第3話 落日

文字数 1,644文字

 クリスマスが近づいたある日、雑貨屋にいるかへのプレゼントを買いに行った。ぼくはいつも桃色のノートを持ち歩いているいるかに、同じ色のペンを贈ることにした。会計のレジを待つ途中になぜだか大昔に兄としたけんかを思い出した。

 小学一年生の家庭科で、両親への贈りものを作る授業があった。贈り物といっても小学生だから、お礼のカードやペン立てなどだ。ぼくは布巾を作ることにした。地道な手作業は好きだったし、実用的なものがいいと思ったからだ。黄色い布を買って、いっしょうけんめい縫った。時間をかけたから、満足のいく仕上がりになった。
 ぼくは家に帰ってから、それを両親に渡す前に、得意になって兄に見せた。
 ところが、兄は顔を曇らせて「それは良くないなあ」と言った。
「なんでそんなことを言うの」ぼくはショックだった。
「布巾をあげるってつまり、父さんと母さんに、もっと家事をやれってことか?」
 ぼくは言葉に詰まった。そんなつもりはなかった。
「父さんと母さんはそういうふうに感じるかもしれないだろう。相手の気持ちを考えなきゃ」
 兄に諭されると、今までよくできたと思っていた布巾が、急に色褪せて見えた。ぼくはわあっと叫んで布巾を投げ出してしまいたくなったが、兄にそれを見られるのが嫌で、かえって強く握りしめた……

「お客さま?」
 ハッとした。いつの間にか、順番が来ていたらしい。
 贈りものにノートを選ぶのは、正しい選択だろうか。
 両親は布巾を喜んでくれた。ありがとうと言ってくれた。ぼくはそれが嬉しくて、兄の言ったことは間違っている、と確信したのだ。
 でも布巾は使われて汚れていき、いつの間にかなくなっていた。
 

の狭間でどこかに捨てられたのだろう。
 言葉にできない気持ちは決してなくなることがない。たとえ年を重ねて新しい言葉を知っても。


 ノートは翌週、初めて出会った日に訪れたあの喫茶店でいるかに渡した。
「お待たせ」
 いるかは先に来て、新聞を読んでいた。新聞部の彼女は毎日きちんと新聞に目を通すのだが、その読み方が一風変わっている。いつでも一日前のものを読むのだ。
「悲しいニュースを知るのを先延ばしにしたいの」と本人はいつか説明した。
「でも結局は知ることになるんだよ」
「時間伸ばしをすることが大切なの」
 ぼくには馴染めない論理だった。他愛ない話の後にペンを渡すと、彼女が泣きそうな顔をした。感情の制御が急に効かなくなった感じだ。予想外の反応の強さにぼくは驚いた。 
「……お手洗い」
 いるかが席を立った。バッグはそのまま置いていった。
 バッグの口から、桃色のノートがちらりと覗いている。
 いるかの戻りを待つうちに、それがだんだん気になりだした。
 あのノートには何が書いてあるんだろう。
 ぼくはふいにそのノートが見てみたくてたまらなくなった。恥ずべきことだとは思ったが、その衝動はとても強かった。呼吸が速くなる。グラスに結露した大量の水滴はぼくの汗だった。ぼくは注意ぶかく辺りを見回して(それは逆に怪しかったろうと今なら思うけど)ノートを抜き取った。ページを捲る。

 あの人がタルトを美味しいと言ってくれた。
 あの人は秋が好き。
 大きな手のひらに包まれてみたい。

 ぼくはノートを閉じ、元あった場所に戻した。
 手が震える。
 ぼくは秋より冬が好きで、手のひらだって大きくない。
「お待たせ」
 ぼくが飛び上がるのを見て、いるかは笑った。
「どうしたの?」
「ちょっと考えごとをしていたから」
「考えごと?」
「大したことじゃない」ひったくるように伝票を手にとり、ぼくらは店を出た。外ではべたべた嫌な感じの雨が降っていた。

 寒いね、といるかがぼくに体を寄せる。甘えるように。
「でも、最近は冬も好きになってきたの」
「ぼくは寒いから冬は好きじゃない……」
 いるかは答えない。
 ぼくではない人のことを考えているいるか。

(続)
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み