第7話

文字数 5,084文字

 気を使ったのはマンションに入るときだった。普段は気にしない防犯カメラに一度、視線を向けてまるで潜入捜査をするスパイのように警戒しながらエレベータへと向かった。別に悪いことをしているわけではないのだけれど ドキドキと胸が鳴るのはきっと自分が連れて帰ろうとしているのが着ぐるみのクマだからだろう。幸いにも時間が遅かったので他の住人に出会うこともなく、自分の部屋へと到着する。クマを招き入れて玄関ドアを閉めたときに陽菜は大きく息を吐いた。

 「遠慮せずにあがって。」
 陽菜は勧めるけれどクマは玄関を入ってから部屋へあがろうとしなかった。
 LINEの通知音が鳴る。
 【ごめん、足を拭く雑巾ありますか?】
 「ああ………。」
 陽菜は言われて気づく。着ぐるみの彼の頭は別パーツだが躰は首から足先まで一体となっているので靴を履いていない。いわゆる裸足状態だった。彼が足裏を見せるとなるほどそのままで家に上がられるのは少し抵抗を憶えるくらい汚れていた。
 「待って。今、拭くものを持ってくる。」
 クマの脇を抜けて陽菜は洗面所に向かうと拭き掃除に使おうとしていたタオルと小さなバケツに水を入れた。
 【ありがとう。】
 クマからLINEが入る。
 【拭くときに頭を取りたいから】
 【部屋の奥へ行っておいてもらえるとありがたいです】
 クマが両手を合わせる。
 「了解。じゃあその間に奥を片付けておくね。」
 陽菜はそういうとバケツを彼に手渡して自分はリビングルームへと入った。その際に顔を見てやろうというような邪な考えが浮かばないようにドアを閉めておく。
 「よし。」
 奮い立たせるように小さな喝をいれて陽菜は散らかったテーブルの上や、脱ぎ散らかした部屋着、後で畳もうと思って小さな山を形成している洗濯物を片付ける。もちろん短時間でそれらすべてをやり遂げることは不可能に近いのでとりあえず衣類は寝室に移動させて、テーブルの上の食器類はキッチンシンクに運んだ。ただA地点からB地点、ないしC地点に運んだだけの仕事にある種の達成感を得て 取りこぼしがないか確かめる。ブラがソファと壁の隙間に落ちているのを見つけて慌てて回収し、それを寝室に放り込んだ。
ドアがノックされてガラス越しにクマが立っているのが見えた。

 【拭き終わった雑巾】
 【どこに置けばいいですか?】
 LINEが入る。
 「あ、はいはい。」
 陽菜はドアを開けてクマをリビングに招き入れると彼から雑巾とバケツを受け取る。
 【ごめん。】 
 【汚いまま渡すのも失礼かな】
 【って思ったので洗面台借りました。】
 「ありがとう。」
 陽菜は少しだけ汚れのついた雑巾とバケツを下駄箱の上に置いた。
 「お風呂沸すから適当に寛いでいてくれる?」
 クマが両手を振る。
 【流石にそれは厚かましい。】
 【シャワーで充分。】
 「なんで、浸かった方が気持ちいいよ?」
 【そうだけれど。】
 「遠慮しないでよ、命の恩人。」
 陽菜はクマの左肩付近に軽く触れて言った。
 【ありがとう。】
 クマは両手を合わせて頭を一度下げた。
 お風呂の準備をしてリビングに戻るとクマは所在なさげに立って窓の外に視線を向けていた。
 「座ったら?」
 陽菜が椅子を勧めるとクマはまた両手を合わせてダイニングチェアに座った。
 「何か飲む?」
 【お気遣いなく。】
 「私が飲みたい気分。付き合ってくれる?」
 【ありがとう、じゃあお茶ありますか?】
 「お酒じゃなく?」
 【クマだけどカエルなのです。】
 「カエルって?」
 【下戸。】
 【ゲコゲコでカエル。】
 「それならゲロゲロじゃない?」
 陽菜は冷蔵庫から麦茶と自分のためにビールを取り出した。ガラスのコップに麦茶を注いで彼の前に置く。
 【ありがとう】
 クマの対面に自分も腰を下ろして缶のまま陽菜はビールを飲んだ。自宅ではアルコール類を飲むのは彼女にとっても稀だったけれど今日は飲まなければ気が済まなかった。
クマは出された麦茶に手をつけないまま動かないでいる。なぜ飲まないだろうと疑問に思ったけれどすぐに自分目の前にいるからだと気付く。
 「ごめん、私が見ているから飲めないんだよね?」
 【と思うでしょう?】
 クマは肩から斜めに掛けているポーチからストローというよりは点滴の管に近いチューブを自慢げに取り出した。
 【仕事中にね、水分補給をするときは必需品なんだ。】 
 【これがあれば首の隙間からストローを差し込んで飲むことが出来る。】
 そう言うと彼は実演してみせた。チューブの中を麦茶がゆっくりとクマの首の隙間へと吸い上げられていく。喉の音が聞こえた。
 【難点はね、洗いにくいってこと】
 【飲み物を統一しておけば大丈夫なのだけれど】
 「食べるときは?」
 【食べるときは 頭は外すよ。流石にから揚げとかストローでは吸えないからね。】
 「ああ、そうだ。聞きたいことあったんだけれど。」
  陽菜は数日前、クマから入ったLINEのことを思い出した。
 【聞きたいこと?】 
 クマは頭を左に倒す。
 「ハンガーが一つもない都道府県ってどういう意味?」
 【なぞなぞだね。】 
 「それはなんとなくわかったよ。けれどなんでなぞなぞなの?」
 【その日、イベントのお手伝いでね。なぞなぞ大会をしていたんだ。】 
 【なぞなぞって子供のときはすぐに解けたりするけれど】
 【大人になると急に難しくなるよね。】
 「わかるかも。なぞなぞって屁理屈的なところあるよね。」
 【うん】
 【解けなかったからね】
 【悔しくて君にも問題を出してみた。】
 【それだけだよ。】
 「そういえば年齢とか聞いていなかったよね?」
 【気になりますか?】 
 「いや、別に幾つでもかまわないけれど。」
 【一応、五歳っていう設定。】
 そうか、クマの方か、陽菜は少しがっかりした。
 「クマの五歳って人間でいう何歳なの?」
 【わかんない。考えたことがない。】
 【そういうディテールが必要なタイプ?】
 「どうだろう………、考えたことがないなぁ。あ、でも設定は好きかも。」
 【設定って?】
 「ええっと雪山の山荘とか、絶海の孤島とか、ミステリにありそうなそういう設定。」
 【もしかしてコスプレとかも好きだったりする?】
 「え?」
 【僕の友達にコスプレイヤーが何人かいるのだけれど】
 【その子たちはもれなくシチュオタだった】
 「シチュオタ?」 
 【シチュエーションオタク。】
 「いやぁ、流石にコスプレとかはちょっと………、でも私立探偵とかには憧れるところあるよね。」
 陽菜の言葉にクマも大きく頷いた。
 【雪山の山荘とか、絶海の孤島とか言い出したから】
 【そうじゃないかとは思った。】 
 「貴方のはコスプレになるの?」
 【広い意味ではそうかな。】
 【こういうのだったら着てみたい?】
 「ううん、そういうのない。」
 陽菜は笑って否定した。
 「絶対に暑そう。感心するもん、テーマパークの着ぐるみを着て踊っている人たち。」
 【テーマパークの着ぐるみ?】
 クマは小首を傾げる。
 ああ、そうか、中に人はいないという設定なんだっけ、陽菜は思う。たまに面倒くさいな、とも思った。
 「あれはああいう生き物だったね。」
 【そう。】
 「貴方は違う?」
 【僕はそれに近づこうとしている存在】
 【理想と現実の狭間でもがく人間だよ。】
 「大学の卒業制作で作ったんだっけ?」
 【うん】
 【何体か作ったんだけれど これが一番良い出来だったし】
 【デザインも気に入っているんだ。】
 「行く行くはどうするの?」 
  陽菜の質問のあとでしばらくの沈黙があった。いや、もともと沈黙だったがスマホの上をまた指が動くまでに時間がかかった。
 【わかんない。】
 【あてもないからね】
 クマは首を振った。もしかしたらデリケートな話題だったのかもしれない、陽菜は少し反省をした。
 【君はある?】
 【将来の明確なビジョンみたいなもの。】

 即答できない自分に陽菜は気が付く。まだ学生だった頃、漠然と卒業して就職をして付き合っている彼氏と結婚して家庭に入るのだろうな、というような計画にもなっていない想像はしていたことがあるけれど 今、自分が置かれているのは 無事に就職は出来てはいるものの隣に素敵な彼氏はおらず、別れた彼氏に粘着されている状況だけ。思い描いていた想像から少し斜め上の世界線にいるような気がした。
 「ないな………、私も。」
 この先、自分はいったいどうしていきたいのだろうか、と考えると気が重くなった。振り払うようにビールを煽る。苦味が少し喉に引っかかった。
 「なぁんにもないや。」
 不思議と涙が流れた。
 「仕事だって楽しいかって言われるとそうでもないし、彼氏だっているわけでもないし、ただ毎日、同じ場所で起きて同じ時間に出勤して、何のトラブルなんかも起きないように願いながら仕事をこなして それでまた決まった時間にここに帰ってくるだけ。一日、一日をただ消費しているだけなんだな………私。」
 知らず知らずのうちに愚痴が零れ出ていた。アルコールといつもならいない話し相手が目の前にいたからだろう、陽菜は思う。
 「そんなことないよ、とか慰めの言葉はないのか?」
 自分が酔っていることを自覚する。
 【君のことはよく知らないからね。】
 「確かに知ったような口をきいて欲しくはないかも。」
 弱った時に優しい言葉で距離を詰めようとしてくる男性よりは好感が持てた。
 【心がまいった時はね、】
 【何もしない時間を持つのも必要だよ。】
 「何もしないって?」
 【言葉の通り。】
 【何もしないの。】
 【目覚ましも掛けずに自然と目が覚める時間に起きて、】
 【ただぼーっとした時間を過ごす。】
 【午前中からお酒とかも飲みたければ飲めばいい。】
 「仕事は?」 
 【もちろん休む。】
 【大事なのはね、休日じゃない日に休んじゃうこと。】 
 「でも職場に迷惑掛かるよ?」
 【初めに言ったでしょう?】
 【何もしないって。それって気にしない、っていう意味もある。】
 【たぶん働いている人、みんなが勘違いしているんだけれどね、】
 【社会って 別にその人がいなくても普通に回っているからね。】 
 「別に私が中心で回っているわけじゃないけれど………。」
 【自分を労わって上げられるのは いつだって自分だけだよ。】
 【他人はそこまで誰かのことをかまってくれない。】
 「そうかもね………。」
 【逃げるのも選択肢の一つだけれど、】
 【逃げるのは癖になりやすいからね、】
 【立ち止まるくらいがベスト。】

 確かにそうかもしれない。出来る限り真面目に生きてきたつもりだ。仕事だって既定の休日以外、欠勤したこともなかった。自分が休むことで他の人間に迷惑が掛かるかもしれないと思ったからだ。でも他の子は平気で休んだりする。知らないうちに自分は都合の良いように頼られっぱなしだったのではないだろうか、珠には自分が他の子に頼ってもバチは当たらないんだろうな、と陽菜は思う。
 【思い切って休んでみたら?】 
 【今日とか。】
 「今日?」
 【だって警察に行くのでしょう?】
 「ああそうか、そうだよね………。」
 【被害届とか事情聴取とかで時間はだいぶ割かれるとは思うから、】
 【思っていた休みの使い方とは違うけれど。】 
 「そうだよな………、後回しには出来ないよね………。」
 少しだけ気が重い。あんなことがあったのにまだどこかで躊躇している自分がいた。おそらくもう彼は自分の目の前に現れることはないだろう。それでいいのでは、とも思っていた。
 お風呂が沸いた音が鳴った。
 「お風呂沸いたよ。どうぞ、使ってください。」
 陽菜の言葉にクマは自分を指差す。
 【ありがとう。じゃあ遠慮なく。】
 【覗かないでね。】
 「そんな趣味はないよ。」
 陽菜は笑う。

 クマがお風呂を使っている間、陽菜は一人で晩酌を続けた。自分のアルコールの許容量を超えているな、という自覚があったが 今日、仕事を休むのだ。少しくらい飲み過ぎてもバチは当たらないだろう。闇に沈んだ窓の外の景色を眺めながら 慶悟の顔を思い出す。思い詰めて殺気立った彼の顔は怖かった。真面目に生きてきてまさか自分に殺意が向けられるとは思いもしなかった。ビールを持った右手が震えていた。本当にもう彼は自分の前に現れないのだろうか、もしまた凶器を片手に現れても 自分はまた助かることが出来るのだろうか、余計なことばかり考える。窓に雨粒が当たるのに気づいた。
 「あ、雨………。」
 泣けない誰かの代わりに雨は降っているのかもしれない。
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