第一章 雪原

文字数 1,430文字

 病室をイメージできる者はどれくらいいるだろうか。
 遺伝子治療や再生医療、サイバネティクスの発展によって、この時代でも長く患うことは稀であった。
 OBNEW患者の病室は、自宅と感じてもらえるように配慮がなされている。感染力を持つようになってから症状が出るまでの期間は看護の必要がないからだ。

【動画1】00:15
X B感染症対策センター
病室風景
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 さて病室であるが、外から観察するとその白さに戸惑うだろう【動画1】。技術的制約で、仮想空間と馴染みやすい色が白だったのである(ちなみに仮想空間が普及する前も、衛生面の理由から白い病室が多かった)。通常ならばバーチャリアが見えるところだ。背景が共有されていないために、他人の目には白く殺風景な部屋に映る。病気が進行すると、イントラネットも使えなくなり、本人も白い部屋に取り残されてしまう。その状況を、三井医師はこう表現した。『まだ誰も足を踏み入れていない雪原のようだ。この広さを、独り占めしているかのように錯覚させる。実際は降り積もった深雪に足を取られて、そうそう動きまわることができない美しい牢獄だ。』
 三井医師はさっそく物理的インテリアを導入し、病室に彩りを添えている。センサー式や原始的な家具の使用法を学べるようにプログラムを創作したのも三井医師が最初であった。治療法がない病気への終末期ケアではない。こうしたアプローチの一つ一つは治療効果を狙ってのものである。
 どうやら、OBNEWはボットとして生み出され、のちに病原性を得たようなのだ。最終的に、九六万人の感染者と六六四二人の死者を出すに至るが、初期の死亡率は八割と高く、その中には自殺者も多く含まれている。
 防護服に身を包むことで長く交流することも可能であった。医師たちはなによ りも患者たちの孤独に注意を払い、患者もまたチームの一員であるとみなしている。隠し立てすることなく現状を話し合っていた(詳しくは【動画2】を見ていただくのがいいだろう)。        

【動画2】東京都
OBNEW感染対策マニュアル
03:45
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 詐欺用のマルウェアがもとであるとみられるこのウイルスに対してまるで改心を迫るかのように三井医師は肉薄した。三井医師は著書でこう述べている。『言葉は心を通わせるための道である。肌の温もりには敵わないと思われるだろうか。もっともである。人肌程良いものもないだろう。ゆえに隔離された者にとって、最後の寄る辺となるのが言葉であると私は考える。誰かに優しく抱きすくめられることが叶わぬ者にとって、現実は虚しい。言葉は幻想となって、心に手を当てる。グリムのシンデレラよりも、ペローのサンドリヨンに時代を超える力があるのはなぜだろうか。アンデルセンの慰撫を、素直に受け取れる者は幸いだ。』
治療法がない中、患者たちの絶望に、三井医師は幻想を喚起し続けた。「人として生きていくうえで、本を読まないということは、丸腰で戦場に立つようなものだ」という節斑(ふしぶち)元雅の言葉を胸に、患者の心でもって、ともに病気と戦っていたのだ。
 なお、カルテと付き合わせることでわかることもあるが、採用しなかった。二人だけの言葉から、医師と患者の気持ちを追体験してみてほしい。
 雪原に残る足跡を頼りに、何かを感じてもらえたら幸甚である。

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登場人物紹介

ジェームズ・リー

著者。ルポライター。


三井緋色

医師。

著作にOBNEW治療の現場を表した『18℃の雪原』がある。

福地 鳴士(ふくち めいし)

言語アーティスト。OBNEWに罹患した。

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