第3話

文字数 5,610文字

――《存在》は自らの剿滅を進んで自ら望んでゐるのだらうか? 
――《存在》の最高の《愉悦》が破滅だとしたならばお前は何とする? 
――ふむ……多分……徹底的に破滅に抗ふに違ひない。
――仮令それが《他》の出現を阻んでゐるとしてもかい? 
――ああ。ひと度、《存在》してしまつたならば仕方がないんぢやないか。
――仕方がないだと? お前はさうやつて《存在》に服従するつもりなのかい? 
――《存在》が自ら《存在》する事を受け入れる事が《存在》の服従だとしても、俺は進んでそれを受け入れるぜ。仮令それが地獄の責苦であつてもな。
――それは、つまり、《死》が怖いからかね? 
――へつ、《死》を《存在》自らが決めちやならないぜ、《死》が怖からうが待ち遠しいからうがな。《存在》は徹底的に《存在》する事の宿業を味はひ尽くさなければならぬ義務がある。《存在》が《存在》に呻吟せずに滅んで生れ出た《他》の《存在》などお前は認証出来るかい? 何せこの宇宙が自ら《存在》に呻吟して《他》の宇宙の出現を渇望してゐるのだからな。
――つまり、《存在》が呻吟し尽くさずして何ら新たな《存在》は出現しないと? 
――ふつ、違ふかね? 
――くいんんんんんんん~。
 また何処かで《吾》が《吾》を呑み込む際に発せられる《げつぷ》か《溜息》か、将(はた)又(また)《嗚咽》かがHowling(ハウリング)を起こして彼の耳を劈くのであつた。それは《存在》が尚も存続しなければならぬ哀しみに違ひなかつた。《他》の《死肉》を喰らふばかりか、この《吾》すらも呑み込まざるを得ぬ《吾》といふ《存在》の悲哀に森羅万象が共鳴し、一瞬Howlingを起こす事で、それはこの宇宙の宇宙自身に我慢がならぬ憤怒をも表はしてゐるのかもしれなかつたのである。その《ざわめき》は死んだ《もの》達と未だ出現ならざる《もの》達と何とか呼応しようと懇願する、出現してしまつた《もの》達の虚しい遠吠えに彼には思へて仕方がなかつたのであつた。
 実際、彼自身、昼夜を問はず《吾》を追ひ続け、やつとの事で捕まへた《吾》をごくりとひと呑みする事で《吾》は《吾》である事を辛うじて受け入れる、そんな何とも遣り切れぬ虚しい日々を送つてゐたのであつた。

…………
…………

――《存在》は全て《吾》である事に懊悩してゐるのであらうか? 
――全てかどうかは解からぬが、少なくとも《吾》が《吾》である事に懊悩する《存在》は《存在》する。
――ふつ、そいつ等も吾等と同様に《吾》といふ《存在内部》に潜んでゐる《特異点》といふ名の《深淵》へもんどりうつて次次と飛び込んでゐるのだらう……。さうする事で辛うじて《吾》は《吾》である事を堪へられる。ちえつ、「不合理故に吾信ず」か――。
――付かぬ事を聞くが、お前は、今、自由か? 
――何を藪から棒に。
――つまり、お前は《特異点》に飛び込んだ事で、不思議な事ではあるが《自在なる吾》、言ひ換へると内的自由の中にゐる自身を感じないのかい? 
――それは天地左右からの解放といふ事かね? 
――へつ、つまり、重力からの仮初の解放だよ。
――重力からの仮初の解放? へつ、ところがだ、《吾》は《特異点》に飛び込まうが重力からは決して解放されない! 
――お前は、今、自身が落下してゐると明瞭に認識してゐるのかね? 
――…………。
――何とも名状し難い浮遊感に包まれてゐるのぢやないかね? 
――へつ、その通りだ。
――それは重力に仮初にも身を、否、意識を任せた結果の内的な浮遊感だらう? 
――ちえつ、それは、つまり、《地上の楽園》を断念し《奈落の地獄》を受け入れた事による《至福》といふ事かね? 
――へつ、何を馬鹿な事を言ふ。それは《存在》が《存在》してしまふ事の皮肉以外の何ものでもないさ。
――皮肉ね。そもそも《存在》とは皮肉な《もの》ぢやないのかね? 
――さうさ。《存在》はその出自からして皮肉そのものだ。何せ、自ら進んで《特異点》といふ名の因果律が木つ端微塵に壊れた《奈落》へ飛び込むのだからな。
――やはり《意識》が《過去》も《未来》も自在に行き交へてしまふのは、《存在》がその内部に、へつ、その漆黒の闇を閉ぢ込めた《存在》の内部に因果律が壊れた《特異点》を隠し持つてゐるからなのか? 
――そしてその《特異点》といふ名の《奈落》は《存在》を蠱惑して已まない。
――へつ、だから《特異点》に飛び込んだ《意識》は《至福》だと? 
――だつて《特異点》といふ《奈落》へ飛び込めば、《意識》は《吾》を追ふ事に熱中出来るんだぜ。
――さうして捕らへた《吾》をごくりと呑み込み《げつぷ》をするか――。へつ、詰まる所、《吾》はその呑み込んだ《吾》に食当たりを起こす。《吾》は《吾》を《吾》として認めやしない。つまり、《吾》を呑み込んだ《吾》は《免疫》が働き《吾》に拒絶反応を起こす。
――それはどうしてか? 
――元元()とは迷妄に過ぎないのさ、ちえつ。
――それでも《吾》は《吾》として《存在》するぜ。
――本当に《吾》は《吾》として《存在》してゐるとお前は看做してゐるのかね? 
――ちえつ、何でもを見通しなんだな。さうさ。お前の見立て通りさ。この《吾》は一時も《吾》であつた試しがない。
――それでも《吾》は《吾》として《存在》させられる。
――くきいんんんんんんんん~~。
 一時も休む事なくぴんと張り詰めた彼の周りの時空間で再び彼の耳を劈くその時空間の断末魔の如き《ざわめき》が起きたのであつた。それは羊水の中から追ひ出され、臍の緒を切られて此の世で最初に肺呼吸する事を余儀なくさせられた赤子の泣き声にも似て、何処かの時空間が此の世に《存在》させられ、此の世といふその時空間にとつては未知に違ひない世界で、膨脹する事を宿命付けられた時空間の呻き声に彼には聞こえてしまふのであつた。「時空間が膨脹するのはさぞかし苦痛に違ひない」と、彼は自ら嘲笑しながら思ふのであつた。
――なあ、時空間が膨脹するのは何故だらうか? 
――時空間といふ《吾》と名付けられた己に己が重なり損なつてゐるからだらう? 
――己が己に重なり損なふといふ事は、この時空間もやはり自同律の呪縛からは遁れられぬといふ事に外ならないといふ事だらうが、では何故に時空間は膨脹する道を選んだのだらうか? 
――自己増殖したい為だらう? 
――自己増殖? 何故時空間は自己増殖しなければならないといふのか? 
――ふつ、つまり、時空間は此の世を時空間で占有したいのだらう。
――此の世を占有する? 何故、時空間は此の世を占有しなければならないのか? 
――「《吾》此処にあるらむ!」と叫びたいのさ。
――あるらむ? 
――へつ、さうさ、あるらむだ。
――つまり、時空間もやはり己が己である確信は持てないと? 
――ああ、さうさ。此の世自体が此の世である確信が持てぬ故に《特異点》が《存在》し得るのさ。逆に言へば《特異点》が《存在》する可能性が少しでもあるその世界は、世界自体が己を己として確信が持てぬといふ事だ。
――己が己である確信が持てぬ故にこの時空間は己を求めて何処までも自己増殖しながら膨脹すると? 
――時空間が自己増殖するその切羽詰まつた理由は何だと思ふ? 
――妄想が持ち切れぬのだらう。己が己に対して抱くその妄想が。
――妄想の自己増殖と来たか――。
――実際、己が己に抱く妄想は止めやうがなく、己が己に対する妄想は自然と自己増殖せずにはゐられぬものさ。深海生物のその奇怪な姿形こそが己が己に対して抱く妄想の自己増殖が行き着ゐた一つの厳然とした事実とは思はぬかね? 
――ふつふつ、深海生物ね……。まあ、よい。それよりも一つ付かぬ事を聞くが、お前はこの宇宙以外に《他》の宇宙が《存在》すると考へるかね? 
――つまり、《他》の宇宙が《存在》すればこの宇宙の膨脹はあり得ぬと? 
――へつ、《他》の宇宙が仮に《存在》してもこの宇宙の《餌》でしかなかつたならば? 
――宇宙の《餌》? それは一体全体何の事だね? 
――字義通り只管(ひたすら)この宇宙の《餌》になるべくして誕生した宇宙の事さ。
――生き物を例にして生きて《存在》する《もの》は大概口から肛門まで管上の《他》たる穴凹が内部に存在すると看做せば、その問題の《他》の宇宙をこの宇宙が喰らふといふ事は、即ち、この宇宙内に《他》の宇宙の穴凹がその口をばつくりと開けてゐるといふ事ぢやないかね? 
――ふつふつ、それはまたどうして? 
――つまり、喰らふといふ行為そのものに《他》を呑み込み、《他》をその内部に《存在》する事を許容する外部と通じた《他》の穴凹が、この《存在》にその口を開けてゐなければならぬのが道理だからさ。
――だから、お前はこの宇宙以外の《他》の宇宙が《存在》する可能性があると考へるのかね? 
――当然だらう。
――当然? 
――《他》の宇宙、ちえつ、それはこの宇宙の《餌》かもしれぬが、《他》の宇宙無くしてはこの宇宙が《吾》といふ事を認識する屈辱を味はひはしないぢやないか! 
――やはり、《吾》が《吾》を認識する事は屈辱かね? 
――ああ。屈辱でなくしてどうする? 
――ふつふつ、やはり屈辱なのか、この不快な感覚は――。まあ、それはともかく、お前はこの宇宙以外の《他》の宇宙が《存在》する可能性は認める訳だね? 
――多分だか、必ず《他》の宇宙は《存在》する筈さ。
――それはまたどうしてさう言ひ切れるのかね? 
――それは、この宇宙に《吾》であるといふ事を屈辱を持つて噛み締めながらもどうしても《存在》しちまふ《もの》共が厳然と《存在》するからさ。
――《吾》が《存在》するには必ず《他》が《存在》すると? 
――ああ。《他》無くして《吾》無しだ。
――すると、この宇宙が生きてゐるならばこの宇宙には必ず《他》に開かれた穴凹が《存在》する筈だが? 
――へつ、この《吾》といふ《存在》自体がこの宇宙に開ゐた穴凹ぢやないかね? 
――それは《特異点》の問題だらう? 
――さうさ。《存在》は必ず《特異点》を隠し持たなければ、此の世に《存在》するといふ《存在》そのものにある不合理を、論理的に説明するのは不可能なのさ。
――さうすると、《他》の宇宙は反物質で出来た反=宇宙なんかではちつともなく、《吾》と同様に厳然と実在する《他》といふ事だね? 
――例へば、巨大Black hole(ブラツクホール)は何なのかね? 
――ふつ、Black holeが《他》と繋がつた此の世に開ゐた、若しくはこの宇宙に開ゐた穴凹であると? 
――でなくてどうする? 
――さうすると、銀河の中心には必ず《他》が《存在》すると? 
――ああ、さう考へた方が自然だらう? 
――自然? 
――何故なら颱風の目の如くその中心に《他》が厳然と《存在》する事で颱風の如く渦は渦を巻けると看做せるならば、例へば銀河も大概渦を巻いてゐるのだからその中心に《他》が《存在》するのは自然だらう? 
――ふつ、つまり、渦の中心には《他》に開かれた穴凹が《存在》しなければ不自然だと? 
――而もその《他》の穴凹は、《吾》に《垂直》に《存在》する。
――さうすると、銀河の中心では絶えず《吾》に《垂直》に《存在》する《他》の宇宙に呑み込まれるべく《吾》たる宇宙が《存在》し、さうして初めてこの宇宙が己に対する止めどない妄想を自己増殖させつつ膨脹する事が可能だとお前は考へてゐるのかね? 否、その逆かな。つまり、この宇宙が絶えず己に対する《吾》といふ観念を自己増殖させて膨脹するから、その中心に例へば巨大Black holeを内在させてゐる……。さうだとするとこの耳を劈くこの宇宙の《ざわめき》は己が己を呑み込む《げつぷ》ではなく、《他》が《吾》を呑み込む、若しくは《吾》が《他》を呑み込む《げつぷ》ぢやないのかね? 
――ふつふつふつ、ご名答と言ひたいところだが、未だ《他》の宇宙が確実に此の世に《存在》する観測結果が何一つない以上、この不愉快極まりない《ざわめき》は己が無理矢理にでも己を呑み込まなければならぬその己たる《吾》=宇宙が放つ《げつぷ》と看做した方が今のところは無難だらう? 
――無難? へつ、己に嘘を吐くのは已めた方がいいぜ。
――嘘? どうして嘘だと? 
――へつ、お前は、実際のところ、この宇宙の《存在形式》以外の《存在形式》が必ずなくてはならぬと端から考へてゐるからさ。
――へつへつへつ、図星だね。
 此の世に《存在》するあらゆる《もの》の《存在形式》は、此の宇宙の摂理に従属してゐると看做しなしてしまひ、そして、それをして此の宇宙たる《吾》が《存在》する《存在形式》を、例へば「《吾存在》の法則」と名付ければ、必ずそれに呼応した「《他存在》の法則」が《存在》すると考へた方が《自然》だと思ひながら、その《自然》といふ言葉に《自然》と自嘲の嗤ひをその顔に浮かべてしまふ彼は、此の《吾》=《自然》以外の《他》=《自然》もまた《存在》するに違ひないと一人合点しては、
――ふつ、馬鹿めが! 
と、即座に彼を罵る彼の《異形の吾》の半畳にも
――ふつふつふつ。
と、皮肉たつぷりに己に対してか《異形の吾》に対してか解からぬが、その顔に薄笑ひを浮かべては、
――しかし、《自然》は《吾》=《自然》以外の《他》=《自然》の出現を待ち望む故に、《吾存在》を呑み込む《吾存在》がその《吾》に拒絶反応を起こしてはこの耳障りな断末魔の如き《ざわめき》が《吾》の彼方此方にぽつかりと開ゐた《他》たる穴凹から発してゐるに違ひないのだ。
と、これまた一人合点する事で、彼は彼の《存在》に辛うじて我慢出来るそんな切羽詰まつたぎりぎりの《存在》の瀬戸際で弥次郎兵衛の如くあつちにゆらり、こつちにゆらりと揺れてゐる己の《存在形式》を悲哀を持つて、しかし、心行くまで楽しんでゐるのであつた。

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