第2話 恐怖の始まり

文字数 5,307文字


 美嘉は建物の入口にとめてあった車に無理矢理乗せられた。走り出した車は、先ほど見た花壇の横を通り抜け、やがて少し広い道路に入った。窓外を見ると、この地が山間の小さな村であることがわかる。連なる山は寒そうなこげ茶色をしている。目を前に戻すと、どこまでも広がる冬枯れの田園風景の中を、車は国賓を乗せているかのようにゆっくりと走る。何もかもが現実感がなかった。そんな田園風景が突然途切れ、目の前に現れたのは、まるでこの日のために作ったような小さな住宅街であった。奇妙なことにみんな同じ四角い箱みたいな形をしている。そして車は住宅街の隅にある一軒家の前でとまった。
「さあ、着きましたよ。降りてください」
 車の中では終始無言だったあの女が、薄く笑いながら言った。女の後につて玄関から中に入る。蛍光灯がのっぺり白い光で部屋を照らしている。そこには、ついさっきまで誰かが住んでいたような空気が漂っていた。暮らすのに必要な家具や家電がすべて揃っていたのも、その原因のひとつであるが、同時に古い時間が降り積もっているように思ったからだ。既視感とは違うが綿密に計算しつくされた過去の記憶の中に放り込まれたような感覚に陥る。
「ここ誰かが住んでいたんですか」
 美嘉の問いかけに、女は憐れむような、残念そうな表情を見せる。
「さっきから何をおっしゃってるんです。ここはあなたのお家ですよ。何も思いだせないんですね」
「えっ、何をですか?」
「いえ、いいんです」
「何ですか。気持ち悪いから言ってください」
 だが、女は首を横に振るだけで口をつぐんでしまった。仕方なく美嘉は、不可解な感覚のまま、どことなく不自然な部屋を見渡す。
「とにかく、今日からはここで暮らしてください。これが家の鍵です」
 部屋を見渡していた美嘉の背中に女の声が届く。振り返ると、女が鍵を美嘉の目の前にかざしていた。
「それから、買い物は近くにある商店街でなさってください。お金を払う必要はありません。あなたがお使いになった分はすべて村が負担します」
「なぜですか」
「それは私にもわかりません。それから、何かわからないことがあれば、これからは村人にお聞きください。村人は全員があなたのことを知っていますから、何なりと答えてくれるでしょう。では、私はこれで失礼します」
 そう言って、部屋を出て行こうとする女の後ろ姿を呆然と見送る美穂。だが、次の瞬間、女が急に振り向いた。美穂は思わず、二、三歩後ろに下がった。
「言うのを忘れていましたが、夜は絶対に外に出ないでくださいね」
 どういう意味だろう。だが、美穂がその理由を聞き出す暇もなく女は部屋を後にした。身体中の体液が波打っているような気持ち悪さが残る。
 再び一人になった美嘉は、記憶の欠片を探そうと思い、各部屋を見て回ることにした。一階には八畳くらいのリビングダイニングと和室がある。二階は、洋室が二部屋あった。そのうちの一部屋には子供のおもちゃがあった。かつてここは子供部屋だったのだろうか。霊感などなかった美嘉だったが、何かがさまよっている感じがして背筋が寒くなった。これで二階には二度といけないと思う。どう考えても一人で住む家ではない。すべての部屋を見て回ったが、美嘉の記憶を呼び覚ますものは何もなかった。
 ふっと一息つくと、急にお腹が空いていることに気づく。そういえば、目が覚めた時から何も口にしていない。とりあえず買い物に行くことにする。女が近くに商店街があると言っていたことを思い出す。財布も消えていたので、当然現金もカードもない。だが、買い物にお金は不用と言われた。そのこと自体気味が悪いが、何も持たない美嘉にはとりあえず女の言葉を信じるしかないのである。空腹を満たすために、曖昧な気持ちのまま商店街に向かう。
 家を出て見知らぬ街を歩く空は淡い紫色に染まっている。尖った風に髪がなびく。小さな住宅街ではあるが、道路は舗装されている。しかし、道を歩いている人は誰一人としていない。静まり返った路地。だが、住宅街のはずれに見つけた商店街に入ると、そこは活気に溢れていた。八百屋や魚屋などから聞こえる威勢のいい声の中で客たちが買い物をしている。この人たちはどこから湧いてきたのだろうか。恐る恐る美嘉が近づいて行くと、
「谷村さ~ん」
 という声があちこちから聞こえてきた。声の主を探っていって気づいた。先ほどあの女とともに美嘉のいた部屋に押しかけてきた男たちだった。
「買い物?」
「ええ、そうです。食材がほしいと思って」
 ここは素直に答えておく必要があると判断した。
「何がほしいの。うちは八百屋だけど、魚屋もあるし、乾物屋もあるよ。それに、少し先に行けば小さいけど、スーパーもあるよ」
「そうですか。じゃあスーパーに行ってみます」
スーパーでも、いろんな人から無遠慮な視線とともに声をかけられる。
「あら、谷村さん、もう身体は大丈夫なの」「惣菜売り場はあっちよ」等々
 みんな親切だけど、それは用意周到に準備されたものであり、美嘉の感情のすべてを吸い取ろうとするような暴力的なしたたかさが伺える。みんなが自分のことを知っていて、私は誰も知らない。ざらついた孤独感が胸のうちにひたひたと静かに溢れる。
 この後、いつまた買い物に来られるかわからないので、結局、肉を除いた野菜や魚の他、レトルト食品やインスタント食品をたくさん買って、急いで帰宅した。あの女が言っていたとおり、お金は不要だった。
 遠くから見ると、街の輪郭が夕闇の中にぐったりと溶けていた。
 キッチンで夕食を作り、一人で食べると、少し心が落ちついた。だが、食事が終わってしまうと何もすることがない。テレビでもあれば時間をやり過ごすことができるのだが、一通りの家電はあるにも拘わらず、テレビだけなかった。情報を与えないという意図なのだろう。
 
 夜のまだ浅い時間にもかかわらず、こんな広い家にただ一人いると、奇妙な息苦しさを覚える。耳の底がひんやりするくらい静かだ。自分が歩くスリッパの音の大きさや壁面にかけられている鏡に映る自分の姿にすら怯えてしまう。じっとしていると、魂を奪われてしまうような感覚になる。
 あの女は、夜は外に出るなと言ったが、このままここにいるよりは外に出たほうがまだましではないかと思い外出の準備をする。どんな意味があるのかわからなかったが、敢えて部屋の電気をつけたままにして玄関からそっと外に出る。空はどんよりと重いたい色をしている。  
 近隣の家を見るが、灯りのついている家はない。どういうことなのだろう。昼間あれだけ商店街に人がいたというのに、家々の電気はついていないのだ。地面を踏みしめるように、しかし慎重にゆっくりと歩き出す。静まり返った路地には自分の靴音しか聞こえない。白い息が鼻先にかかる。数少ない街灯に照らされながら前を見つめて歩いていると、あの商店街の方角から昼間と同様多くの人の声が聞こえきた。暗闇の中で商店街のある場所だけが異様に明るく、熱の膜にすっぽり包まれている。 
 あやふやな思いのまま近づいてみる。すると、昼間は空き店舗でシャッターが閉まっていた入口近くの店に煌々と灯りがついているのが確認できた。よく見ると、その店の中にあの女がいて、この世のものとは思えないような真っ赤な色をした肉を喜々として切り分けている。その様子を多く人たちが囲みながら歓声をあげている。見てはいけないものを見てしまったようだ。本当は、ただの肉屋なのかもしれないけれど、美嘉にとっては何かを暗示しているようにしか思えず、足元が沈みこんでいくような疑問に頭の奥が重みをもって膨らみ始める。喉は乾き、苦いおくびが出る。指先までひんやりとしてきて、やがて恐怖で身体の震えが止まらなくなった。これが夜は外に出るなという言葉の答えなのだろうか。誰かに気づかれると危険な気がして、音を立てずに家まで走って帰った。
「どうしたらいいの、教えて翔」 
 空間を見据えて、小さく叫ぶ美嘉。
 しばらくたってから、カーテンのすき間から外の様子を伺うと、先ほどは消えていた家々の電気がついている。取引が終わったのだろうか。しかし、よく目を凝らすと、暗闇の中で獲物を狙う狼のようなたくさんの人の目が、か細い月の光線を受けてこの家を取り巻くように光っている。
 鼓動が早鐘のように早まり、一刻も早くこの場所から離れろと命じる。しかし、夜に行動を起こすことは自ら危険の中に身を晒すことになる。明日、明るいうちに村の散策を装い、村の出口を探そう。
 その日、美穂はベッドの上で毛布を頭からかぶったが、不必要なまでに神経が尖り眠ることができない。このまま一睡もできないまま朝を迎えるのではないかと思ったが、知らず知らずのうちに不透明で淀んだ眠りに落ちていた。
 翌朝目が覚めると、また消えていた記憶が動き出した。どうやら自分はひと眠りする度に記憶が再生するらしい。
 翔の立てた旅行計画に沿って、二人は東京駅から新幹線に乗って北に向かった。仙台で降り、在来線に乗り換えた。各駅にとまるその列車の車内は、ほとんどが地元の人たちだった。隣に座る翔はひたすら携帯をいじっている。美嘉は車窓を流れる山や川や田畑をぼおっと眺めていた。前日まで仕事で多忙だった美嘉は、いつの間にか夢の中にいた。目が覚めてみると、今度は翔が寝ている。列車が見知らぬ駅に滑り込むところだった。駅名が書かれていたはずであるが、そこは思い出せない。
「ねえ、翔、どこまで行くの?」
 なんだか不安になって、寝ている翔を起こす。
「う~ん、ここどこ」
 目をこすり、伸びをしながら言う翔。
「〇〇」
 答える私。
「そうか、あと三っ先の〇だ」
 その駅名も、美嘉にとっては聞いたことがなかった。改札を抜け、ほとんど人がいない駅前の道を少し歩いたところにあった店でラーメンを食べた。だが、またしてもここで記憶は中断した。
 美嘉は村からの脱出を試みるために家を出て歩き始める。弱々しい冬の陽射しが控え目に美嘉を照らす。黒い小さな鳥が畑から飛び去った。不吉な気配が鎌首をもたげ灰色の影を落とす。
 もちろん、当てがあるわけではなかった。だが、みんながいるに違いない商店街を避け、村のはずれを目指す。途中何人かとすれ違ったが、軽く会釈をするだけで済ませた。あてどなく、しかし用心深く田園風景の中を進んでいると、目の前に古い立て札が見えた。風雨で文字がかすれてはいたが、かろうじて『ここが村境』と読み取ることができた。ということは、ここを越えれば脱出できる。「助かった」そう思った時、突然後ろから声をかけられた。
「谷村さん、あなたはここから出られないのよ」
 ゆるゆると振り向くと、先日スーパーで会った女が、悲しみの混じった乾いた笑顔を向けていた。
「すみません。戻ります」
 ひとり言のような細い声で答える。怖くなった美嘉は、急いで彼女の横をすり抜けて、違う道へと歩き出す。しかし、あの女性はいつ自分の後ろにいたのだろう。自分の感覚では、ここへ来るまで誰とも会わなかったはずなのに。
 頭を切り換え、今度は山へ向かって歩き始める。山は村と村を隔てている境のようなものだから、最悪、あの山を越えればこの村から抜け出せるかもしれないという微かな期待があった。果てしのない野原を、山を目指してひたすら歩く。しかし、山は近くに見えて案外遠い。どれほど歩いただろうか。山裾に人家がいくつか見える。そして、その先にレールらしきものが見え、駅らしきものも見えた。列車に乗れば、私をここから他の地域へ運んでくれるかもしれない。ささやかな希望が見えた。駅へ向かい、一歩踏み出そうとした時、後ろから車のクラクションが鳴らされた。いつの間にか一台の軽トラックが止まっている。運転席を見るが誰も見当たらない。そんなバカな。そう思った時、車の横に亡霊のような男が現れ、美嘉の方を見ていた。
「こんなところまできてどうしたんですか。こっちへ向かったと聞いたので迎えに来ましたよ。さっきあなたが見ていた鉄道はもう廃線になっていますし、だいいちあなたはこの村でしか存在しえないんですよ。さあ大人しく車に乗って家まで帰りましょう」
 男のいる場所からかなり離れているのに、男の声は耳元で囁くようにはっきりと聞こえる。男が美嘉に近づいてくる。
「近づかないで。お願いだからこっちへ来ないで」
 そう叫んで、美嘉はその場から逃げようとするが、身体はもともとそこに置かれた石のようにまったく動かない。結局、美嘉は男の車で家まで送られた。自分は村人に、いや、村そのものに二十四時間監視されていて、どうやっても二度とここから抜け出せないことがはっきりした。糸のような細い期待も断ち切られた。心は真っ黒に塗りつぶされ、行き場を失った絶望感に襲われる。出口を求める押し殺した悲鳴が胸の中に広がるだけだった。
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