第3話 記憶の先にあったもの

文字数 3,759文字

 その日はなかなか寝付けなかったが、身体が疲れ切っていたのだろうか、睡魔は訪れ深い沼に沈み込んだ。すると、翌朝再び美嘉に記憶が蘇っていた。
 ひなびた駅の近くの店でラーメンを食べた後、二人は暗い夜道を歩いた。
「こんなところに本当に宿なんてあるの?」
 まさかこんなところまで連れて来られるとは思っていなかった美嘉が、前を歩く翔の背中に話しかける。
「大丈夫だよ。心配しないで。こういうところまで来ないと、秘境の醍醐味なんて味わえないだろう。もう少しだから我慢してついてきて」
「わかった」
 そこからさらに30分近く歩いたところに一台のランドクルーザー車がとまっていた。車の横で二人を待っていたのは、40代の色黒の男だった。確か名前を聞いたと思うが、思い出せない。二人を乗せた車は次第に山奥へ進んで行った。翔はなぜか助手席に乗ってしまったため、後ろ姿しか見えない。あの時、翔が自分と同じ後部座席に座らなかった理由は未だにわからない。車内に会話はない。程よい社内の暖房が、美嘉の緊張と不安を少し緩め、瞼がくっつきそうになった時に車が大きく右に傾いた。これはまずいと思った瞬間、激しい振動とともに目の前が真っ暗になり意識を失った。そうだ。自分たちは事故にあったのだ。ようやくすべてを思い出した。こうして自分は今ここにいるけど、じゃあ翔はどうしたのだろうか。翔は助手席に乗っていたのだ…。翔はもう…。涙が止めどなく流れ落ちる。自分は一人きりになってしまった。翔が迎えにきてくれることだけを心の拠り所としていた美嘉に、ジ・エンドの金が鳴った。運命のあまりの非情さに、美嘉は絶望の淵でただ立ち尽くすしかなかった。
 それからの日々をどう過ごしたか、はっきりとは覚えていない。目を閉じることが怖かった。今度目を覚ましたらもっと辛い記憶を呼び戻してしまう気がするからだった。だから、夜も昼もできるだけ寝ないようにした。しかしながら生身の人間である美嘉は、いつの間にか浅く短い眠りを繰り返していた。
 食事らしい食事もとらずに眠りと目覚めの境にある海を漂っていると、感情のバランスは崩れ、何が記憶の出来事で、何が夢で、何が幻想で、何が現実かわかならくなっていた。ささいなことが重い意味を持ち出し、これまで思い出した記憶もすべて不確かなものへと変容してしまっていた。まるで夢遊病者のようになりながら、それでもかろうじて生きていた。自ら命を絶つ気力や体力すらなかったからだ。いっその事このまま発狂できたらどれほどいいだろうか。いや、すでに自分は発狂しているのかもしれない。
 目の前の景色が膨れ上がり、水底のようにゆらゆらと揺れた。そして、突然美嘉によく似た女の子が二階の、あの子供部屋へひとりで向かう姿が見えた。それはまるで実際の記憶のように色鮮やかに浮かび上がる。その部屋にはもう一人の女の子が遊んでいた。誰なのかはわからないが、でも見たことがあるような顔でもあった。美嘉に似た子より少し小さいが、可愛い顔をしている。そして、この風景を上から俯瞰で見ている『私』がいるが、誰だかわからない。
 二人はおもちゃを使いながら、時々過不足のない笑顔を交わし合い仲良く遊んでいる。まるで姉妹のようだ。だが、何が気に食わなかったのか、小さいほうの女の子が突然美嘉に似た子におもちゃを投げつけ、激しく罵った。
 『私』はこの後、少し大きな子が小さな子の首に手を回すことを知っている。ああ止めてと、美嘉は心の中で叫ぶが、当然ながら子供の耳には届かない。案の定、少し大きな子は小さな子の首に手を回し、子供なのに恐ろしい力で思いっ切り締め上げた。小さな女の子は、可愛かった顔を歪める。目が飛び出る。鼻からは黄色い得体の知れぬものが流れ、口の中は真っ赤な血でいっぱいになる。女の子の顔はみるみる腫れあがり、この世の生き物とは思えぬおどろおどろしい顔となり、最後に地獄まで届くような恐ろしい獣のような声をあげた。
「ぎゃあー」
 悲鳴は閃光のように美嘉の意識を貫いた。だが、次の瞬間、美嘉の目がとらえたのは、自分のことを心配そうに見つめる翔のいつもと変わらぬ姿だった。あれほどの恐ろしい出来事が瞬時に美嘉の脳裏から離れた。
 ああ、やっぱり翔は生きていて私を助けにきてくれた。喜びと怒りと憎しみをいっしょくたに混ぜ合わせたような感情になる。だが、これが現実なのか、今の美嘉には確かめようがなかった。周りを見ると、ここが最初に目を覚ましたところと同じ場所であることがわかった。ただ、前にはなかったベッドを囲むカーテンや小机があり、見舞客用のパイプ椅子まであった。恐らくここは病院だ。翔の後ろに、白衣を着たあの老医師の姿が見える。だが、あの中年女の姿はない。部屋の中に立ち込める消毒液臭い匂いやさまざまなものの色や形や、翔から感じられる温もりのようなもので、どうやらここは現実世界だと判断する。
「翔、翔」
 と叫んで見る。でも、翔に反応はない。
「先生、何か言っているようですけど」
 自分の声が翔には聞こえないらしい。そのことがショックで、美嘉の目から自然に涙が滑り落ちた。
「精神的ショックで一時的に失語症になっているだけで、時間が経てば元に戻りますよ」 
 老医師の言葉を受けて翔が美嘉に話しかけた。だが、美嘉は翔が放ったその言葉にわが耳を疑った。
「みほ、よほど辛い思いをしたんだね。でも僕が迎えに来たからもう安心だよ」
 みほ?みほって誰? 美嘉は自分が聞き間違ったのかとさえ思った。やめて翔、私はみほじゃなくて美嘉よ。
「みほ、君は一週間寝たきりだった。ほんとに心配したんだぞ」
 今度ははっきりとみほと聞こえた。翔は私のことをみほと呼んだ。信じられないことが起きている。心の中が粟立つ。
 それに、翔は私が一週間、ここで寝ていたと言ったが、それは違う。私は三日間寝ていたが、その後、この地で異界に迷い込んだような不思議で怖い体験をしてきた。それはすべて夢の中の出来事だったというのだろうか? しかし美嘉は自分の肌感覚で、この数日の出来事が現実に起きたものであると確信していた。

 翔と医師に抱き抱えられるように身体を起こしてもらう。でも、美嘉は自分の身体が一週間も寝たきりだったとは思えないほど軽いことに気づいていた。
「そこに座ってて」
 そう言って、翔はロッカーへ向かう。そこには何も入っていないはずだ。そう思ったが、翔が開けた中には美嘉の私物が見える。
 病院の前に止められていたタクシーに乗り込む。老人の医師と、謎めいた笑顔を張り付けた二人の看護師に見送られる。二人は、あの時、自分を花壇の横で監視していた人物だった。タクシーはゆっくりと花壇の横を通り抜け、田畑にまっすぐ延びる道を進む。やがて、あの村境をあっさりと越えた。空は見たことのない澄んだ群青色を呈している。歩道沿いに植えられた木々は青々と陽を反射させている。川もくっきりと空を映し、音もなく流れている。ああ、私はあの魔界のような場所からやっと解放された。隣には今回のことで改めて大好きだと認識した翔がいてくれる。安心感と、加減のない幸福感に満たされる。
 さらに30分ほど走ったところで、翔が道を曲がるよう運転手に指示した。声の出ない美嘉には理由を聞くこともできない。やがて車は寺の駐車場で止まった。車から降り、翔について境内へ入る。翔は何も言わずまっすぐに進み、ある墓の前で止まった。そこには辰巳家の墓が二基あった。そのうちの小さな単独墓が気になり、墓石に刻まれた文字を見ると、辰巳美穂・享年4歳となっていた。『美穂』、思わず美嘉は心の中で叫んでいた。胸が絞られるような気分になる。突然自分につけられた名前と同じ…。
「これが妹のお墓だよ。偶然、君と同じ名前なんだ。しかも、文字までまったく同じ。こんなことがあるんだね」
 そもそも翔に妹がいたなんて今まで一度も聞いたことがなかった。
「美穂は側溝に沈んでいるのを発見された。顔が異常に膨らんでいて醜い顔になっていた」
 胸の奥に水滴が落ちる。そんな話を今なぜ私に聞かせるの? 美嘉が声を出せないのを知っていて、一方的に話し続ける翔に疑念を持つ。
「結局、死因を特定できなかった。かわいそうに。ちょうど今日が美穂の命日なんだ。だから、君と一緒にお参りしたかったんだよ」
 そう言って、美嘉の背中に手を置く翔。その手の熱さが怖い。翔に促された美嘉は、やむを得ず墓の前で手を合わす。その背中に翔の声がのしかかってきた。
「美穂はねえ、近所に住んでいたみかって言う子と仲がよかったんだ。美穂が亡くなってすぐにどこかへ引っ越したみたいだけど、あの子、今どこで何をしてるんだろうね」
 みかって言った? あの女の子は翔の妹で、その子を私が殺したとでもいうの? みかって言ったって、美香もいれば、美佳もいれば、実花もいるし、ミカだっている。さっき自分が目を覚ます前に見たのは、ただの夢か幻のはず、でしょう。再び闇を覗いてしまったような恐ろしさが訪れるが、私が怖がらなければならない理由なんてないと、無理矢理自分に言い聞かす。
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