第1話 目が覚めたら

文字数 3,397文字

 もし他人の記憶を買うことができるとしたら、あなたならどうする……

 カーテンのすき間から差し込む光が眩しくて、谷村美嘉はうっすらと目を開ける。泥のような眠りから目を覚ましたのだ。辺りには、初冬のぴんと張ったような冷たい空気が流れている。
 美嘉の目が最初にとらえたのは、自分を見つめる見知らぬ中年の女の冷ややかで硬質な顔だった。視線が絡み合う。
「お目覚めですか? 3日間ずっと眠っていたのですよ」
女の声はぬめり気を帯びていた。
「3日間?」
 そう言えば、身体が鉛のように重たい。だが、それよりも深い森に迷い込んでしまったような心細さがあった。それに、いつの間にか、自分が見慣れないパジャマ姿になっていることに気づく。
「そうですよ。みんな心配していました」
 この時だけ女は笑顔を作って言った。美嘉は、覚束ない眼差しで辺りを見回す。ここが自宅でないことだけはわかるのだが、かといって病院でもなさそうだ。それは部屋の様子や、女が白衣を着ていないことから想像がついた。しかし、まだ覚醒しきっていない脳にはそれ以上のことは何も浮かんでこない。いったい自分の身に何が起きたのだろうか。
「みんな?」
「そうです。この村のみんなが、です」
 この村? この村? 美嘉は心の中で繰り返す。だが、何かを考えようとすると頭が痛くなる。そんな美嘉を見て、中年女は哀れみの表情を浮かべている。この女は何者なのだろうか。
「まだ意識がしっかりしていないようですので、もうしばらくお休みくださいね」
 言葉は丁寧だが、どこか威圧的である。女は表情から力を抜いてベッドから離れ、部屋を出て行った。途端に息詰まるような静寂が訪れる。一人になった美嘉は、不安の影に怯える。このままここにいると、自分の身に危険が及ぶような気がする。何とかしなくてはならないと思うが、何をしたらいいかすらわからない。まず自分が置かれている状況を正確に把握しなければならないと思い直す。
 ベッドを降り、がらんどうの部屋の中を改めて見渡す。なぜかロッカーだけはあるが、その他の机やごみ箱などの備品すらない。試しにドアを開けようとしてみたが、案の定、外から鍵をかけられていて開かない。窓に近寄り、レースのカーテン越しに外を見る。そこで初めて自分の居る部屋が二階以上の場所であることがわかる。建物の前には広い庭があって、あちこちに花壇が見られる。もう少しよくみようとカーテンを少し開けると、それをわかっていたかのように突然年老いた女が二人現れ、花壇に近づいた。手入れでもするのかと目を凝らしていると、二人は何か会話を交わした後、同時にこちらを見上げた。慌ててカーテンを閉める。どうやら自分は見張られているらしい。
 湿気を含んだ唇を拭い、落ち着け、落ち着けと自分に言い聞かす。自分がなぜここにいるのか、まずは記憶を呼び戻す必要があった。ベッドに腰掛けて、どこかに残っているであろう記憶の糸を手繰り寄せようとする。だが、ロッカーの中は空っぽであり、自分の持ち物の一切が消えていた。手がかりが何もない。焦れば焦るほど何も浮かんでこない。
 その時、部屋のドアがノックされた。突然の音に驚いた美嘉ははじかれたようにベッドを飛び降りた。
「入っていいですか?」
 部屋の外から先ほどの女の声が聞こえる。
「はい」
 そう言わざるを得ない。すると、ドアが開き、女が白衣を着た老人の男性を伴って美嘉に近づいてくる。ベッド横に立っている美嘉を見て女が言う。
「寝ていなくて大丈夫?」
「ええ」
「じゃあ、先生、よろしくお願いします」
 医者とみられる老人が前に出て、美嘉の額に手をやる。目を覗きこむ。そして脈をとった。
「今のところ問題ないようだな。とりあえず、今日一日は安静にしていてほうがいいだろう」
 女に向かってそう言うと、老人は最後に美嘉に向かって微笑み「お大事に」と言って、踵を返してひとり先に部屋を出ていった。その後ろ姿を呆然と眺める美嘉。
「そういうことだから」
 美嘉は訊きたいことが山ほどあった。確かめなければならないことだらけでもあった。だが、この女にそれを訊くのは躊躇われた。不吉な予感が形を持ちそうだったからである。
「もし私の何か用があったら、そのボタンを押してくださいね」
 ベッドに括りつけられたナースコール用と思われるボタンを指す。何も答えない美嘉を眺めながら、女が続きを言った。
「じゃあ、とりあえず安静にしていてくださいね」
 女が部屋を出て行った。『安静に』って、自分には安静にしなければならない何かが起きたのだろうか。特に身体に痛みを感じる部分もないし、傷も見当たらない。だが、何かを考えようとしても相変わらず何も浮かばない。不安の塊が澱のように沈んでいる。もう一度窓に近づいてみる。もうあの二人はいなかった。日に照らされたおもての風景は制止しているように見えた。
 結局美嘉は女に言われたようにベッドに横になる。やがて美嘉をゼリーのような分厚い膜が覆って、再び眠りについた。

次に目を覚ました時、辺りには夕闇が迫っていた。布団を跳ねのけて立ち上がると、急に霧が晴れるように、記憶が蘇ってきた。
 恋人の辰巳翔と二人で旅に出るために家の前に立っている姿が浮かんできた。二人は付き合い始めてすでに5年経っていて、いわば倦怠期を迎えていた。それを打破するために旅行でも出かけようかということになったのである。東京を発ったのがいつだったのかは思い出せない。確か、今回の旅行計画は翔が立てた。観光地ではなく、秘境と呼ばれるような人里離れたところへ行こうと言ったのも翔のほうだったと思う。だが、思い出せたのはそこまでだった。再び記憶はいとも簡単にプツンと切れてしまった。
 今日はいったい何日だろうか。部屋にカレンダーがあれば思い出せるのだろうが、もちろんない。自分の荷物もすべて消え失せていたため、他に確かめようがないのだ。
 今、翔はどこで何をしているのだろうか。そもそも無事なのかもわからない。だが、美嘉は翔がきっと助けに来てくれると信じた。そう思うと、いくらか心が軽くなった。
 その時、静寂を破るように、部屋の外が再び騒がしくなった。ガチャガチャという鍵を開ける音と同時にドアが開き、あの中年女を先頭に複数の男女が雪崩れ込むように入ってきた。よく見ると、女が二人、男が三人だった。美嘉を取り巻くようにして立つ。その威圧感に美嘉はたじろぐ。すると、あの女が一歩前に出て、みんなを代表するように美嘉に告げた。
「どうやらお身体も元に戻られたようですので、お家に帰りましょう」
 意味がわからない。自分の家がかつてこの場所にあったということか? どこにも行きたくない。行ってはならない。自分はここで翔を待つのだ。しかし、、女はあくまで笑顔だったが、その言葉には有無を言わせぬ圧力があった。
「その前に、私は訊きたい、訊かねばならないことがいっぱいあるんです」
 美嘉は不安に耐えられなくなり、ついに叩きつけるように言ってしまった。
「何をおっしゃってるんですか」
 全くとりなす様子を見せない女。それでも美嘉はさらに食い下がった。
「すみません。私と一緒にいた辰巳翔という男性はどうしたんですか? そのことだけでも教えてくれませんか」
「辰巳翔? そんな人は初めからいませんよ」
「嘘、嘘よ」
 美嘉は大きな声で叫んだ。すると今まで笑顔を見せていた女の瞳の底で水のように透明な炎が揺らぎ立った。静かに死の闇に下りていくような不気味さに美嘉の心は凍りつく。すると、周りにいたもう一人の女や男たちも風景に溶け込むように一斉に美嘉を睨みつける。
「何よ。いったい何なのよ」
 美嘉も怯まずみんなを睨みつけながら怒鳴った。すると女が笑顔を戻して言った。
「まあ、まあ、そんなに興奮なさらないでください。家に帰ればきっと落ち着けると思いますから。さあ」 
 女が男たちのほうを見る。三人の男たちが、美嘉に近づく。
「お願い、こっちへ来ないで」
 急に怖くなった美嘉が女を見て懇願する。
「何を怖がっているのですか。ただ、家に帰るだけですから心配しないで。さあ」
 女の『さあ』という言葉が地獄へ誘うようで死ぬほど怖かった。
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