第4話 書き換えられた記憶の中での幸せは?

文字数 2,374文字

 東京に戻った美嘉は、もともと住んでいたマンションではなく、翔の部屋で過ごしていた。そのほうが、翔がまだ不完全な美嘉の世話をしやすいからと諭されたからだが、美嘉は納得していたわけではない。美嘉が自分の住んでいたマンションに戻れば、自分が『美穂』ではなく、美嘉だということに気づくことを恐れたのではないか。そんな思いがあったから、美嘉は買い物に出かけるふりをして、自宅マンションに戻った。しかし、郵便受けの中に入っていたいくつかのダイレクトメールの宛名はどれも谷村美穂と印字されていた。部屋の中も確認したが、そこには『美穂』を示すものしかなかった。自分が少しずつ死んでいくような感覚に陥る。
 そうした中で、美嘉はずっと違和感を抱えたまま、とりあえず美穂として暮らしていた。頭の中が白くもやがかかったようになることもあったが、徐々に言葉も取り戻してきたことで、自分なりにいろんなことを試してもみた。翔が会社に出かけた後に、携帯で田舎に住む兄や両親に電話しようとしたが、なぜか電話帖から家族の情報が消えていた。鼻の奥がかすかに熱くなる。だが、大学時代の友人の名は発見できたので、電話してみる。
「ああ、みほ、どうしたの? 何回も連絡したけど繋がらなかったし、会社に電話したら辞めたって言われたし…」
 友達にも『みほ』と言われ、会社を辞めたと言われた。しかし、美嘉には会社を辞めた記憶はなかった。やはり何かがおかしい。ここも安住できる場所ではない。だから逃げたい。逃げなければと思う。逃れたはずの深淵へ再び戻ることへの恐怖もあった。しかし、一方で美嘉は今でも翔のことが好きだった。愛していた。今の翔を信じ切ることはできそうもなかったけれど、信じたい、信じることでしか希望を持つことができない。未来を感じることができない。今起きていることは何かの間違いで、きっと近いうちに前のような平穏で案外退屈な日々が戻る。きっと、きっと。万、万が一、書き換えられた記憶の中の世界であったとしても、幸せならそれでいいと覚悟を決める。
 翔は以前にも増して優しかった。だが、嫌いだったはずの納豆をおいしそうに食べていたり、自分の記憶では野球が好きだったはずなのに、サッカーのテレビ中継を見て興奮している姿を見てしまうと、若干の不安を感じることはあったが…。
 それでも生活は次第に『普段』に戻っていた。東京に戻ってから二週間が経ち、以前から予定していた引っ越しをすることになった。将来の結婚を見据えて、新居で同棲生活をするのだ。社会的な関係づくりに関してはまだ十分できない美嘉に代わって翔が転居先マンションを決めてきた。美嘉がもともと住んでいた部屋の荷物などの移動の手配も翔がしてくれた。
 11月20日、引っ越しは無事完了した。
 ある程度の荷物の整理はしたが、まだ山積みのダンボールの間でインスタントラーメンを食べる。こんなたわいもないことが幸せに感じられる。本格的な片づけは翌日からにして、その日はぐっすりと寝た。この頃には日によって気持ちのグラデーションはあったけど、美嘉、いや美穂の気持ちもだいぶ落ち着いていた。それから二日間かけて、部屋はようやく部屋らしくなった。そんな日曜日の夕方。
「ねえ、翔」
「何?」
 翔はサッカーのテレビ中継を見ている。それでも、いつもと変わらぬ優しい笑顔をこちらに向ける。
「ひとつだけ訊いていい?」
「どうした? もちろん何でも聞いていいよ」
「あの旅行、何であの場所を選んだの?」
「ん?」
 翔は慌ててテレビを消し、怪訝そうな表情を見せた後、続けた。
「今頃どうしたの?。しかし、本気で言ってる? 僕の妹が眠る場所へ連れていってて言ったのは君のほうだよ。途中、道を間違えちゃったけどね」
「そうだったっけ」
 翔に動揺を悟られないよう、なるべく軽い口調で言う。また記憶の迷路に迷い込みそうなので、これ以上何も訊かない。今の今の事実だけを信じて生きると決めたではないか。翔は何事もなかったかのように、再びテレビをつけサッカーを見ている。
「あっ、美穂」
 今度は翔が、突然、何かを思い出したように大きな声をあげた。
「えっ、何?」
 『美穂』と呼ばれることに未だに慣れていない美嘉は、一拍返事が遅れることがある。そろそろもう慣れなくてはと思う。
「両隣の人に引っ越しの挨拶をしてきてくれる。挨拶があまり遅くなるとおかしいでしょう。これからしょっちゅう顔を合わせることになるのは君だから。それから、他の部屋の人はみんな単身者で日中はほとんど留守にしているので挨拶はいらないらしいよ」
 引っ越してきてからすでに二日経っているので翔の言ってることは正しい。
「わかった。じゃあ行ってくる」
廊下に出た美嘉は、まずは右隣の部屋のドアホーンを押す。中から20代後半とみられる女性が現れた。
「あっ、突然すみません。二日前に隣に引っ越してきた辰巳と言います。いろいろとお世話になるかと思いますので、よろしくお願いします」
「わざわざご丁寧にありがとうございます。防犯上のこともあるので表札などは出してませんけど、うちは田中です。こちらこそ、よろしくお願いします」
 にこやかで感じのいい人で、安心した。次に左隣の部屋に向かう。こちらの部屋にも当然のように表札はない。同じようにドアホーンを押すと、中から少し低い女性の声が聞こえた。しばらく待っているとドアが開き、その人物が現れたが、あまりの衝撃に美嘉は思わず立ち竦んだ。そこにいたのは、あの中年女だった。
「何か御用ですか?」
 美嘉は何も言えず、思わず後ずさりして何かにぶつかった。後ろを振り向くと、そこには翔が立っていた。
「僕のお母さんだよ。ちゃんと挨拶してくれないと困るよ」
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