第1話

文字数 4,803文字

             
 エアコンの効いた車両から出ると躰にねっとりとまとわりつくような湿気が一気に襲い掛かってくる。不快感に一瞬だけ顔をしかめて吉岡陽菜は改札を出た。夕暮れ時に降った雨は気温を下げることもなくただ熱を帯びたアスファルトを軽く湿らせ 不快指数を上げただけ。空梅雨で全国的に水不足が懸念されている救世主にもならなかった。その中で唯一の救いといえば今朝、自宅を出るときに傘を持ってでなかったことだけだ。彼女の自宅マンションは駅から徒歩十分ほどのところにある。雨が駅からの帰り道で降らなかったことだけが不幸中の幸い。駅前のロータリィに目をやると自分よりも少し若い女性が彼氏らしき男性に車で迎えにきてもらっている。その光景を見て羨ましいと素直に思うし、その反面、自分は歩いてもたかが知れている距離だからなぁ、と冷めた気持もあった。自宅方向へと向かって歩き出す、 雲の切れ間から月が出ていた。丸い月だ。山間部から町へと流れる川を右手に見ながら通りを歩く。駅前はまだコンビニや居酒屋が数軒あって明るさもあるけれど 離れるにつれて どこか遠い国に来たかのような静けさに支配される。アスファルトを打つ一定のリズムの靴音。風に乗って聞こえてくる国道を走る緊急車両のサイレン。それらの隙間を縫うように耳につくもう一つの足音に 陽菜は溜息をついた。

 立ち止まると当然のように足音は消える。ショルダバックからスマホを取り出してLINEを確認する振り。スマホを手にしたまま また歩くともう一つの足音もまた聞こえ始める。
たまたま帰る方向が同じ人間は多い。だが立ち止まると同じように立ち止まる人間などそうそういるものでもない。彼女は足音の主の正体を振り返らないでも確信した。

 平田慶悟との交際は三か月ほどだった。出会いは今ならよくあるマッチングアプリ。前の彼氏と別れてから二年くらいは経っていて そろそろ周りの友人たちにも結婚する子が ちらほらと出てきた焦りなのか、それとも単なる気まぐれなのか自分でもわからないけれど 雨の日曜日、外出するのも億劫で 動画サイトを無駄に閲覧していたおり、広告として目にしたマッチングアプリに気が付けば登録していた。何人かの男性とやりとりをして なんとなく真面目そうな雰囲気の写真に魅かれて陽菜は平田慶悟と実際に会った。慎重派な自分にしてみればとても大胆な行動だったと彼女は思った。難波にある海鮮居酒屋で食事をしたのが最初、そこから二回ほど食事を一緒にして 二回目の別れ際に慶悟から交際の申し込みを受けた。特に断る理由もなく 悪い人という印象もなかったので一日経ってから返事をして付き合ったところまでは 良かったのだが いざ交際がスタートすると慶悟が過剰なくらい束縛をするタイプの人間ということがわかった。もちろんある程度の嫉妬からくる束縛ならば ああ、愛されているのだな、と思うことも出来るのだろうけれど 彼の束縛は少し度が過ぎていた。一時間おきの定時連絡の要求、これが少しでも遅れたりすると スマホがバッテリー切れを起こすくらいに着信が連続して入る。仕事中なので返せない時もあるのに こちらの状況などお構いなしで自分勝手な都合を押し付けてくる。やんわりと意見したこともあったが 何があるかわからない世の中だから心配なんだ、という物寂し気な表情を浮かべられて言われると そういう考えもあるのだな、と頭ごなしに否定は出来なくなった。極力、返事はするようにはしたものの それでも出来ないときはある。陽菜としては 返事が出来ない時もあるという旨を伝えてあるので慶悟はわかってくれていると思っていたが 慶悟の行動はエスカレートするばかりだった。

 仕事での出かけ先に彼が現れたのだ。最初は勘違いだと思った。しかし、それが一度ならず二度、三度と続くと確信に変わった。驚きを通り越して、恐怖心すら抱くようになった。 どうやら彼は自分の行動を監視しているのではないか、そうでなければ仕事で訪れた場所に彼が偶然現れるわけはない。そんな疑惑が芽生え、スマホを調べると自分には身に覚えのないアプリがダウンロードされていることに気づいた。親が子供の行動を監視するためのアプリらしい、位置情報が任意の相手に筒抜けになるものだった。もちろん陽菜はこれを速攻で削除した。それと同時に慶悟に別れを告げた。一方的に別れを告げるのは後々に禍根を残すことになるので きちんと会って誠意をもって別れる意志を告げた。それをもって陽菜自身は自分では慶悟との交際は終わった、と思っていたがどうやら彼には伝わらなかったらしい。

 彼に別れを告げてから数日経ったある日の夜、今日と同じように駅からの帰り道、誰かに尾行されているような気配がして振り返ると慌てて曲がり角に隠れる人影を見た。ほんの一瞬の出来事だったが 相手の顔は電柱の常夜灯に照らされてはっきりと見えた。慶悟だった。どうやら彼は自分に付きまとっているようだ、と理解した。ただ付きまとわれているだけで実害は無い。嫌がらせをされるわけでもなければ 夜道に襲い掛かってくるわけでもなく、ただ一定の距離を置いて 監視をしているようだ。放っておけばいつかは諦めるだろうと安直に考えていたが それから二か月、雨の日も休まず 適度な距離を保ちながら平日はずっと陽菜を尾行していた。

 他にやることはないのだろうか、暇なのだな………、陽菜は思う。それと同時に仕事は大丈夫なのだろうか、とも心配した。交際していたころ、彼は家電量販店に勤務していたはずだ。毎日、帰宅する自分について回って仕事はおろそかになっていないのだろうか、それともその仕事すら辞めてしまったのだろうか、そうなると収入面はかなり厳しくなるはずだ。それを請求してくるということはないだろうな、危惧した。

 帰り道から少し外れたコンビニに立ち寄る。丁度、お風呂用の洗剤を切らしていたのだ。そのついでに雑誌コーナーで適当に雑誌を見る。ここのコンビニは立ち読みを禁止しているらしく陳列されている雑誌は専用のテープで封がされているので見るとは言っても表紙に書かれている情報を眺めるだけ。そのついでにガラス越しに外の様子を伺った。

 慶悟が少し離れた場所からこちらの様子を伺っているのが見えた。黒いキャップを目深に被り黒縁の眼鏡を掛けて変装をしているつもりだが 独特のセンスのTシャツとデニム、それに尾行には目立つだろうという蛍光色ラインの入ったシューズは間違いなく彼だった。

 陽菜はレジで会計を済ますと店の外へと出て一瞥することなく自宅へと再び歩き始めた。カーブミラーで相手の位置を確認。相変わらず適度な距離を取って尾行している彼が見えた。
駅から近いとはいえやはり夜道の一人歩きは不安に襲われることもある。元交際相手で今はストーカーという立場に片足を突っ込んでいる立場ではあるけれど ボディガードだと思えば悪くはない、という考えもある。ただいつまでもこれでは自分も慶悟にとっても良くはないだろう。どこかでケジメはつけなければいけない。ただ陽菜としては交際終了を告げることによってケジメはつけたつもりだ。婚姻関係を終了させる時のように相手の同意を得た上で書面を交わす必要もない自由恋愛における別離。自分には彼に対する気持ちは微塵も残っていないのだけれど 相手にも同じように微塵も思わないでくれ、というのは無理な話であることは分かる。人の心の中まで誰であろうと侵すことは出来ないからだ。だとするのなら慶悟に諦めさせる方向に持っていくしかないだろう。つまり自分が新しい彼氏を作れば自然と離れていくのではないか、と思う。

 新しい彼氏ね………、陽菜は苦笑した。それが簡単に出来れば苦労はしない。洗剤の入ったレジ袋を大きく揺らしながら彼女は最後の曲がり角を左へと曲がった。
 視界の先に異様な光景を見つけて陽菜は立ち止まる。陽菜の住むマンションのエントランス、その手前にある植え込み、その縁に腰を掛けて項垂れている茶色いクマがいた。しかしクマといっても本物ではなくそれは遊園地やテーマパークなどで見かける 中に人が入っている着ぐるみのクマだ。両目は大きく、表情は笑顔なのにまるで疲れ果てて座っているかのような姿勢とのギャップが激しい。エントランスに入るにはそのクマの前を横切らなければいけない。マンション前の道幅は車線が引かれていないものの広いので大回りすれば横切ることは可能である。どこの遊園地から逃げてきたのかは知らないけれど 関わり合いになるのは得策ではないと彼女は考えて気づかないふりをして通り過ぎようとした。相変わらずクマは微動だにする様子はない。中で眠っているのか、それともああいう着ぐるみは視界が狭いので単に気づいていないのか、それはわからないけれど警戒した割にはエントランス前まで楽にたどり着くことが出来た。

 どさりという重そうな音が聞こえてクマが緩やかに前のめりに倒れるのが見えた。流石に放っておくのは気が引けて 陽菜は倒れたクマに近づく。
 「大丈夫………?」
 うつ伏せで倒れたままのクマに声を掛けるとクマはゆっくりと頭だけをあげて陽菜の姿を視認した。一度、大きく縦に頷くとすぐに左右に首を振る。
 「大丈夫だけれど………、大丈夫じゃない?」
 そのリアクションを読み取った陽菜は声にだして確認をする。そうするとクマが二度、三度と首を縦に動かした。どうやら正解のようだ。しかし大丈夫だけれど大丈夫ではないというのはどういう意味なのだろう、彼女は首を捻った。
 茶色い裸のクマは両手でお腹を押さえる。
 「お腹が空いたって意味?」
 陽菜はまた確認すると クマがまた大きく頷いた。
 「なんでお腹が空いているの?」
 クマはらしからぬ人間のような手先で小さな丸を作って そのあと両手でバツを作った。お金がないから、という意味にとれた。
 「お金がなくて食べることが出来ない?」
 陽菜が確認するとクマはゆっくりと頷く。
 「ちょっと待って。」
 コンビニで買い物をした中に菓子パンとサラダがあった。どちらも明日の朝に食べようと買っていたものだった。袋から洗剤だけを取り出してショルダバックに詰め込む。
 「これ良かったら食べて。」
 クマに袋を差し出した。クマは両手を合わせる。そして恭しく陽菜の手からレジ袋を受け取った。すぐに食べるのかと思ったが クマは袋を両手で持ったまま三回お辞儀をするだけで食べようとしない。

 ああ、なるほどね………、陽菜は一人合点してその場を離れた。きっと彼は自分の目の前であれを脱いで正体を明かしたくはなかったのだろう。それがプロ意識なのか、単に変わり者なのかはわからないけれど………。

 エントランスに入ってエレベータホールに曲がるときに横目でクマを見るとまだこちらを見送りながら何度も丁寧に頭を下げていた。
 明日の朝食を差し出したのは余計な出費だったけれど 着ぐるみのクマを助けた、という話は職場でのちょっとした会話に困らないだろう、と考えるとプラマイゼロくらいにはなるはずだ。それに人?助けをしたのは少しだけ気分が良い。エントランスに入ると住民向けの掲示板に 野良猫に餌を与えないでください、という張り紙があった。共用スペースである小さな芝生の中庭に動物の糞が落ちていることが問題になっているらしい、とは聞いていた。
 自分が餌付けしたのは野良猫ではなくて 野良着ぐるみクマだから大丈夫だよな、と自己弁護をしながらエレベータに乗り込む。共用廊下に出てさっきクマと会った場所を見下ろすとそこにはもうクマの姿はなかった。もしかしたら山へ帰ったのかもしれない、陽菜は玄関の鍵を開けている時に 森のくまさん、を口ずさんでいる自分に気が付いた。
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