第2話

文字数 3,011文字

――へつ、己が嫌ひか? 
――ふつふつ、直截的にそれを俺に聞くか……。まあ良い。多分、俺は俺を好いてゐるが故にこの己が大嫌ひに相違ない……。
――へつ、その言ひ種さ、お前の煮え切らないのは。
――ふつふつ、どうぞご勝手に。しかし、さう言ふお前はお前が嫌ひか? 
――はつはつはつはつはつ、嫌ひに決まつてらうが、この馬鹿者が! 
――……しかし……この《己》にすら嫌はれる《己》とは一体何なのだらうか? 
――《己》を《己》としてしか思念出来ぬ哀しい存在物さ。
――それにはこの音ならざる《悲鳴》を上げてゐる時空間も当然含まれるね? 
――勿論だぜ。
――きいきいきいんんんんん――。
と、その時、突然時空間の音ならざる《悲鳴》がHowling(ハウリング)を起こしたかのやうに彼の鼓膜を(つんざ)き、彼の聴覚機能が一瞬麻痺した如くに時空間の《断末魔》にも似た音ならざる大轟音が彼の周囲を蔽つたのであつた……。
――今の聞ゐただらう? 
――ああ。
――何処かで因果律が成立してゐた時空間が《特異点》の未知なる世界へと壊滅し変化した音ならざる時空間の《断末魔》に俺には思へたが、お前はどう聞こえた?
――へつ、《断末魔》だと? はつはつはつ。俺には《己》が《己》を呑み込んで平然としてゐるその《己》が《げつぷ》をしたやうに聞こえたがね――。
――時空間の《げつぷ》? 
――否、《己》のだ! 
――へつ、だつて時空間もまた時空間の事を《己》と《意識》してゐる筈だらう? つまりそれは《時空間》が《時空間》を呑み込んで平然として出た《時空間》の《げつぷ》の事ぢやないのか? 
――さう受け取りたかつたならばさう受け取ればいいさ。どうぞご勝手に、へつ。
――……ところで《己》が《己》を呑み込むとはどう言ふ事だね? 
――その言葉そのままの通りだよ。此の世で《己》を《己》と自覚した《もの》は何としても《己》を呑み込まなければならぬ宿命にある――。
――仮令()が《己》を呑み込むとしてもだ、その《己》を呑み込んだ《己》は、それでも《己》としての統一体を保てるのかね? 
――へつ、無理さ! 
――無理? それじやあ《己》を呑み込んだ《己》はどうなるのだ? 
――……《己》は……《己》に呪はれ……絶えずその苦痛に呻吟する外ない《己》であり続ける責苦を味はひ尽くすのさ。
――へつ、《己》とは地獄の綽名なのか? 
――さうだ――。
――さうだだと? 《己》が地獄の綽名だといふのか?  
――じやあ、お前は《己》を何だと思つてゐたのだ? へつ、つまり、お前は《己》を何と名指すのだ? 
――そもそもだ、《己》が《己》であつてはいけないないのか? 
――いや、そんな事はないがね、しかし、《己》は《己》と名指される事を最も嫌悪する《存在》ぢやないかね? 
――ちえつ。
――だから、《存在》する《もの》全てはこの地獄でざわめき呻吟せざるを得ないのさ。
――えつ、地獄での呻吟だと? 先程このざわめきは《己》が《己》を呑み込んだ《げつぷ》と言つた筈だが、それがこのざわめきの正体ではないのかい? 
――その《げつぷ》が四方八方至る所で起こつてゐるとしたならば、お前は何とする? 
――何とするも何もなからう。無駄な抵抗に過ぎぬ事は火を見るよりも明らかだがね……、唯、耳を塞ぐしかない。まあ、それはさてをき、これは愚問に違ひないが、そもそも《己》は《己》を呑み込まなければ一時も《存在》出来ぬ《存在》なのかね? 
――さうさ。《己》は《己》になる為にも《己》を絶えず呑み込み続ける外ないのさ。
――それは詭弁ではないのか? 
――詭弁? 
――さうさ。《己》は《己》なんぞ呑み込まなくても《己》として既に《存在》してゐる……違ふかね? 
――つまり、お前は《存在》すれば即ち《己》といふ《意識》が《自然》に芽生えると考へてゐるといふ事か……。
――さうだ。
――ふつ、よくそんな能天気な考へに縋れるね。ところで、お前はお前である事が《悦楽》なのかい? 
――《悦楽》? ははあ、成程、自同律の事だな。
――さう、自同律の事さ。詰まる所、お前は自同律を《悦楽》をもつて自認出来るかね? 
――ふつ、自同律が不快とばかりは決められないんぢやないかね? 自同律が《悦楽》であつてもいい筈だ。
――じやあ、この耳障りこの上ないざわめきを何とする? 
――もしかすると地獄たる《己》といふ《存在》共が「吾、見つけたり。Eurika!」と快哉を上げてゐるのかもしれないぜ。
――ふはつはつはつ。冗談も大概にしろよ。
――冗談? 《己》が《己》である事がそんなにをかしな事なのかい? 
――《己》が《己》である事の哀しさをお前は知らないといふのか。《己》が《己》である事の底無しの哀しさを。
――馬鹿が――。知らない訳がなからうが。詰まる所お前は「俺」なのだからな、へつ。
――ならば尚更この耳障りこの上ないざわめきを何とする? 
――ふむ。ひと言で言へば、このざわめきから遁れる事は未来永劫不可能だ。つまり、お前が此の世に存在する限り、そして、お前が彼の世へ行つてもこのざわめきから遁れられないのさ。
――へつ、だからこのざわめきを何とする? 
――ちえつ、お手上げと言つてゐるだらう。率直に言つて、この《存在》が《存在》してしまふ哀しさによるこの耳障り極まりないざわめきに対しては何にも出来やしないといふ事さ。
――それぢや、このざわめきを受け入れろと? 
――ふん、現にお前はお前である事を受け入れてゐるぢやないか! 仮令、《存在》の《深淵》を覗き込んでゐようがな。
――くいんんんんんん~~。
――ふつ、また何処ぞの《己》が《己》に対してHowlingを起こしてゐやがる。何処かで何ものかが《存在》の《げつぷ》をしたぜ、ちえつ。
――ふむ。……いや……もしかするとこれは《げつぷ》じやなくて《存在》の《溜息》ぢやないのかね? 《存在》が《存在》してしまふ事の哀しき《溜息》……。
――へつへつ、その両方さ。
――ちえつ、随分、都合がいいんだな。それぢや何でもありじやないか? 
――《存在》を相手にしてゐるんだから何でもありは当たり前だろ。
――当たり前? 
――さう、当たり前だ。ところで一つ尋ねるが、これまで全宇宙史を通して《自存》した《存在》は出現したかい? 
――藪から棒に何だね、まあ良い。それは《自律》じやなくて《自存》か? 
――さう、《自存》だ。つまり、この宇宙と全く無関係に《自存》した《存在》は全宇宙史を通して現はれた事があるかね? 
――ふむ……無いに違ひないが……しかし……この宇宙は実のところそんな《存在》が出現する事を秘かに渇望してゐるんじやないのかな……。
――それがこの宇宙の剿滅を誘はうとも? 
――さうだ。この宇宙がそもそも剿滅を望んでゐる。
――何故さう思ふ? 
――何となくそんな気がするだけさ。
 有機物の死骸たるヘドロが分厚く堆積した溝川(どぶかは)の彼方此方で、鬱勃と湧く腐敗Gas(ガス)のその嘔吐を誘ふ何とも遣り切れないその臭ひにじつと我慢する《存在》にも似たこの時空間を埋め尽くす《ざわめき》の中に、《存在》する事を余儀なくせざるを得ない彼にとつて、しかしながら、それはまた堪へ難き苦痛を彼に齎すのみの地獄の責苦にしか思へぬのであつたが、それは詰まる所、《存在》の因業により発せられる《断末魔》が《ざわめき》となつて彼を全的に襲ひ続けると彼には思はれるのであつた。

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