第三章 カンバスは語る

文字数 1,846文字

 未知のウイルスが人類に牙をむくとき、医療従事者は犠牲になりやすい。令和七年、十二月七日、三井医師は亡くなった。OBNEWウイルスによって命を奪われた最後の患者だった。まもなくOBNEWウイルスを無害化するソフトが完成し、大勢の患者たちはの危機を脱した。その後の医療革命で、後遺症を克服した者も多い。臨床試験に参加していた福地氏は最初期に回復した患者の一人だ。
 福地氏はこの度私の取材に応じ、私信の提供と本名を明かすことを快諾してくれた。福地氏は三井医師が亡くなる直前まで交流を続けている。その内容については教えてもらえなかった。だが、公開する予定はあるのかとの問いに、私が死んだ後に、と少しはにかんでいた。
 治療後、回復期同一性不安症に悩まされたものの、残された言葉が福地氏を励まし続けた。そして、現在は福地氏の言葉が、人々の力となっている。
 いつの日か、この病気について、完全なシンフォニーを聞くことができるだろう。
 それまで待てない?
 いかなる詩が生まれたのか。すぐに知りたい場合は、左記のQRコードからある作品にアクセスしてほしい。ワードアーティストとして活躍する福地氏の作品を見ることができる。福地氏の作品には、個人所有の作品以外に、公共機関に飾られているものの、滅多にお目にかかれないものがある。それは東京BX感染症センターの中にある。
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『緑のカンバス男と
 血文字女』             

 シンフォニーシーズが見せる劇的な空間に比べると、いささか地味かもしれない。
 シンフォニーシーズの設定を、『視野・ナチュラル』にしてみてほしい。
 アナログな技術を駆使して、昼の眩しさと、夜の怪しさが同時に存在しているのがお分かりいただけるだろうか。艶やかな緑のカンバスに浮かぶ、鮮血のようにクリアな言葉に、その後の二人が立ち現れてくる。
 想像してみてほしい。
 現在は多くの感染症に対して万全の備えができている。自由な航行と貿易を両立させる仕組みが確立されて久しい。だが、電子ネットワークを介して広がるウイルスの脅威は去っていない。この感染症センターに長く入院するとしたら、それはシンフォニーシーズを侵された人々だ。健康そのものである我々には美しく、それでいて胸のざわめきを感じる言葉である。シンフォニーシーズのつながりを失った者にはどのように感じられるだろうか。子どもの患者には、言葉通りの励ましと取れるように、艶冶な感情が慎重に織り込まれているのも見逃せない。
 自分と同じような境遇から、生還した人間が確かに存在することを、この作品は告げているのだ。
 孤独を知る人々に、その事実はそっと寄り添っている。

おわりに

 OBNEWの名の由来は、シェイクスピアのテンペストにあると言われている。ミランダのセリフ、「O breve new world(ああ、すばらしき新世界)」から字を取ったという。この言葉をタイトルとしたオルダス・ハクスリーの「Breve New World」を連想した者も少なくないはずだ。発案者の記者、山村織斗氏は地名やアプリの名を冠した通称が定着するのを防ぐために、いち早く名を与えた。そして普及したため、WHOもこれを正式名称とした。
 その真意は謎だ。新しい世界を祝福しているようにもとれるし、文明が生み出した災禍であると皮肉をこめているようにもとれる。山村氏は発生後、直ちにこの病気を取材し、その犠牲となった。
 OBNEWの出現は安寧を手に入れたかに見えた人類に大きな打撃を与えた。これだけ多くの犠牲者と被害者が出たことに、驚かなかった者はいないだろう。
 そして今、あのとき以上に強固で自由なネットワークが張り巡らされている事実に、あらめて目を見張るのではないだろうか。
 私たちの心は、おおむね満たされている。
 この豊かさの源流を探して、時には容易には理解できない迷宮に、心を傾けてみるのも悪くはないだろう。

追記
 本書を執筆中、新たなコンピューターウイルスの脅威が、再び人類に襲いかかった。
 現在は封じ込めに成功し、回復への道筋も見えている。
 病との戦いの歴史が、今日の成功へと導いた。
 犠牲となられた皆様に哀悼の意を表し、援助を惜しまなかったすべての方々に感謝の念をを捧げたい。
 あなたのおかげで、私は生きている。


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登場人物紹介

ジェームズ・リー

著者。ルポライター。


三井緋色

医師。

著作にOBNEW治療の現場を表した『18℃の雪原』がある。

福地 鳴士(ふくち めいし)

言語アーティスト。OBNEWに罹患した。

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