『ざわめき』一

文字数 1,902文字

――君にはあのざわめきが聞こえないのかい? 
――えつ、何の事だい? 
――時空間が絶えず呻吟しながら《他》の《何か》への変容を渇仰してゐるあのざわめく音が、君には聞こえないのかい? 
――ふむ。聞こえなくはないが……その前に時空間が渇仰する《他》とはそもそも何の事だね? 
――へつ、《永劫》に決まつてらあ! 
――えつ、《永劫》が時空間にとつての《他》? 
――さうさ。《永劫》の相の下で時空間はやつと自らを弾劾し(おほ)せられるのさ。さうする事で時空間はのつぴきならぬところ、つまり、《金輪際》に追ひやられて最終的には《他》に変化(へんげ)出来る。
――へつ、それつて《特異点》の事じやないのかね? 
――……すると……君は《永劫》は《特異点》の中の一つの相に過ぎぬと看做してゐるのか……。しかしだ……。
――しかしだ、《特異点》は《存在》が隠し持つてゐる。つまり、時空間と雖も《存在》に左右される宿命を負つてゐる。即ち、時空間は《物体》への変化を求めてゐるに過ぎぬ! 違ふかね? 
――否! 《存在》は《物体》の専売特許じやないぜ。時空間もまた「吾とは何ぞや」と自らが自らに重なる不愉快極まりない苦痛をぢつと噛み締めながら自身に我慢してゐるに違ひない。
――では君にとつて《特異点》はどんなものとして形象されてゐるんだい? 
――奈落さ。
――ふむ。それで? 
――此の世にある《物体》として《存在》してしまつたものはそれが何であらうとも《地獄》の苦痛を味はひ尽くさねばならぬ。
――ふつ、それは時空間とて同じではないのかね? 
――さうさ……。時空間も《存在》する以上、《地獄の奈落》を味はひ尽くさねばならぬ。
――その奈落の底、つまり《金輪際》が君の描く《特異点》の形象か? 
――《底》といつても、つまり《金輪際》とは限らないぜ。もしかすると、へつへつへつ、《天上界》が《特異点》の在処かもしれないぜ。
――ちえつ、だからどうしたと言ふんだ? それはある種の詭弁に過ぎぬのじやないかね? 
――……自由落下……。俺が《特異点》に対して思ひ描いてゐる形象の一つに、《落下》してゐながら《飛翔》してゐるとしか《認識》出来ない《自由落下》の、天地左右の無意味な状態を《特異点》の一つの形象と看做してゐる……。
――しかし……、《自由落下》では《主体》はあくまで《主体》のままで、《永劫》たる《他》などに変化する事はないんぢやないかな? 
――ふつ、《意識》自体が《自由落下》してゐると考へるとどうかね? 
――へつ、それも《永劫》の《自由落下》かな? 
――ふつふつふつ、さうさ……。《意識》自体の《永劫》の《自由落下》……。どの道……《特異点》の相の下では《意識》……若しくは《思念》以外……その存在根拠が全て怪しいからな。
と、こんな無意味で虚しい事をうつらうつらと瞑目しながら《異形の吾》と自問自答してしまふ彼は、辺りの灯りが消えて深夜の闇に全的に没し、何やら不気味な奇声にも似た音ならざる時空間の《呻く》感じを無闇矢鱈に感じてしまふ、それでゐてぢつと黙したまま何も語らぬ時空間に結果として完全に包囲された状態でしかあり得ぬ己自身に対して、唯唯自嘲するのみしか術がなかつた口惜しさを噛み締めてゐた。この時空間のぴんと張り詰めたかの如き緊迫した感じは、彼の幼少時から続く不思議な感覚――それは彼にとつてはどうしても言葉では言ひ表せないある名状し難い感覚――で、彼にとつて時空間は絶えず音ならざる音を発する奇怪な《ざわめき》に満ちたある《存在》する《もの》、若しくは《実体》ある《もの》として認識されるのであつた。
――くくくあきききいんんん――。
 それは彼の脳が勝手にでつち上げた代物かもしれぬが、その時、時空間の《ざわめき》は例へばそんな風に彼には音ならざる《ざわめき》として聞こえてしまふのであつた。そんな時彼は
――ふつふつ……。
と何時も自嘲しながら自身に対して薄ら笑ひを浮かべてはその彼特有であらう時空間の音ならざる《ざわめき》をやり過ごすのであつたが、しかし、さうは言つても彼には彼方此方で時空間が《悲鳴》を上げてゐるとしか感じられないのもまた事実であつた。それは彼にとつては時空間が《場》としてすら《己》を強ひられる事への《悲鳴》としてしか感じられなかつたのである。それ故か彼にとつては《己》は全肯定するか全否定するかのどちらかでしかなく、しかし、彼方此方で時空間が《悲鳴》を上げてゐるとしか感じられない彼にとつては当然、全肯定するには未だ達観する域には達する筈もなく、只管(ひたすら)《己》を全否定する事ばかりへと邁進せざるを得ないのであつた。

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