彼と彼女の話

文字数 1,453文字


 長い間自然の風に当てられて、波の音に心が落ち着いてきた。自分の中でようやく踏ん切りがつきそうになっていた、そんな時に、ふと懐かしい匂いがした。
 「え……? どうして、ここに」
 そこには、ビニール袋を片手に立ち尽くす彼女の姿があった。
 「え……いや、君こそ、どうして」
 「なんか、こっちから……懐かしい匂いがしたから」
 彼女は自分のブーツのつま先を眺めながらそう言った。
 顔を見た瞬間に彼女が車から出て行った時の記憶が蘇る。未練タラタラなのが伝わってしまっている気がして、今の状況に何だか小っ恥ずかしくなる。
 でも、それは彼女も同じだった。
 「私、なんか、情けないね」
 「……いや、それを言ったら俺だって」
 お互いに口をつぐむ。二人だけの空間にさざめく波の音だけが鳴り響いた。
 「……ねえ、私たち、今思ってることって同じなのかな」
 「どうだろう、わからない」
 彼女は珍しく、少ない言葉で自分の思いが伝わるように慎重に言葉を選んでいた。探るような言葉を彼女は普段言わない。
 「そうだよね。ごめん」
 「いや、そういう意味で言った訳じゃ」
 必死になって言葉を探す。でも、思いつく言葉はなかった。俺から語ることはもう、きっとない。
 「ううん。大丈夫。多分、貴方がここに来た理由、何となく、わかる、と、思う」
 彼女の言葉は歯切れが悪く、段々と声も小さくなっていった。
 「多分……そう。合ってると思う」
 「うん……」
 途端に自分の最低な部分を見られたようで、恥ずかしくなった。
 「私も多分、同じだから」
 その言葉に、彼女の見えなかった本心の片隅が見えた気がした。
 「……ふっ」
 「……何、なんで笑ってるの。ちょっと」
 彼女は一歩、二歩と少しずつ近づいてきていた。恐る恐る、顔を伺うようにして。
 そんな姿を今まで見たことがなくて、何だか面白くなってしまった。
 「いや……なんか、二人して馬鹿みたいなことしてんなって」
 「ふふ、何なんだろうね。くだんないね。これ」
 「初めて見たよ。君のそんな風に気を遣うところ」
 「普段、気を遣えない女ですみませんね」
 「いいや、面白いからそのままでいいよ」
 「……何それ、馬鹿にしてるの?」
 「だって馬鹿みたいじゃん、俺たち」
 「まあ、確かに」
 「もうどうでも良くなってきたかも」
 「奇遇。私もそう思い始めてた」
 
 「—————ねえ、ちょっと風、寒くない?」
 「—————そうだね、適当にどっか行く?」
 「私は、別にいいけど」
 「じゃ、行く?」
 「……うん。行く」
 「おっけ」
 「ん」
 ついさっき起こった出来事が嘘かのように、いつものように短い最低限の会話で意思疎通をする。言葉にはしていなくても、本音を明かしたりはしていなくても、多分、分かり合えていると思う。
 言葉だけじゃ語れないこともあると思うから。
 言葉にしていなくても、この手の動きは、嘘じゃない。
 言葉にしていなくても、この手の温もりは、嘘じゃない。
 だから、この気持ちも、伝わってくる本音も、嘘じゃない。
 そう信じたいと心から思えたから、それでいい。



 不完全で未完成の二人が近づいて、離れて、また近づいて。
 途中式はごちゃごちゃで訳がわからないけど、答えが一緒なら間違っていたってそれでもいいと思えた。
 
 車の中で二人は、また昨日までと同じように笑って、馬鹿みたいなくだらない話をして、馬鹿みたいにまた笑う。
 その物語が祝福に包まれるなら、それが幸せだと思えるのなら、それでいいと思えるのなら。


   「「まあ、いいか。」」
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