第4話 生活

文字数 932文字

 大粒の雨の中でいるかは立ち止まり、ぼくを振り返った。
「……見たんだね」
 ぼくは黙っていた。強烈な雨の匂いがした。いるかは続けた。
「あのノートを見たんでしょう。それでもう全部わかってるんでしょう? どうしてわたしが西口さんに声をかけたか」

 いるかは最初会ったときに「予習」していると言った。
 いるかのノートにはぼくではない誰かのことが書き連ねてある。
 いるかは洋なしのタルトを作ってくれた。
 でもそのタルトを食べたのはぼくだけじゃない。

 ぼくを「西口さん」と呼ぶ恋人になることが、何の予習になるかといえば、答えは決まっていた。
「いるかは兄ちゃんのことが好きなんだね」
「ええ」
 いるかは眼鏡を外した。いつも眼鏡をかけていたから、それはぼくが初めて見るありのままのいるかだった。余分を取り去った彼女は、すごくさびしそうな顔をしていた。
「明るい人が好きなの」
 長々と語られるよりも、その一言が刺さった。光。ヒーロー。ぼくが絶対になれないもの。
 いるかが小声で言った。
「……何か質問があれば」
 ぼくはかぶりを振った。聞きたいことなんてあるわけがない。授業じゃないんだからそんなふうに聞くのは馬鹿げている。
 彼女は手を伸ばし、眼鏡をかけた。
 それで彼女はいるかになった。ぼくの知っているいるかに……。ぼくは何も知らなかったのだ。真剣な恋をした相手は虚像だった。ぼくの

で作り上げたものだった。それは恋そのものが虚像だったということになるんだろうか?
「嫌な雨だ」ぼくが呟くと、
「雨が嫌いだって言ってくれたことがあったね」といるかが答えた。

 それきり、いるかには会っていない。
 多くの質問が言葉の墓場へ打ち捨てられた。いるかはいつまで

を続ける気だったのか、いるかにとってぼくは何だったのか。

、ぼくの心にはただ

だけが在る。ぼくはぽっかりした空洞を抱えながらも、今日も生活を続ける。春を待ちながら。

 


 ぼくはそのことに傷つき、また、少しだけ慰められてもいる。

(終)
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