第4話

文字数 10,804文字

――なあ、「《他存在》の法則」に従属する《他》=宇宙における《存在》もまた奇怪千万な《光》へと還元出来るのだらうか? 
――つまり、それつて《光》の《存在》が此の宇宙たる《吾》=宇宙と《他》=宇宙を辛うじて繋ぐ接着剤と看做せるか、といふ事かね? 仮にさうだとすればそれはまた重力だとも、さもなくば時間だとも考へられるね? 
――ああ、何でも構はぬが、《吾》が《存在》すれば、《他》が《存在》するのが必然ならばだ、此の宇宙が《存在》する以上、此の宇宙とは全く摂理が違ふ、つまり、「《他存在》の法則」に従属する《他》=宇宙は何としても《存在》してしまふのは、《もの》の道理だらう? 
――ああ。
――そして、《吾》と《他》は何かしらの関係を持つのもまた《もの》の道理だらう? 
――ああ、さうさ。此の世における《他》の《存在》がそもそも「《他存在》の法則」を暗示させるし、《他》が《存在》すれば《吾》と何かしらの関係を《他》も《吾》も持たざるを得ぬのが此の宇宙での道理だが、さて、しかし、仮令、《他》=宇宙が《存在》してもだ、此の《吾》=宇宙と関係を持つかどうかは、とどのつまりは「《他存在》の法則」次第ぢやないかね? 
――それは《吾》と《他》が関係を持つのは徹頭徹尾、此の《吾》=宇宙での「《吾存在》の法則」による此の世の出来事は、《他》=宇宙での「《他存在》の法則」に変換出来なければならず、つまり、換言すれば、《吾》=宇宙と《他》=宇宙の関係は関数で表わされねばならず、更にそれは最終的には光といふ奇怪千万な《存在形式》に還元されてしまはなければならぬといふ事だね? 
――ああ、さうさ。
――ならばだ、《吾》が「《吾存在》の法則」のみに終始すると《吾》=宇宙は未来永劫が《他》=宇宙の《存在》を知らずにゐる可能性もあるといふ事だね? 
――さうさ。むしろその可能性の方が大きいのぢやないかな。実際、此の世でも《吾》が未来永劫に亙つて見知らぬ《他》は厳然と数多も《存在》するぢやないか。 
――それはその通りに違ひないが、しかし、《吾》と未来永劫出会ふ事なく、一見、《吾》とは無関係に思へるその《他》の《存在》、換言すれば《存在》の因果律無くしては《吾》は決して此の世に出現出来ないとすれば、《吾》は必ず、それが如何なる《もの》にせよ、その《もの》たる《他》と何らかの関係を持つてしまふと考へられぬかね? 
――へつ、つまり、此の宇宙も数多に《存在》するであらう宇宙の一つに過ぎず、換言すれば、数多の宇宙が《存在》するMultiverseたる「大宇宙」のほんの一粒の砂粒程度の塵芥にも等しい局所の《存在》に過ぎぬと? 
――へつへつへつ、その「大宇宙」もまた数多に《存在》するつてか――。
――つまり、《吾》と《他》とは共に自己増殖せずにはゐられぬFractal(フラクタル)な関係性にあると? 
――多分だが、さうに違ひない。しかし、「《吾存在》の法則」と「《他存在》の法則」は関数の関係にはあるが、全く別の《もの》と想定した方が《自然》だぜ。
――何故かね? 
――ふつ、唯、そんな気がするだけさ。
――そんな気がするだけ? 
――さうさ。例へば私と《他人》は全く同じ種たる人間でありながら、《吾》にとつては超越した《存在》としてその《他人》を看做す外に、《吾》は一時も《他人》を承認出来ぬではないか! 而もだ、私が未来永劫見知らぬ未知の《他人》は数多に《存在》するといふのも此の世の有様として厳然とした事実だぜ。
――逆に尋ねるが、《吾》が仮に《他》と出会つた場合、それはStarburst(スターバースト)の如く《吾》にも《他》にもどちらにも数多の何かが生成され、ちえつ、それは爆発的に誕生すると言つた方がいいのかな、まあ、いづれにせよ、《吾》と《他》と出会ひ、つまりは《吾》=宇宙と《他》=宇宙の衝突は、数多の《吾》たる何かと、数多の《他》たる何かを誕生させてしまふとすると、それは寧ろ男女の性交に近しい何かだと思ふのだが、君はどう思ふ? 
――それは銀河同士の衝突を思つての君の妄想だらうが、しかし、此の世が《存在》するのであれば、彼の世もまた《存在》せねば、《存在》は爆発的になんぞ誕生はしなかつたに違ひないと思ふが、つまり、彼方此方で「くくくきききいんんんんん~~」などといふ時空間の《ざわめき》は起こる筈はない。
――へつ、《吾》=宇宙が《吾》を呑み込んだげつぷだらう、その《ざわめき》は? 
――さうさ。《吾》=宇宙が《他=吾》若しくは《反=吾》、つまり、《吾ならざる吾》を呑み込まざるを得ぬ悲哀に満ちた溜息にも似たげつぷさ。
――くくくききききいんんんんん。
と、再び彼の耳を劈く断末魔の如き不快で耳障りな時空間の《ざわめき》が彼を全的に呑み込んだのであつた。そして、彼は一瞬息を詰まらせ、思はず喘ぎ声を
――あつは。
と漏らしてしまひ、《吾》ながら可笑しくて仕様がなかつたのであつた。
――ぷふい。

…………
…………

――何がをかしい? 
――いや何ね、《吾》と《他》の来し方行く末を思ふと、どうも俺にはをかしくて仕様がないのさ。
――膨脹する此の《吾》=宇宙が《他》を餌にし、また、その《他》を消化する消化器官といふ《他》へ通じる穴凹を持たざるを得ぬ宿業にあるならばだ、そして、此の《吾》が数多の《他》に囲まれて《存在》してゐるに違ひないとすると、此の《吾》といふ《存在》のその不思議は、へつ、《吾》といふ《存在》もまた《他》に喰はれる宿命にあるをかしさは、最早嗤ふしかないぢやないか。
――あつは、さうだ、《吾》が《他》に喰はれる! さうやつて《吾》と《他》は輪廻する。
――つまり、《吾》が《他》を喰らへば、《他》は《吾》に消化され、《物自体》が露になるかもしれぬといふ事だらう? 
――《吾》もまた然りだ。しかし、それは《物自体》でなく、《存在》の原質さ。
――《存在》の原質? 
――さう。ばらばらに分解された《存在》の原質には勿論自意識なる《もの》がある筈だが、そのばらばらの《存在》の原質が何かの統一体へと多細胞生物的な若しくは有機的な《存在》へと進化すると、その総体をもつてして「俺は俺だ!」との叫び声、否、羊水にたゆたつてゐた胎児が産道を通り、つまり、《他》へ通づる穴凹を通つて生まれ出た赤子が、臍の緒を切られ最初に発するその泣き声こそが、「俺は俺だ!」と、朧に自覚させられる契機になるのさ。
――つまり、それは、此の時空間の彼方此方で発せられる耳を劈く《ざわめき》こそが「俺は俺だ!」と朧に自覚させられるその契機になつてしまふといふ事か? 
――だから、げつぷなのさ。《吾》はげつぷを発する事で朧に《吾》でしかないといふ宿業を自覚し、ちえつ、《吾》は《吾》である事を受容するのさ。
――受容するからこそ《吾》がげつぷを発する、否、発する事が可能ならばだ、《吾》が《吾》にぴたりと重なる自同律は、《吾》における泡沫の夢に過ぎぬぢやないかね? つまり、《吾》は《吾》でなく、そして、《他》は《他》でない。
――さう。全ての《存在》が己の事を自己同一させる事を拒否するのが此の世の摂理だとすると、へつ、《存在》とはそもそもからして悲哀を背負つた此の世の皮肉、つまり、それは特異点の《存在》を暗示して已まない何かの《もの》に違ひない筈だ――。
――《存在》そのものが、そもそも矛盾してゐるぢやないか! 
――だから《存在》は特異点を暗示して已まないのさ。
――へつ、矛盾=特異点? それは余りにも安易過ぎやしないかね? 
――特異点を見出してしまつた時点で、既に、特異点は此の世に《存在》し、その特異点の面(をもて)として《存在》が《存在》してゐるとすると? 
――逆に尋ねるが、さうすると、無と無限の境は何処にある? 
――これまた、逆に尋ねるが、それが詰まるところ主体の頭蓋内の闇たる五蘊場に明滅する表象にすら為り切れぬ泡沫の夢達だとすると? 
――ぶはつ。
――をかしければ嗤ふがいいさ。しかし、《存在》は、既に、ちえつ、「先験的」に矛盾した《存在》を問ふてしまふ《存在》でしかないといふTautology(トートロジー)を含有してゐる以上、《存在》は《存在》する事で既に特異点を暗示しちまふのさ。
――さうすると、かう考へて良いのかね? つまり、《存在》は無と無限の裂け目を跨ぎ果(をほ)せると? 
――現にお前は《存在》してゐるだらう? 
――くきいんんんんん――。
と、再び彼は耳を劈く不快な《ざわめき》に包囲されるのであつた。

…………
…………

――しかし、《存在》は己の《存在》に露程にも確信が持てぬときてる。その証左がこの不愉快極まりない《ざわめき》さ。
――ふつふつふつ。《存在》が己の《存在》に確信が持てぬのは当然と言へば当然だらう。何せ《存在》は無と無限の裂け目を跨ぎ果す特異点の仮初の面なんだから。
――やはり、《存在》は仮初かね? 
――仮初でなけりや、何=《もの》も《吾》である事に我慢が出来ぬではないか! 《存在》は《存在》において、《一》=《一》を見事に成し遂げ、此の世ならざる得も言はれぬ恍惚の境地に達するとでも幽かな幽かな幽かな幻想でも抱いてゐたのかね? 
――それぢや、お前がげつぷと言ふこの不愉快極まりない《ざわめき》は何なのかね? この《ざわめき》こそ《存在》が《存在》しちまふ事の苦悶の叫び声ではないのかね? 
――仮にさうだとしてお前に何が出来る? 
――やはり、苦悶の叫び声なんだな……。
――さう。《存在》するにはそれなりの覚悟が必要なのさ。だが、今もつて(もの)も《吾》が《吾》である事に充足した《存在》として、此の全宇宙史を通じて《存在》なる《もの》が出現した事はない故に、へつ、《吾》が《吾》でしかあり得ぬ地獄での阿鼻叫喚が《ざわめき》となつて此の世に満ちるのさ。しかし、その《吾》といふ名の地獄での阿鼻叫喚は苦悶の末の阿鼻叫喚であつた事はこれまで一度もあつたためしがなく、つまり、地獄の阿鼻叫喚と呼ぶ《もの》の正体は、《吾》が《吾》である事に耽溺した末の《吾》に溺れ行く時の阿鼻叫喚、つまり、性交時の女の喘ぎ声にも似た恍惚の歓声に違ひないのさ。
――歓声? 
――さう。喜びに満ちた《存在》の歓声さ。
――ちえつ、これはまた異な事を言ふ。この不愉快極まりない《ざわめき》が喜びに満ちた歓声だと? 
――性交時の女の喘ぎ声にも似た《吾》が《吾》の快楽に溺れた歓声だから、へつ、尚更、《吾》はこの《ざわめき》が堪らないのさ。惚れた女の恍惚の顔と喘ぎ声は、男を興奮させるが、しかし、その興奮は、また、気色悪さで吐き気を催す感覚と紙一重の違ひでしかなく、つまり、酩酊するのも度が過ぎれば嘔吐を催すといふ事に等しく、女と交合してゐる男は、さて、どれ程恍惚の中に耽溺してゐる《存在》か、否、交合においてのみ死すべき宿命の《存在》たる《吾》といふ名の《地獄》が極楽浄土となつて拓ける――のか? 
――つまり、約めて言へば、この《ざわめき》は恍惚に満ちた《他》の《ざわめき》だと? 
――さうさ。
――すると、《吾》にとつて《他》の恍惚が不愉快極まりないのは、《吾》が《吾》に耽溺するその気色悪さ故にその因があると? 
――当然だらう。特異点では別に《一》=《一》が成り立たうが、成り立たなからうが、どうでもよい事だからな。
――へつ、そりやさうだらう。だが、《一》の《もの》として仮初にも《存在》せざるを得ぬ《吾》なるあらゆる《もの》は、此の世で《一》=《一》となる確率が限りなく零に近いにも拘はらず、《吾》は現世において《吾》=《吾》を欣求せずにはいられぬ故に、ちえつ、《吾》は《吾》に我慢がならず、その挙句に《吾》は《吾》を忌み嫌ふ結果を招くのではないか? 
――逆に尋ねるが、此の《吾》なる《存在》は、此の世に徹頭徹尾()を実在する《もの》として認識したいのだらうか? 
――はて、お前が言ふその実在とはそもそも何の事かね? 
――ふむ。実在か……。つまり、実在とはそもそも仮初の《存在》に過ぎぬと思ふのかい? 
――当然だらう。
――当然? 
――所詮、《存在》は、ちえつ、詰まる所、確率へと集約されてしまふしかない《もの》だからね。
――やはり、《一》=《一》は泡沫の夢……か。
――さうさ。《一》すらも、へつ、《一》が複素数ならば、複素数としての仮面を被つた《一》の面は、±∞×iといふ虚部の仮面をも被つた《存在》として此の世に現はれなければをかしいんだぜ。
――へつ、さうだとすると? 
――しかし、……、虚数単位をiとすると、±∞×iは、さて、虚数と言へるのかね? 
――∞×iが虚数かどうかに如何程の意味があるのかね? しかし、残念ながら±∞×iもまた虚数な筈だぜ。
――つまり、±∞×iが虚数だとすると、実在は、即ち、《存在》は必ず複素数として此の世に《存在》する事を強ひられる以上、その《存在》は必ず不確定でなければならぬ事態になるが、へつ、その不確定、つまり、曖昧模糊とした《吾》として、この《吾》なる《存在》は堪へられるのかね? 
――だから、《吾》が《吾》を呑み込む時にげつぷが、若しくは恍惚の喘ぎ声がどうしても出ちまふのさ。
――くきいんんんんん――。
 再び、彼の耳を劈く不快極まりない《ざわめき》が何処とも知れぬ何処かからか聞こえて来たのであつた。
――すると、《一》は一時も《一》として確定される事はないといふ事だね? 
――ああ、さうさ。
――しかし、ある局面では《一》は《一》であらねばならぬのもまた事実だ。違ふかね? 
――さあ、それは解からぬが、しかし、《存在》しちまつた《もの》はそれが何であれ、此の世に恰も実在するが如くに《存在》する術、ちえつ、つまり《インチキ》を賦与されてゐるのは間違ひない。
――ちえつ、所詮、実在と《存在》は未来永劫に亙つて一致する愉悦の時はあり得ぬのか――。
――それでも、《吾》も《他》も、つまり、此の世の森羅万象は《存在》する。さて、この難問をお前は何とするのかね? 
――後は野となれ山となれつてか――。つまり、《他》によつて観測の対象になり下がつてしまふ《吾》のみが、此の世の或る時点で確定した《吾》として実在若しくは《存在》するかの如き《インチキ》の末にしか《吾》が《吾》だといふ根拠が、そもそも此の世には《存在》しない、ちえつ、忌忌しい事だがね。
――だから、《存在》は皆が《ざわめく》のさ。
――つまり、《一》者である事を《他》の観測によつて強要される《吾》は、《一》でありながら、其処には《零》といふ《存在》の在り方すら暗示するのだが、《一》者である事を強要される《他》における《吾》は、しかし、《吾》自身が《吾》を確定しようとすると、どうしても《吾》は-∞から+∞の間を大揺れに揺れる或る振動体としてしか把握出来ぬ、換言すれば、此の世に《存在》するとは絶えず±∞へと発散する《渾沌》に《存在》は曝されてゐる、儚い《存在》としてしか、ちえつ、実在出来ぬとすると、へつ、《存在》とはそもそも哀しい《もの》だね。
――くきいんんんんん――。
――だからどうしたと言ふのかね? へつ、哀しい《もの》だからと言つて、その哀しさを拭う為に直ちにお前はその哀しい《もの》として《存在》する事を已められるかね? 
――へつ、已められる訳がなからうが――。
――土台、《吾》とは何処まで行つても《吾》によつて仮想若しくは仮象された《吾》以上にも以下にもなれぬ、しかし、《他》が厳然と《存在》する故に、《吾》は《他》によつて観察された《吾》である事を自然の摂理として受け入れる外ない矛盾! 嗚呼。
――それ故、男は女を、女は男を、換言すれば、陰は陽を、陽は陰を求めざるを得ぬといふ事かね? 
――さう。男女の交合が悦楽の中に溺れるが如き《もの》なのは、《吾》が《吾》であつて、而も、《吾》である事からほんの一寸でも解放されたかの如き錯覚を、《吾》は男女の交合のえも言へぬ悦楽の中に見出す愚行を、へつ、何時迄経つても已められぬのだ。哀しい哉、この《存在》といふ《もの》は――。
――へつ、男女の交合の時の愉悦? さて、そんな《もの》が、実際のところ、《吾》にも《他》にもあるのかね? 
――多分、ほんの一時はある筈さ。それも阿片の如き《もの》としてな。また、チベツト仏教では男女の交合は否定されるどころか、全的に肯定されてゐて、男女間の交合は悟りの境地の入り口でもある。
――つまり、男女の交合時、《吾》と《他》は限りなく《一》者へと漸近的に近付きながら、《吾》と《他》のその《一》が交はる、つまり、《一》ではない崇高な何かへと限りなく漸近すると? 
――へつ、此の世に《一》を脱するかの如き仮象に溺れる愉悦が無ければ、《存在》は己の《存在》するといふ屈辱には堪へ切れぬ《もの》なのかもしれぬな。
――だから、《吾》は《吾》を呑み込む時、不快なげつぷを出さざるを得ぬのさ。
――はて、一つ尋ねるが、男女の交合の時、その《存在》は不快なげつぷを出すのかね? 
――喘ぎはするが、げつぷはせぬといふのが大方の見方だらう。だがな……。
――しかし、仮に男女の交合時が此の世の一番の自同律の不快を体現してゐると定義出来たならばお前はどうする? 
――ふつふつ。さうさ。男女の交合時が此の世の一番の自同律の不快の体現だ。
――つまり、男女の交合時、男女も共に存在し交合に耽るのだが、詰まる所、男女の交合は、交合時にその男女は己の《吾》といふ底知れぬ陥穽に自由落下するのだが、結局のところ、《他》が自由落下する《吾》を掬ひ取つてくれるといふ、ちえつ、何たる愚劣! その愉悦に、つまり、一対一として、《吾》が此の世では、やはり、徹頭徹尾、《吾》といふ独りの《もの》でしかない事を否が応でも味ははなければならぬ。その不快を、《吾》は忘却するが如く男女の交合に、己の快楽を求め、交合に無我夢中になつて励むのが常であるが、それつて、詰まる所、自同律からの逃避でしかないのぢやないかね? 
――つまり、男女の交合とは、仮初にも《吾》と《他》との《重ね合はせ》といふ、此の世でない彼の世への入り口にも似た《存在》に等しく与へられし錯覚といふ事か――。
――くきいんんんんん――。
――でなければ、此の世を蔽ひ尽くすこの不快極まりない《ざわめき》を何とする? 
――それでは一つ尋ねるが、男の生殖器を受け入れた女が交合時悲鳴にも似た快楽に耽る喘ぎ声を口にするのもまた自同律の不快故にと思ふかね? 
――さうさ。男の生殖器すら呑み込む女たる雌は、男たる雄には到底計り知れぬ自同律の不快の深さにある筈さ。
――筈さ? ちえつ、すると、お前にも男女の交合の何たるかは未だ解かりかねるといふ事ぢやないかい? 
――当然だらう。現時点で《吾》は《死》してゐないのだから、当然、正覚する筈も無く、全てにおいて断言出来ぬ、《一》ならざる《存在》なのだからな。
――しかし、生物は《性》と引き換へにか、《死》と引き換へにかは解からぬが、何故に《死》すべき《存在》を《性》と引き換へに選択したんだらう? 
――それは簡単だらう。つまり、《死》と引き換へに《性》を選び、《死》すべき《存在》を選ばざるを得なかつたのさ。それ以前に、《存在》とは《死》と隣り合はせとしてしか此の世に《存在》する事を許されぬのではないかね? 
――くきいんんんんん――。
――それはまた何故? 
――約めて言へば種の存続の為さ。
――ちえつ、つまり、種が存続するには個たる《存在》は《死》すべき《もの》として此の世に《存在》する事を許された哀れな《存在》でしかないのさ。
――だが、その哀れな《存在》で構はぬではないか。
――ああ。不死なる《存在》が仮に《存在》したとしてもそれはまた自同律の不快を未来永劫に亙つて味はひ尽くす悲哀! 
――それを「《吾》、然り!」と受け入れてこその《存在》ぢやないのかね? 
――ふつ、「《吾》、然り!」か……。しかし、《吾》は気分屋だぜ。
――だから「《吾》、然り!」なのさ。
――つまり、《存在》は、即ち森羅万象は、全て「《吾》、然り!」と呪文を唱へてやつと生き延びるか――。
――例へば《存在》が《吾》を未来へと運ぶ、若しくはRelayする《もの》だとしたならば?
――ふつ、つまり、DNAが《存在》を、否、《私》なる自意識を未来へ運ぶ乗り物と看做す、へつ、一つの「見識」ある考へ方を持ち出して、仮初の《合理》を得ると言ふ、つまり、現代の迷信にもなり兼ねない《科学》的なる《もの》を持ち出す馬鹿馬鹿しい話をしたいのかい?
――馬鹿な話? 何故に馬鹿な話と断定できるのかね?
――《科学》は絶えず時代遅れの概念になつちまふからさ。
――例へばここで「クオリア」といふ《もの》を持ち出して、人間の感覚、または、統覚について何かを語る事がすでに時代遅れと言ふのかね?
――さうさ。《科学》的なる思考は、若しくは概念は絶えず《更新》されるべく《存在》してゐるからさ。
――つまり、《存在》を意識する《吾》もまた「クオリア」だとして、その《吾》といふ《もの》が、仮初にも《科学》を受け入れるならば、《吾》なる《もの》、その《吾》といふ「クオリア」もまた絶えず《更新》されてゐると?
――違ふかね?
――さうすると、《吾》は《吾》によつて絶えず乗り越えられるといふ思考は、下らぬ自己満足でしかないといふ事か……。
――さうさ。「クオリア」を《吾》が《吾》に対する表象と同義語と看做すならばだ、《吾》なる《もの》はそれが何であれ「《吾》、然り!」と全的に自己肯定して此の世界を闊歩するのが一番さ。
――絶えずこの世界を《肯定》せよか――。
――然しながら、それが出来ぬのが《存在》のもどかしさではないかね?
――くきいんんんんん――。
――ちえつ、厭な《ざわめき》だぜ――。
――ここで謎謎だ。「絶えず虐められながら、また、その《存在》をこれでもかこれでもかと否定し続けられつつも、その《存在》は《存在》する事を痩せ我慢してでも《存在》する事を強ひられる《もの》とは」何だと思ふ?
――ちえつ、下らぬ。
――さう、下らぬ《もの》からお前はこれまで一度も遁れられた事はないのだぜ。そら、何だ?
――くつ、答へは簡単「《吾》」だ!
――ご名答!
――だから何だといふのかね?
――つまり、此の世の森羅万象は、ひと度、《存在》しちまふと、最早それから遁れられぬ宿命にある。
――だから?
――だから、《吾》もまた《科学》と同様に絶えず乗り越えられる《存在》なのさ。
――くきいんんんんん――。
――それは逃げ口上ぢやないかね?
――逃げ口上? 何処がかね?
――つまり、《吾》も《科学》も「先験的」に乗り越えられねばならぬ《もの》と規定してゐる処が、そもそもその《吾》が《吾》と名指してゐる《もの》からの遁走ぢやないのかね?
――ふつふつふつ。それは《吾》の幻想でしかない!
――つまり、「ごつこ」遊びと同じといふ事かね?
――さう。《吾》は絶えず「《吾》ごつこ」をする様に仕組まれてゐるのさ。
――しかし、現実においても《吾》が《存在》する以上、「ごつこ」では済まないのと違ふかね?
――さうさ。しかし、現実においても《吾》の事を自ら名指して「《吾》ごつこ」を無理矢理に《吾》と見立ててゐる勘違ひした《存在》のなんと多い事か、ちえつ!
――ちよつ、待て! 《吾》は絶えず《更新》され其処から遁走する事を仕組まれた《存在》ならば、絶えず「《吾》ごつこ」、つまり、仮象の《吾》をのつぴきなぬ故にでつち上げざるを得ずにその仮象の《吾》を以てして《吾》は《吾》から絶えず遁走する術として「先験的」に仕向けられてゐるのぢやないかね?
――ふつ、さうさ。その通りだ。
――つかぬ事を訊くが、《吾》とはそもそもからして《更新》される《もの》として如何にして規定出来るのかね? つまり、《更新》される《吾》こそ見果てぬ夢の類でしかないのぢやないかね?
――つまり、《更新》される《吾》とは《吾》に関する進歩主義的な、ちえつ、何と言つたらいいのか、つまり、《吾》とは絶えず《更新》してゐる《もの》と看做す事で自己陶酔に溺れる。
――それで?
――つまり、《吾》は《更新》されるのぢやなく、唯、《変容》してゐる、否、《変容》する《吾》を夢見てゐるに過ぎぬのぢやないかね?
――だとして、何かご不満でも?
――いや、何、《吾》とは、哀しき哉、《吾》に忌避され、また、《吾》自身に追ひ詰められる堂堂巡りを未来永劫に亙つて繰り返されるのみの、夢幻空花なる幻でしかないのぢやないかね?
――だからどうしたと言ふのか! そもそも《吾》なる《もの》が《吾》を問ふ事自体、数学の再帰関数のやうなもので、《吾》の基底の値が決定されれば、その《吾》といふ再帰関数はたちどころに解けてしまふ代物ぢやないのかね?
――へつ、《吾》の基底の値が《存在》するか如くに絶滅せずに『汝自身を知れ!』と何時の時代でも問ひ続けて来た一種族が人間ぢやないのかね?
――くきいんんんんん――。
 と、またしても深い極まりない耳障りな《ざわめき》が彼の耳を劈くのであつた。暫く彼は黙してその不快な《ざわめき》が消えるのを待つて、そして、かう自身の《異形の吾》に吐き捨てるやうに言つたのであつた。
――ちえつ、厭な耳鳴りだぜ。
――ふつふつふつ。これは此の世の森羅万象がひそひそ話をして、そして、吾等の対話の行く末に聞き耳を欹ててゐるクオリアがこの耳障りな《ざわめき》の正体かもしれないぜ。
――何を今更。お前は、この《ざわめき》は《吾》が《吾》を呑み込んだ時の《げつぷ》だと先に言つた筈だかね?
――だから尚更この《ざわめき》は、此の世に《存在》すべく強要された《存在》共達の、『《吾》は何処?』『《吾》は何?』といふ恰も迷子の幼児が泣き喚く様に似た切実な問ひでもあるのさ。
――何を言つてゐるのかね? 一体全体お前は何を言つてゐるのかね? 俺にはお前の言つてゐる事が全く理解出来ぬのだがね?
――つまり、《吾》は《吾》を呑み込む事で《吾》を《更新》させ、或ひは《吾》と《吾》との差異が《げつぷ》となつて発せられる事で生じる《吾》の《変容》にぢつと我慢し、この不快極まりない《吾》が《吾》である事の事実を、或る時は忌避し、或る時は追ひ詰めて、絶えず《吾》は《吾》といふ鬼を探す鬼ごつこに夢中な幼児の如く、つまり、《存在》の幼子でしかないのさ。
――《存在》の幼子とは一体全体何の事かね?
――つまり、《存在》はそれが何であれ《吾》といふ《もの》を探す青臭い《存在》といふ意味さ。
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