はぼくの気持ちといるかの気持ちが釣り合っていない気がすることだった。自分の考えを話すよりぼくの話を聞くことをいるかは好んだし、近づこうと足を踏み出すとパッと身を引いた。

 「じゃあここで。またね」

 ぼんやり者のぼくなら踏んでしまう

を、いるかはひらりと飛び越える。
 駅の雑踏に消えていくいるかをぼくは見送り、思った。
 誰かを好きになることは、どうしてこれほど悩みに結びつくのだろう。
 好きな相手に好きになってもらうだけで一苦労なのに、その多寡まで問題にし始めたらキリがない。分かっているのに考えるのをやめられない。
 好きな相手のことを知りたいと思うのは、エゴだろうか。
 一緒にいるときにしか、確かなものを感じられないというのなら、ぼくはどうして寂しさを感じるように作られている。

 (続)
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