第24話

文字数 4,616文字

 スマホが鳴った。
 クマからのLINEだった。
 【今、マンションの前です。】
 クマは帰宅する際、必ず陽菜にLINEで一報を入れる。これは偶然の事故で正体を晒してしまわないようにするための二人で決めたルールだった。逆に陽菜が帰宅するときもクマにLINEを入れる。
 【わかった。】
 動揺を抑えようとすればするほど返事が簡素になる。

 陽菜の頭の中ではずっと さっきの文面が駅の電光掲示板のように右から左に流れていた。
 「お前は人殺し 俺は全て知っている………。」
 あれは誰が誰に宛てた手紙なのだろう、クマが隠すように持っていたから クマが誰かから受け取った手紙と考えるのが普通だ。
 クマが人殺し………? 少し変わり者だけれど紳士的で炊事や家事もこまめにやってくれている彼が? 人殺しのイメージともっともかけ離れているのが彼のはずだ。
 手紙を見てしまったことを伝えるべきだろうか、陽菜は悩む。それを伝えるということは必然的にどうして部屋に入ったのか理由を彼に話さないといけないことにもなる。貴方の素性を知りたかったから、と言うのは簡単だ。けれどそれは二人で決めたルールに抵触する行為だ。もしかしたらそれをきっかけに彼は出ていくかもしれない、そう考えると陽菜は尻込みしてしまう。

 玄関ドアが開く気配がした。
 そのまま彼は自分の部屋に入り、いつも通り着ぐるみを着てクマとして現れる。その一連の作業は五分もあれば終わるはずなのに今日に限ってクマはまだ陽菜の前に現れなかった。
 もしかして部屋に無断で入ったのがバレた?
 陽菜は緊張する。
 擦りガラス越しにクマの姿が見えた。手にはコンビニエンスストアnレジ袋、中には頼んでいたポカリスエットが二本とパウチに入った飲むゼリー飲料があった。
 【ただいま。】
 クマは袋をテーブルの上に置く。
 「おかえりなさい。」
 椅子に座ったまま陽菜はクマを出迎える。
 「ありがとう。幾らだった?」
 【お見舞いだから、】
 【僕の奢り。】
 「それは悪いよ、きちんと払う。」
 陽菜は財布を取り出すために立ち上がった。
 【わかった。】
 クマは椅子に座らず相変わらず立ったままだった。
 【具合はどう?】 
 「一日中、寝ていたからもうすっかり平気だと思う。まあ心は相変わらず疲れたままだけれど………。」
 陽菜は小銭を確認した。渡せそうにない金額しかなかった。
 「お札しかないんだけれど お釣りある?」
 クマは頷く。
 彼に千円札を渡して お釣りとレシートを受け取った。
 【熱は?】
 額に伸びてきたクマの手を陽菜は反射的に避けた。頭の隅に彼の部屋で見た手紙の内容を思い出したからだ。
 「その手じゃ熱、わからないでしょう?」
 取り繕った笑みを浮かべる。
 クマが大きく頷いた。
 【なにかあった?】
 「何かって?」
 陽菜は買ってきてもらったばかりのポカリスエットの蓋を開けた。
 【どこか様子が変。】
 「そうかな? 自分ではわからないけれど。」
 一口、液体を飲む。疲れているのか、いつもよりもそれは甘く感じられた。
 【誰かに脅されているとか?】
 大きいクマの頭が部屋の中を観察するようにゆっくりと動いた。
 「慶悟が死んだのに 誰に脅されるの?」
 陽菜は笑い飛ばす。 
 【じゃあ見てはいけないものを見たとか?】
 「何それ。」
 核心を突かれて陽菜は動揺する。
 クマは右手を出した。彼の手のひらには二センチくらいの長さの茶色い糸があった。
 「何? それ? 糸くず?」
 【普通はそうにしか見えないよね】
 「糸くず以外にどういう風に見えるの?」
 【出掛ける時にね、】
 【ドアの隙間に挟んでおいたんだ】
 彼の言わんとしていることが陽菜には理解出来た。クマは自分の留守中に誰かが勝手に自分の部屋に立ち入っていないかを確認するためにわざわざドアの隙間に糸くずを挟んだ。ドアが開閉されれば糸くずが落ちる。スパイ映画でそんなシーンを見た記憶が陽菜にはあった。

 「あ、ごめん。探し物をするために入ったんだ。」
 自然な表情で陽菜は言った。彼の目に今、自分はどういう風に映っているのだろう。
 「ほら仕舞い込んで どこにいったのかわからない物あるでしょう? もしかしたら貴方の部屋の収納にあるのかなって思ったから。ごめんね、留守中にすることじゃなかったよね。」
 【いや、ここは君の住む部屋なのだし、】
 【僕の許可はいらないよ。】
 「いや、それでも一言は添えるべきだったよ。今は貴方が使っている部屋なのだから。」
二人の間に沈黙の見つめ合いがあった。
「実はね。」

 久しぶりに聞くクマの肉声だった。彼の声は聞いたことがあったし、クマでいる時にも一度だけ彼の声は聞いたことがあった。自分に定めたルールでクマはクマでいる時に声を発することがない。それなのに今、生声で口を開いた。それは何か重要なことを伝えようとしているのではないか、と陽菜に察せるのに充分過ぎた。
「収納も見たんだ。もしかしたら何かを探しに入ったのかもしれないって思ってね。」
「うん、そうだよ。そう説明したよね?」
陽菜は笑顔を交えながら言った。
「何を探していたの?」
「何を………?」
 クマに尋ねられて陽菜はどきりとする。確かに探し物をしているというのなら何を探していたのか説明を求められることは予想できたはずなのに何も考えていなかった。不自然な間があく。早く絞り出さなければと思えば思うほど適切な回答が何かがわからない。そもそも使わないけれど捨てるのは忍びないものばかり段ボールに入れていたのだ。必要なものは全部、揃っている。この状況下で改めて何を探そうとしていたのだろう。

 「卒業アルバム………。」
 降って湧いた答を喉から絞り出した。
 「ほらたまに昔を懐かしんで見てみたくならない?」
 「僕にはない感情だけれど そういうもの?」
 「そういうものだよ。みんな今頃、何をしているのかなって思うじゃん。」
 「あるのかもね、そういうこと。」
 クマは頷いた。
 「それで見つかったの?」
 陽菜は首を振る。ここは否定しておく。実際に卒業アルバムなどを探していない状況でクマが興味を示して見たい、などと言い出したら嘘に嘘を重ねることになるからだ。
 「もしかしたら実家なのかも。」
 「そう………。」
 クマが肩を竦めた。
 「収納の中の段ボール、開けられた形跡なんて一つもなかったよ。どうして嘘をつくの?」
 「え………。」
 陽菜は動きを止めた。そこまで気が回らなかった。
 「本当は何を探していたの?」
 普段は愛嬌のあるクマの顔が今はすごく怖く見えた。
 脳裏にまたあの脅迫文が浮かぶ。
 「ごめんね、本当は貴方のことが知りたくて………。」
 観念した陽菜は彼の目をまともに見ることが出来ずに俯きながら小声で言った。
 「僕のこと? どうして?」
 どうして? どうしてですって? 好きになった人のことを知りたいと思うのは普通じゃないの? 喉の奥まで出掛かった言葉を飲み込む。今、出そうとした言葉はきっと感情に任せての言葉だ。そんなものを発してしまったらもう後戻り出来なくなる。それよりも何よりも彼の言葉に 彼が自分に対して何の感情も抱いていない事を知ったショックの方が大きい。
 「約束、忘れたわけじゃないでしょう?」
 クマは諭すように言った。
 「正体を詮索しないっていうのはルームシェアをしたときの約束だったよね?」
 「うん………。」
 この生活を始める時に二人で決めたルールが幾つかあった。その中の最初の一つがクマの正体を探らない、という事。陽菜だってしっかり憶えていた。

 「だったらどうして? 今頃、僕の中身の素性が気になるのが分からないよ。そんなに怪しく見える? だったらこの間、ルームシェアを解消しようとしたときに止めなければよかったんじゃない。」
 「違う………。」
  陽菜は首を振った。
 「違う?」
 「貴方のことをもっと一人の男性として知りたいと思ったの………。貴方とだったらずっと一緒にいられるかなって………。でも私は貴方のことを顔も名前も知らなくて 知っていることは声だけだから………。」
 気が付けば自然と涙が出ていた。すっぴんな上に泣いているからきっと今は顔がぐしゃぐしゃのはずだ。
 「ごめんね………、陽菜さん。」
 クマは優しく言った。
 「僕は君とずっと一緒にいるつもりはないんだ。」
 どこかで覚悟はしていたけれど聞きたくない言葉だった。
 「どうして?」
 「陽菜さんは僕のことを何も知らないでしょう? クマの着ぐるみを着ている僕の外見は知っていても 本当の僕を何一つ知らない。」
 陽菜は言葉に詰まる。確かに彼がクマという姿をしていなければ あの日、持っていた食べ物をあげなかっただろうし、部屋にだって簡単に招き入れたりしなかったはずだ。同居を決めたのだって その姿でいる限り、間違いは起こらないだろう、と高をくくっていたから。
 「それは貴方がクマの恰好をしているからであって そういうことも含めて これから知っていけば良いだけじゃない?」
 「人間は外見が全てではない、って言う人もいるけれど この中身が君の理想とする姿にそぐわない姿、形をしていても同じことが言える?いや、姿、形はそうだったとしても 僕が今、この姿で本当の姿を隠しているように 人には言えない秘密を抱えていても同じことが言える?」
 彼が自分の気持ちに応えてくれることはないのだろうな、多分というかおそらくこの関係性も今日か明日で解消されるのだろうな、陽菜は察した。そして押してしまったらもう取り返しのつかないミサイルの発射ボタンのような言葉を口にしていた。
 「それってあの手紙のことを言っているの?」
 操り師を失った操り人形のようにクマはその動きを止めた。
 「やっぱり見たんだね。」
 「見ようと思って見たわけじゃないって言っても信じてはくれないよね?」
 「いや………。」
 クマは大きな頭を右、左と振った。
「あんなところに挟んでおいた僕が原因だから仕方がないといえば仕方がないよ。」
「あれはなに?」
 陽菜は聞く。
「郵便受けに投函されていた手紙。差出人は誰かわからないけれど宛名はぬいぐるみ宛だったから間違いなく僕。」
「お前は人殺し、俺は全て知っている、あれって本当のこと?」
 陽菜は聞いた。
 沈黙があった。
 部屋の時計の音がうるさいくらいよく聞こえる。
 「うん。本当のこと。」
 何かの間違いであって欲しかったはずなのに自然と彼の言葉をすんなりと受け入れている自分がいて陽菜は驚いた。
 「誰を………、誰を殺したの?」
 陽菜の問いにクマは答えない。
 「もしかして元彼女?」
 クマはここに来る前に付き合っていた女性の家を放り出されていた。もしかして放り出されたのではなく、殺害してそこにいられなくなったために野宿暮らしをしていたのではないか、陽菜は思った。
 クマは首を振った。
「彼女は元気だよ。きっと今頃は新しい彼氏なんかも出来ているんじゃないかな。」
 クマは自嘲気味に言った。
「私は知る権利があると思う。」
 本当にそんなものがあるのだろうか、陽菜は思う。
 長い沈黙のあとでクマが頷いた。
 「呼び出されたんだ。君と出会う少し前に。」
 「呼び出されたって誰に?」
 鼓動が痛いほど聞こえる。
 「灰島。」
 「灰島って灰島ノドカ?」
 「うん。」
 「貴方が殺したのって灰島ノドカなの?」
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