第12話

文字数 9,345文字

 
 早速、その日の夜から3人でネコ缶配りに行く事になり、柳瀬が美沙、早川の順に迎えに行く事になった。

 早川がドローンに乗り込むとすぐに
「敏江と名前で呼んでください。業務外なので良いですよね?」と2人に訊く。

「じゃあ、僕の事は美沙さんがそう呼ぶから『トモくん』にするとして、美沙さんは『会長』…と呼べばイイかな?」柳瀬がふざけながら笑顔で美沙を見る。

「やめてよ、業務外だって言ってるじゃない」と美沙が怒ったフリをすると、
「じゃ美沙さんと呼ばせてもらいます。ね、トモくん!」早川はそう言い、会社では見せない笑顔で笑った。

 その時、柳瀬と美沙は早川を選んだのが間違いではなかったと確信した。
 会社では決して軽々しく接する事がない早川が状況に合わせて柔軟にその言動を切り替えるのだと知り、2人はその気遣いと賢さに感心したのだった。
 ネコ缶配りでも美沙が想像した通り、短い説明で要領を掴み、手際よくこなしながらも丁寧な手捌きでネコ達を怖がらせる事はなかった。

「敏江さんのお陰であっという間に終わったな!」柳瀬が礼を言うと、
「こんなに沢山のネコ達と毎日触れ合っていたなんてずるいですよ。もっと早く声を掛けて欲しかったです」満足している様子で言った後、「どうしてトモくんはやめるんですか?」早川は不思議そうに訊いた。

「行方不明になっている父親を捜しに行くんだ」柳瀬は隠さずに言い、「敏江さんがいれば心配なく出掛けられる。ネコ達も敏江さんの方がいいみたいだしね」と笑った。

「そんな事ありませんよ…。でも、早く出会えるとイイですね。お父さんが見つかるまでネコ缶配りは私に任せてください!」真面目になって言い、「ネコ缶配りって、なんだか言い辛くないですか?」と2人を遠慮がちに見た。

「確かにそうね。ずっとそう呼んでいたから疑問を持ったりしなかったけど…」と美沙が柳瀬を見る。

「敏江さんが呼びやすい名前を考えてくれるとイイな!」そう言って柳瀬が早川を見ると、すでに何かを考えるようにして、
「…配りだがら、…デリバリー?…。ネコ缶デリバリーじゃ長いので、『デリバリー』ではどうですか?」
 仕事ができる早川らしく、すぐにその答えが導き出された。

「いいね、デリバリー」柳瀬が言うと、
「そうね、じゃあ早速、明日からそう呼びましょう」美沙もすぐに賛成した。


 早川が本気で取り組んでくれる事が分かった柳瀬はこれで思い残す事無くネコへ変身し、父親の捜索に出掛けられると安堵していた。
 一方、その夢を微塵に打ち砕く取り締まりが始まってしまう事を柳瀬に伝えなければならなかった美沙はその重圧に押しつぶされそうだった。

 柳瀬の変身術が近づくと新たな取り締まりのことを伝えられずにいた美沙はそれまで以上に焦り始めた。
 修一から得た情報はそれを知らせる事が死の宣告をするのと同じに思える程、絶望的なものだが、知らせなければすぐに命を落としてしまう危険もあり、美沙はどうしたら良いのかずっと悩み続けていた。
 外出しない事で隆は無音ドローンからの電磁パルス照射を避けられるだろうがクロトラや倉庫に集まってくる変身野良ネコ達は外で暮らしているのでそうはいかず、捜索で歩き回る柳瀬達も同様に危険だった。

 美沙が暗くなった部屋で明かりも点けずにソファに座り、視線を宙に据えたままずっとそんな事を考えていると見かねた隆が声をかけた。

「何をそんなに悩んでいるんだい?」

 目の前に突然現れたように思った美沙が驚いて目を丸くすると、
「さっきから何度も声を掛けていたんだけど…」隆が困ったように言い、「話してくれよ。僕がその為にいるという事を忘れたの?」と続けた。

 いきなり責められてしまったように感じた美沙は、
「どうして? 忘れる訳ないじゃない!」と、怒ったように言うと突然、顔を膝に伏せるようにして泣き始めた。

 隆はソファに飛び乗ると美沙の膝にそっと前足を置いて、
「僕に関係のある事なら何を言われても平気だよ。考え方も大分ネコらしくなり、大抵の事では動揺しなくなったから…」と優しく言った。

 その言葉で、自分が感じていた事に隆自身も気付いていたのだと知った美沙は驚きながらその顔を上げ、
「隆はすっかりネコになったのね、心の中までも…。それで辛くない?」涙を流しながら訊く。

「ネコになりたての頃は感情を失うことが人間だった自分を忘れてしまうことのように思え、不安で仕方なかった。でも、感情を持ち続けようとすればする程、日々ネコに変わっていく身体とは反対に気持ちだけが人間のまま取り残されたように感じてしまうんだ。肉体と精神のバランスが取れない状態で悶々とした日々を過ごしているとやがて行動に合わせて心も変わる方が良いと気付き、それからは感情がなくなる事を受け入れるようになったよ」
 隆は本音を打ち明けた。

「ごめんなさい。隆が辛い日々を過ごしていた時に、私が忙し過ぎて気付けなかっただけなのね…」美沙はそう言って涙を拭うと、「ネコになってでもイイから側にいてと私が頼んだのに、隆の事を何も理解していないわね…」と俯いた。

 隆はそんな美沙を見て、
「今は肉体と精神がほぼ一致しているから大分楽になったよ。心が動揺した時、人間のように涙を流して落ち着くという訳にはいかないけどもう、それにも慣れた。ネコになりたての頃はそれが一番辛かったけど…」と言い、背中を舐める格好をして、「背中が舐められなくて痒みを我慢するのも辛かったけど…この通り、もうどこだって舐められる」
 泣いている美沙を笑わせようとそのまま思わず転がってしまったように演技する。

 その優しさに美沙はまた泣きそうだったがその努力を無駄にしないように我慢して、
「ありがとう。私は今でもこうして隆に支えられているのね、安心して全てを話すわ」と弱々しく笑って見せた。

 美沙は先日、修一が来た時の事を話し始めたが、隆は少し聞いた所で一緒に聞いた方が良いと思い、柳瀬への連絡を頼んだ。

 10分後に柳瀬はやって来て、
「隆さん大事な話って何ですか?」と書斎に入るや否や質問する。

「まだ最初の部分しか聞いていないのですが、柳瀬さんも一緒の方が良いと思って連絡しました。重要な話とは美沙が聞いた話です」そこまで言うと「最初から話してくれるかな」と美沙を見て促した。


 美沙が修一から聞いた事を全て話し終えると、
「ついに本腰を入れる事になったのか…」
 隆は呟いたが柳瀬は額に大粒の汗を浮かべて黙っている。

 3人ともそれぞれ何かを考えていたのか長い沈黙の後、
「倉庫にいるネコ達にも知らせないといけないな」隆が独り言のように言うと、
「せめて父親を捜し出してからに……」柳瀬は最後まで言わず、絶望したようにガックリと肩を落とした。

「いつからその取り締まりが始まるのかまだ分かっていないし、本当に人間性を失うのかどうかもハッキリしていませんよ…」隆がそこまで言うと柳瀬は、
「昼過ぎに付き合いのある政治家から同じような話を聞かされました。だから、隆さんの話がその事じゃないようにと祈りながらここへ来たんです…。その政治家は取り締まりが数ヶ月以内に始まる予定だと言っていました」と泣き顔になって2人を見る。

「数ヶ月ですか、あまり時間がない…」隆もさすがに動揺し、「何か防御策を考えるにしても無音ドローンが相手では…」と言葉を失うと、
「その上、変身動物をかくまうのも…、罪になるらしい…」柳瀬が言い辛そうにして口籠る。

 それが美沙に関することだとすぐに理解した隆は詳しい内容を知りたかったが、本人がいるこの場で聞ける筈もないとすぐに諦めた。
 横目で美沙を見ると柳瀬が言った事の重大さに気付いていて、
「今、何て言ったの? 何が厳しくなるの!」大きな声になって問いただす。

「その政治家が言うには、変身動物をかくまう者も変身した人と同じ罪になると…」柳瀬は早口で最後まで話そうとしたがそれから先を続け辛くなって黙る。

「同罪っていうことはつまり、死刑って事じゃない!」
 美沙が吐き出すように言い、泣きながら書斎を出て行ってしまった。

 それを聞いた隆もすごく動揺して、
「柳瀬さん、それは本当ですか?。その政治家がそう、言ってたんですね?」間違いであって欲しいと願いながら何度も確認したが
「間違いありません。私もその事をどう伝えようか迷っているところに連絡を貰って…」柳瀬はそこまで言うと、その場にへたり込んでしまった。

 これ以上話しても収拾がつかなくなるだけだと思った隆は落ち着いて対策を考えたいからと告げ、とりあえず柳瀬には帰ってもらった。


 泣きながら書斎を飛び出した美沙はそのまま寝室に籠ってしまった。
 ついに、何の罪もない美沙にまで危険が迫り、とにかく何か策を考えないと全てが終わってしまうと思った隆は誰もいない書斎で1人、焦っていた。

 隆やクロトラ達、柳瀬の両親の命が危険になったとしても変身動物が違法である以上、それが宿命と言えるだろうが美沙は人間としてまだ合法的に生きられる年齢なのだ。
 人生を支えようとネコになってまで生き続けると決断したのに、その事自体が美沙の命を危険に晒してしまうのでは何の意味もない。

 こんなに早く社会情勢が変わるとは想像せず、変身術でネコになるという一番安全な手段を選んだつもりでいた自分が甘かったと隆は後悔した。
 いまさら悔やんでも遅いが、こんな結果になるならヘヴンに行けば良かったと思い、もしそうしていればその後12年間、美沙は大手を振って生きる事ができたのだと考えると無性に腹が立った。

 そのやり場のない憤りに、いても立ってもいられなくなった隆は書斎の窓から飛び出して力の限り走った。
 夜の街をでたらめに走り回り、やがて息が苦しくなって立ち止まるとクロトラ達がいる倉庫の前に来ていた。

 隆がドアに向かって歩き出すと、
『隆、取り締まりのことを知らせに来てくれたのか?』クロトラの声が頭の中に響き、『さっき柳瀬が来て、話してくれた』と語りかけてきた。

(柳瀬さんが?)隆が声に出さずに応えると、
『お前と美沙の事を心配していた。勿論、俺達の事もな…』そう語り、『隆、俺達の心配は要らない。野良になってしまったらもう生きている意味はなく、この社会で俺達は違法なのだ。新たな取り締まりで本来の動物に戻れるというなら、借りている身体を返すまでだ』嘲笑うような声を頭の中に響かせた。

『柳瀬は変身する事も、白ネコと父親を捜す事も諦めていないようだがそれだって、たった1度の電磁パルス照射で隣の母親が誰だか判らなくなってしまうのだ。隆があれこれ心配してもどうにもならない』優しい声が隆の頭に響く。

『隆が今、悩むべきは美沙の事だけだ。ここにいる変身ネコ達の事は俺達自身が考えるべき事だ。さあ早く帰ってやれ、美沙がお前を必要としているぞ』その言葉を最後にクロトラは気配を消した。

 すでに気配を無くしたクロトラが聞いていないかも知れないと思ったが、
(クロトラさんありがとう。お陰で自分が何をすべきか分かりました)と再びどこかで会えるよう頭の中で祈りながら別れを言った。

 自宅にに戻った時、すでに隆の心は決まっていた。
 その事を告げようと書斎から出て美沙を探すと、泣き疲れた顔でリビングのソファに座ったまま呆然としていた。

 隆はソファに上がって隣に座り、静かに声を掛けた。

「決めたよ、美沙。これが最善策だ」
 美沙は前を向いたままビクッとした後、その視線をゆっくり隆へ移した。

 先ほど倉庫で聞いたクロトラの話しを隆が伝えると、もう枯れてしまったのか涙を流さずに泣き出して、
「クロトラさんや他のネコ達とも、もう会えなくなるのね」弱々しい声で言い、「隆とはどうなるの?」じっと見つめて訊く。

「取り締まりが始まる前に僕はここを出て野良ネコになる。そしてその後、本物のネコになるだろう」隆は言い切った。

「野良になって、本物のネコ…?」
 その真意が分からずにいた美沙は急にハッとして目を見開き、「まさか、人間の記憶を消されてしまうって事? そんなのいや!」驚いたように言い、今度は涸れていた筈の涙を流しだした。

「美沙を守るにはそれしか方法がないんだ!」突き放すように隆が言うと、
「じゃ、私もネコになる! 変身するわ!」取り乱したように頭を左右に振りながら、訳の分からない事を言い出した。

「ネコになるなんて簡単に言うな!」隆は怒って美沙の腕に強く噛みついた。


「……………………!」
 その痛さより初めて噛まれたショックで唖然として凍り付き、大きく開いた目で隆を見詰めた。


 しばらくすると美沙は冷静になり、
「ごめん…なさい…」微かな声で言うと、「ごめんなさい。隆の気持ちも考えずにあんな事を言って本当にごめんなさい」と涙を流しながら何度も何度も謝り続ける。


 隆は美沙が落ち着くのを待って静かに話し出した。

「美沙には人間としてやらなければならない事がまだある筈だ。毎日、それだけを頼りにするネコ達の為に出来る限りデリバリーを続けて欲しいし、ポエムだってもっと良いものを沢山創って欲しい。1人で生きるのは簡単じゃないと思うけど手助けしてくれる早川さんがいる」
「だから、僕がいなくなっても勇気を持って生きて欲しい。僕は元気に輝いている美沙が好きなんだ。もっと輝けると思うから僕は安心して野良ネコになれるんだ。僕が電磁パルスを照射され、何も思い出せなくなれば2度とここに戻る事はなく変身ネコをかくまったと美沙が疑われることもなくなるんだ」優しい声で話す。

「前にも話したけど、今は心もネコ化して人間みたいな情緒が徐々になくなってきている。お陰で野良ネコになる事にも不安はないから心配はいらないよ」と美沙を安心させようと付け加えた。


 美沙はしばらくの間、何も言わずに心の中を整理しているようだったが、やがて決心したようにその顔を上げ、
「私も60歳になったらネコに変身する。だから、私の誕生日に最後のデリバリーの公園まで迎えに来て!」隆を涙で濡れた目で見詰めながら言った。

 隆は野良になった後の現実を想像しながら、
「無音ドローンからはたぶん逃げ切れないだろう。だから、僕は美沙の事は思い出せなくなって…」と言おうとしたがその途中で美沙が
「逃げ切れるかも知れないでしょ!! 判らないじゃない!!」と大きな声で激しく言い返した。

 これまでに見せたことのないその頑なな態度に隆は今、説得するのは無理だと諦めて別の話をすることにした。

「実際にここを出るのは数ヶ月先の事だろうけどその前に、修一と由美子に全てを打ち明けようと思うんだ」
「修一にと由美子に?」美沙が驚いたように訊く。

「うん。僕がここを出ていった後、美沙が信じて頼れるのはその2人だけだとしたら彼らとの間に隠し事はない方がイイ。全てを明かすことで美沙が危険になるかも知れないが僕は2人を信じている…」

 本当にそれで良いのかと悩みながら話す隆に
「それで警察に通報されたとしても、2人を騙したままでいるよりずっと良いわね」美沙が迷いを吹き飛ばすように笑顔で応えた。

 それを聞いて安心した隆は
「もし、取り締まりの開発に関わった2人が電磁パルスから逃れる為のヒントをくれれば、それによってクロトラや倉庫のネコ達、柳瀬さんの家族を救うことが出来るかも知れないんだ」と打ち明けることにもう1つ別の理由があることを伝えた。

   ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

「じゃあ、チビちゃん行ってくるわね」
 そう言うと美沙は自分で作った翻訳機用ベルトを2つ鞄の中に入れ、柳瀬を引き取りに出掛けた。

 書斎の窓から美沙の後ろ姿を追っていた隆は50メートル程離れた家の塀の上にクロトラがこちらを向いて座っているのを見つけた。

『柳瀬はネコに変身してしまったのか…』クロトラの声が頭の中に響いた。

(ええ。暫くの間、母親の白ネコさんと倉庫で暮らすでしょう。ネコの身体に慣れたらすぐ、父親の捜索に出掛けると言ってました)隆が声に出さずに答えると、
『話があってここに来た』クロトラが語り掛けてきた。

 自分にどんな話があるのだろうかなどと考えていると既にクロトラは書斎のデスクの上にいて、
『俺に超能力があるのはすでに知っているだろうが、その事についてだ』と前置きをしてから静かに話し出した。

『元々、超能力者だった俺は変身した直後からその特殊な力がさらに強くなったと感じていた。最初は何故だか分からなかったがその後、自分が持ち始めた感覚でその理由を理解したのだ』クロトラはそう語ると隆の目をじっと見つめ、
『それは元来ネコが持っている、野生を生き抜くための研ぎ澄まされた直感や動物同士がコミュニケーションする時のテレパシーのような能力を使えるようになったからだったのだ』と落ち着いた声でゆっくり続ける。


 クロトラはネコの脳を併せ持つことで強くなった超能力なら無音ドローンも察知できるだろうし、倉庫に暮らす変身ネコ達を様々な危険から守ってやれる筈だと話した。
 しかし、倉庫のネコ達を取り締まりから助ける気はなく、修一と由美子から聞き出そうとしている電磁パルス対策も不要だと言い、美沙に危険が及ぶので自分が変身ネコだと告白するのはやめるようにと忠告する。

『俺の超能力と隆が聞き出したヒントを組み合わせれば倉庫のネコ達を皆、助けられるだろう。だが俺はそんな余計な事はしない』
『これまで野良になった変身ネコの辛く悲しい日々はその寿命が尽きるまで終わらなかった。だが、これからは電磁パルスがそれを終わらせてくれるのだ。人間だった時の記憶を消され、本来のネコに戻るのは変身ネコ達にとって救い以外の何ものでもない』

『俺は手出しをしない方が良いのだ』と語った。


 その思いもよらないクロトラの考えに隆は自身も同じ変身ネコでありながら恵まれた環境で暮らしている為、皆のことを全く理解できていなかったと初めて気付いた。
 それぞれの変身ネコが抱える事情すら察せずにただ守ることだけしか頭になかった自分が情けなくなり、クロトラの顔を直視出来なくなっていた。

 下を向く隆を見たクロトラはその目を細めながら、
『良いんだ。隆の一途な優しさだと倉庫の皆も良く解っている』と慰めるように言った後、今度は美沙の変身について語り出した。

『隆、美沙に変身を諦めさせなければ悲劇が始まってしまうぞ。たとえ再会出来ても、変身野良ネコに幸せな暮らしなどない』
 クロトラは厳しい表情でその声を響かせ、
『家を出た後に隆が取り締まりで記憶を消されてしまったら、それを知る術がない美沙は叶わぬ再会とは知らずに変身してしまう。そしてお前を捜す為に人間の記憶を保とうとし、本来のネコに戻れる電磁パルスに救いを求めようとはしないだろう…。取り締まりに怯えながら生きる変身ネコの暮らしがどんなに辛く過酷でも…だ』

『そして、死ぬまでお前を捜し続ける…』

 クロトラは悲しそうな表情になって少しの間何も語らずにいたが、
『そして、同じことが隆にも言えるのだ。お前は美沙と再会する為に人間の記憶を保ち続けなければならない。つまり、電磁パルスの救いを期待してはならないのだ』
『たとえ野良ネコの毎日が取り締まりに怯えながら逃げ隠れするだけの、悲劇のような日々だとしても…だ』とクロトラは静かな声で話し終えた。

 クロトラの話でこれから自分が置かれようとしている状況がどんなに過酷かを改めて実感した隆には返す言葉が見つからなかった。


『野良になったら倉庫へ来い。俺が隆をずっと守ってやる』クロトラは何も言わない隆を温かい目で見つめてそう告げた。

(ありがとう、その時はお願いします)隆が心の中で礼を言うと、

『待っている』
 クロトラはその声を最後に書斎の窓から消えた。



「ただいま、チビちゃん」
 夕方、美沙が帰ってくるとそのまま書斎に来て引き取りの様子を話し始めた。

「トモくん、綺麗な黒ネコになっていたわ。倉庫でお母さんにも同じ翻訳機ベルトを着けてあげたら凄く喜んでくれたの。その後、しばらくトモくんの様子を見ていたけど病院で順調にリハビリが出来たみたいで普通に歩いたり走ったりしていたわ…」
 美沙は全てが終わって気が抜けたのかため息混じりで話し終えた。

「普通に動けるなら捜索への旅立ちも早いね!」それを聞いて安心した隆は「僕も野良ネコになったらあの倉庫に行こうかな。クロトラさんへの挨拶を兼ねて柳瀬さん達が旅立つ前に行ってみるよ」と言ったが今日、クロトラと会った事は言わなかった。



 それから1ヶ月ほど、何事もなく平穏に暮らしていた隆は自身の心と身体の変化について日々思いを巡らせていた。
 そのきっかけはクロトラから聞いた話で、ネコの動物的な直感やコミュニケーション能力によって元々持っていた超能力がさらに強化されたということだった。

 隆も変身後は徐々に考え方がドライになっていくのを感じたし、実際に動揺や感動などの感情が鈍くなるに従い、直感は反対に鋭くなって同時に行動力が上がっていった。
 思考と行動の両方が徐々にネコ化していきながら、その2つのバランスが悪い時は精神が安定せずに苦しんだりもした。
 それらの理由がもし、クロトラの超能力が強化されたのと同じようにネコの脳が活動しているからだとすれば、ネコ化して以降の経験や記憶はその脳に記憶されているかも知れないと思えた。

 動物も人と同じように日々の出来事を経験として記憶している筈で、ならば美沙との日常がネコの脳に刻まれていても不思議ではなく、実際にそんな感覚が隆にはあった。
 どの時点から記憶されているかは不明だが、かなりネコ化してから聞いた美沙の変身ついてはネコの脳に刻まれている可能性が高い。
 修一が言っていた通り、電磁パルスが人間の脳との連携を断ち切るだけならネコの脳に記憶されている美沙との思い出は失わず、再会の約束も果たせるという事になるのだ。


 元来、変身術で動物の脳の殆どを残しておく理由はその生態を保ったまま生きられるようにする為だ。
 つまり、変身動物は皆、動物の脳を使って日々を生きているということになり、隆と同じように日々の経験を記憶として動物の脳に蓄えていてもおかしくない。
 変身ネコが電磁パルスを受けても人間の記憶を消されるだけでクロトラが想像するように『記憶を消され、本来のネコに戻る』ということにはならない筈だった。

 そう思った次の瞬間、隆はそれこそが最も恐れていた事だと気付いて背筋に冷たいものが走った。

 隆とは違い、倉庫にいるクロトラや変身ネコ達のその脳に刻まれているのは野良になってからの辛い記憶ばかりだ。
 心の支えだった人間の時の楽しい記憶を電磁パルスによって奪われてしまったら、その後はネコの脳の辛い記憶だけでずっと生きて行かねばならないのだ。

 クロトラや変身ネコ達の一生がもっと悲惨なものになってしまうパルス照射を何としても防がねばと思った隆は、取り締まりに関する情報を得る為に修一と由美子に会う事を決め、美沙に2人への連絡を頼んだ。
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