第13話

文字数 9,540文字


「どうぞ入って…」
 美沙が緊張した面持ちで出迎えると、
「何かあったの? 美沙、元気が無いようだけど…」由美子が心配そうに言い、
「突然、大事な話があるって何?」続けて修一もその戸惑いを隠さずに訊ねる。

 2人はいつものように靴を脱いで上がる事はせず、玄関に立ったまま俯き加減の美沙を見詰めた。

「うん、あの…。今日は書斎で…」呟くように美沙が答えると、
「チビちゃん、どうかしたの?」心配になった由美子は慌てて靴を脱ぎ、書斎へ向かう。

「チビ、具合でも悪いの?」と修一も急いで由美子の後を追った。


 書斎の中では隆が椅子の上に座り、2人が来るのを待っていた。

「あら、いつも通りで元気そうじゃない! じゃあ…何なの美沙?」書斎の中を覗いた由美子がホッとして振り返ると、
「そうじゃないの…。でも、驚かないでね…。今から全てを見せるから…」硬い表情のままの美沙がその視線を隆に向ける。


「修一、由美子、隆だよ。今まで騙していてごめん、本当に済まない」

 隆が落ち着いた口調で言い、その頭を下げた。

「!!!……………」
「!!!……………」
 2人は大きく見開いた目で互いの顔を見合わせた後、唖然とした表情のままその視線を隆へ戻した。

「こういう事なの。今まで隠していてごめんなさい」
 美沙はそう言って頭を下げ、そのままじっとしている。

 修一と由美子は暫くの間、何も言わずに隆と美沙を代わる代わる見ていたが、
「怒って嫌いになっても良い、だから最後まで話を聞いて欲しいんだ。僕はもうすぐここからいなくなる。最後のお願いだと思って話を聞いてくれないか?」隆が静かな声でそう言うと、由美子が泣き出した。

「どうして?、美沙。どうしてなの?」涙を流しながら同じ言葉を繰り返し頭を下げたままの美沙を責めるような目でじっと見つめる。

 一方、修一はただ唇を噛んで黙っていた。


「僕達の事を分かってくれとは言わない、違法だと知っているから…」隆が再び口を開くと、
「ずるいよ、タカさん。ヘヴンに行くって言ってたじゃないか!」修一がその怒りをぶつけるように大きな声で言う。

「……………」隆は何も言えなくなってしまった。

「裏切りだよ、タカさん…」修一が拳で自分の膝を何度も叩いて悔しがると、
「ゆるして。どうしても私には支えが…、隆が必要だったの…」美沙はその場で泣き崩れた。

「僕の両親も…、母を早くに亡くした由美子が…ずっと頼りにしてた父親だってヘヴンに行った。誰もが行くのに…」と修一が絞り出すように言うと、
「タカさんが…、ネコになっていたなんて…」由美子も下を向いてそう呟いた。


 しばらくの間、誰も何も言わずに沈黙が続いたが、
「…でも、その支えがあったから…、今の美沙があるのね…」由美子は何かを振り切るように言ってその顔を上げ、「タカさんの最後の頼み、私は話を聞くわ」そう言うと慰めるように修一の背中をそっと撫でた。

「許しはしないけど、僕も話を聞くよ」修一もその顔を上げた。


 美沙が横に並んで立ち、変身した日から今日までの事を隆が詳しく話した。
 全てを話終えた隆は、新しい取り締まりが始まる前に家を出てもう2度と戻らないつもりだと明かし、2人に別れを告げる。

「最後まで聞いてくれてありがとう。そして、人間でいた頃の楽しい思い出をありがとう。その記憶のお陰で野良になっても生きていかれる…」そう言った後、「僕の事は恨んで嫌いになっても構わない。だから、美沙を許して欲しい。この通りお願いします」と隆は頭を下げて黙った。


 しばらくの間、誰も何も言わなかったが
「分かったわ…。私は美沙を許す…」由美子が美沙を見てそう言うと、
「僕は分からない。今はまだ答えられない…」修一は苦しそうにした。

「それで十分です…」と美沙が下を向いたまま静かに言うと、
「ここを出て、もう戻らないというのは美沙が罪に問われる事を心配して? タカさんは取り締まりのパルス照射を覚悟して家を出るという事なの?」修一が頭を下げたままの隆にその答えを急かした。

 隆は顔を上げると、
「その通りだよ。美沙を守るために全て覚悟はできている」修一の目を見つめて言った。

「人間の記憶を失ってしまうんだよ。美沙との大切な思い出も全て無くなってしまうんだよ、それでもイイの?」修一が複雑な表情で再び訊ねると、
「残念だけど、君達2人との思い出も…」隆がそう続ける。

「その開発に関わっていたなんて…」修一は悔しそうに呟いた後、「僕はもう帰ってもいいですか…」と言い残して静かに出て行った。

「私も取り締まりに関係している仕事を…」修一が出ていった玄関の方へ顔を向けたまま、由美子は自分の運命を呪ったが「タカさんがネコになったと知っていても同じね。それが仕事である以上は…」と何かを振り切るように言った。

「そうよ、由美子と修一は何も悪くない。2人共、立派な仕事をしているわ」顔を横に振りながらすぐに美沙が応えると、

「この情報が役に立つかどうか分からないけど…」
 由美子はそう前置きして、無音ドローンのスペックについて話し始めた。

 全て話し終えると、
「私が知っているのはここまでなの…、ごめんなさい」俯いたままそう言い、「じゃ…、美沙…」と歯切れ悪く別れを告げ帰っていった。


 その由美子の情報によると無音ドローンは飛行速度が時速800キロで一般的なものと大差ないがホヴァリング時の安定性で特に優れている様だった。
 また、その飛行音は人間が聞きとれない周波数で全く音がしないように感じるがネコの耳では違うかも知れないという事だった。


 隆と美沙は由美子が帰った時の姿勢のまま、しばらく無言だった。
 2人を大きく失望させてしまい隆の心に打ち明けた事に対する後悔のようなものが残ったが、次第に変身ネコ達を守る為には仕方ないと割り切れるようになっていった。
 そして、複雑な心境のままだった美沙も2人を騙していることで出来てしまった心のしこりが消えていくように感じ、告白した事を悔やんではいなかった。

   ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 それからひと月後、修一から1通の郵便物が届いた。

 美沙が隆の前でそれを開けると中には、
「これを渡しても僕が咎められることはありません。業界の人なら皆知っている事実です」そう書かれた小さな紙切れと修一が自らまとめた取り締まり用機器に関する解説書が入っていた。

 そこには変身動物がどうやってその人間性を保ち続けるのかが書かれ、その為に埋め込まれるマイクロコンピューターは僅かな熱と電磁波を常に発しているという説明があり、無音ドローンに搭載したセンサーでそれを空から探知し、本物の動物と変身動物を見分けるのだと図解で原理が示されている。
 新たな取り締まりでは変身動物と特定した後、センサーの横に取り付けた電波銃を使って電磁パルスを照射し、その動物の脳に埋め込まれたコンピューターを破壊するのだと以前、聞いた通りの事が書かれていた。
 照射するパルスの強さは目標までの距離に応じて自動で調整されるようだが、その強さが弱いとマイクロコンピューターを破壊するには至らず、逆に強すぎるとその動物を殺してしまう事がある為、高い精度が要求されるようだった。

 元は普通の動物である変身動物を死刑に処す事はすなわち1匹の動物を殺してしまう事に等しく、そんな死罪を世間が問題視していたことから人間性だけを失わせ元の動物に戻すという新たな方法が考えられたのだと開発の経緯が書かれている。
 間違って変身動物を殺せばせっかく開発した取り締まりが中止に追いやられてしまうと考えた警察は電磁パルス照射を弱めの設定で始め、状況を見ながら徐々に強くしていく予定だと具体的な取り締まり方法についての記述まであった。

 そして最後に、電磁パルスを防ぐ方法として金網のシールドが最も有効であると図と共に赤のアンダーラインで示され、その下の空白に修一の手書きの文字で「達者で!」と締めくくられていた。

 その日は変身動物の新たな取り締まりが3週間後に始まると、朝一番のニュースでアナウンスされたばかりだった。

「これで思い残す事はなくここを出られる」隆が最後に書かれていた手書きの文字を見つめて言うと、
「これで良かったのね…」と目に涙を浮かべながら美沙が頷いた。


 由美子と修一に告白し、2人から取り締まりに関する情報を貰った隆はもう、あれこれ悩むのはやめる事にした。
 昨日までは電磁パルスから逃れる方法を必死で探してきたが今日、修一から受け取った情報によると取締り自体がまだ開発途上にあり、脳に埋め込まれたコンピューターを機能不全に出来るかどうかすら判らないようだ。
 そんな状況で有効な方法を考えてもいずれ無意味なものになり、それに気付かずにいればもっと危険な事になると思った隆は防御策を探すのは諦めたのだった。

 ネコ化した心が割り切りを可能にしてくれたのかも知れないがクロトラが言ったように倉庫にいる変身ネコ達には彼らなりの考えがあるはずだ。
 また、柳瀬親子についても父親の捜索に旅立ってしまえば隆が何かできる訳でもなく、自分達の問題とは別の事だと考えられるようになっていた。

 隆は美沙との別れに備えて残された2人の時間を味わうことに専念し、近い将来失うであろう思い出を尽きるまで話す事にした。
 過去の思い出を語り合うことでそれがネコの脳に記憶されれば、取り締まりで人間の記憶を失った時のバックアップになるのではと隆は考えていた。
 また、美沙の今後についてもデリバリーをどうやって永続的なものにするのか、ポエムの仕事や食料危機をどう生き抜くのかなど、時間を掛けて話し合った。

 そうする事で2人の間に心配事はなくなっていたが1つだけ美沙が頑として譲らない、隆が最も気掛かりな事が残されていた。
 それは、60歳で変身してデリバリーの公園で再会するという美沙の最後の願いだった。
 隆の記憶は取り締まりで消されてしまうかも知れず、そうなればたった1人で過酷なネコの世界を生きていかなくてはならないと説明し、そんな夢は捨てるようにと何度も諭したが美沙は絶対に諦めようとしなかったのだ。



 隆は美沙の最後の願いという大きな気掛かりと共に明日、家を出て野良の変身ネコになるという日を迎えていた。

「どうかしら、これならきつくない?」新たに作った翻訳機用のベルトを隆の身体に着けると美沙が訊く。

「オーケー。ベルトが軽くて柔らかいから、前のより着け心地がイイ!」鏡に映る自分の姿を見ながら答えて、書斎の前の廊下を走ってみせた。
 隆は野良で生きるなら身軽な方が良いと思っていたが変身動物の証拠になるものを残して行くのが心配で、翻訳機と共に家を出る事にしたのだ。

「これがあればデリバリーの時に隆だと判るわね!」嬉しそうに美沙が言うと、
「僕が美沙の前に現れる事は絶対にない。疑われたら元も子もないからね」隆はきっぱり否定する。

 黙り混んでしまった美沙を見て一瞬、困ったがそんな希望を持てば毎日が辛くなるだけと割り切って考え、静かに話し出す。

「明日は見送らないで欲しい。出ていかれなくなりそうだ」隆がそう言うと美沙は下を向いて今にも泣きそうになった。

「これが僕からの最後のお願いだ。美沙の泣き顔を永遠の思い出にしたくないんだ」と懇願するように言う。
 ネコ化して心がドライになった隆だったが、流石に美沙との最後の別れは辛く悲しく、冷静でいられそうになかった。

 そして、美沙がその別れに耐えられるのかという事がそれ以上に心配だった。

「僕はさよならを言わない。美沙が知らないうちにそっと出ていくから…。だから、明日はいつものように起きて、いつものように顔を洗い、いつものように朝食を作って……」

「分かったわ。もう、それ以上言わないで…」
 あまりに辛そうに話す隆を見て、美沙が止めてくれた。

「……………………………」
「……………………………」

 2人の長い沈黙の後、
「じゃあ、今夜は私の笑顔を沢山記憶してね!」
 そう言いって隆を高く抱き上げた美沙が無理に笑うと両頬を光る筋が流れた。

 そのままリビングのソファに深く座った美沙は隆を膝に乗せ、背中を掻いたり頭を撫でたりしてじゃれつき始める。
 隆も美沙が嫌がるほど思いっきり顔を舐めたり、頬を叩いたりして応えた。

 最初は無理して微笑んでいた美沙もその後、追いかけっこになると本気で笑い、逃げる隆もジャンプしたり物陰から脅かしたりと久しぶりに心から楽しんで過ごした。
 そうして2時間程遊ぶと今日までの心労も手伝って2人はすっかり疲れてしまった。


 入浴を終えて書斎にやって来た美沙がしばらくの間、何も言わずに見つめていたが言葉を交わせば心の底から何かが溢れ出してしまうと感じた隆は椅子に敷かれた毛布の上で丸まり、寝ているフリを続けた。

 美沙はそれを知っているのか無理に作った笑顔を隆に向け、
「…おやすみ」と静かに告げると急いで後ろを向く。
 泣き顔を思い出にしたくないと言う隆の願いを叶えようと涙を堪えているのか、その背中が小さく震え始めると書斎を出て行った。

 名残惜しそうな美沙の後ろ姿を薄目を開けて見送った隆は心の中で(おやすみ、美沙…)と呟いて目を閉じた。


 時計の針が午前2時を指す頃、椅子の上でじっとしていた隆は寝室から美沙の微かな寝息が漏れてくるのを聞いてそっと起き上がる。

 足音を立てずに書斎を出てリビング、ダイニング、キッチン、クローゼットと順番に家中を見て廻るとそれぞれの部屋で美沙と過ごした光景が暗い空間をスクリーンにして映し出されて見えた。
 人間だった頃の暮らしが他人事のようで遥か遠い昔に思え、その後ネコになってからの事が映し出されると新鮮な感覚が蘇ってくる。

 そうして、2つの違う視点からの思い出を見た隆は人間とネコの両方の人生を生きた事がとてつもない奇跡に思えた。

 全ての部屋を見て回り、しっかり記憶に焼き付けてから書斎に戻ると美沙の寝室からは微かな寝息が続いている。

 隆はそっとデスクに飛び乗った。

 そこから一番思い出の詰まった書斎をゆっくり見渡した後、寝息のする方に顔を向け、
「さようなら、美沙。これまでありがとう」声を出さずに言うと意を決し、窓から勢いよく飛び出した。

   ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 やなせフーズの会長になった美沙は忙しくしていた。

 新社長となった元専務に会社の経営を委ねる代わりに柳瀬から託されたデリバリーの他、ポエムの創作、コンテストの審査員や講演など沢山の依頼を会長として受け、分刻みのスケジュールで動いていた。
 元来のんびりした性格の美沙が自ら進んで忙しくするようになったのは寂しさを紛らわせる為ではなく、隆の願いを叶える為だった。

 隆は家を出る前に人生の目標になるような事を幾つか、自分の切なる願いとして美沙に託していった。
 それは、日々目標を達成する為に様々な人と関わり、その協力を得ながら生きる事で美沙が1人の寂しさから早く抜け出せるようにとの想いからだった。
 託した願いはどれも困難を要するものだったが、隆はそれらを経験する事で変身して再会することは不可能だと美沙が気付いてくれたら良いとも思っていたのだ。
 その願いの中にはデリバリーをずっと続けたいという柳瀬の夢も含まれていて、美沙がやるべき事は数えきれないほどあった。

 美沙は先ず、柳瀬の夢から取り掛かる事にした。
 その柳瀬とはデリバリーの倉庫で毎日顔を合わせていたから父親捜しに出掛けてしまう前に夢を実現させ、旅立ちのはなむけとしたかったのだ。

 短期間では殆ど不可能に思えた事を成し遂げる為に、美沙は寝ずに頑張った。
 野生動物保護基金を設立する為にこれまで行ってきたデリバリーの活動レポートや申請書類の作成を1人でこなし、設立が叶うとすぐに、ポエム集の出版から得られる利益や講演などで募った寄付金そこに蓄え、活動の資金源をやなせフーズから基金へ変更した。
 その後、野生動物への餌やりを基金の活動として認めてもらい寄付金で行えるようにするとようやく柳瀬が望んだ、デリバリーをずっと続けられるシステムが実現した。

 しかし、柳瀬がそれを知る事はなかった。

 美沙がその夢の為に動き出して2ヶ月程経たった頃、旅立ったのか母親の白ネコと共にその姿を見なくなっていたのだ。
(トモくんの夢は叶えたわよ。私がいなくなってもずっとデリバリーは続いて行くから安心して)
 その旅立ちから4ヶ月後、夢の実現にこぎ着けた美沙は柳瀬がいなくなった倉庫でそう呟いた。

   ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

「少しは休まないと身体が持ちませんよ。デリバリーは私1人でもできますから」と、7か月程前に美沙の専属秘書となった早川がスケジュール帳を見ながら気遣った。

「何を言ってるの、デリバリーだけは死んでも毎日続けます。これをやめたら生きている意味がなくなってしまうわ」そう言って美沙が笑うと、
「本当にネコ達を愛しているんですね! 会長よりネコ好きな人に私は会った事がありません」感心したように早川は言った。

 すると、急に美沙が真剣な面持ちになり、
「すべてトシちゃんのお陰よ。トシちゃんがいてくれるから私は頑張れるの。いつもありがとう」そう言いながら早川に頭を下げる。

「か、会長。頭を下げるなんて冗談でもやめてください。他の社員に見られたら変だと思われます」半分怒りながら早川が言い、「それに、会社ではトシちゃんも…」と言葉を濁す。

 それを聞いた美沙が
「はい、はい、わかりました。早川(・・)さん」わざとらしく名前を言うと今度は2人で顔を見合わせて笑った。

 やなせフーズに入社する以前、物書きを目指していた早川は作家として尊敬する美沙の側にいられる事が幸せで今の立場に満足していた。
 専属秘書として美沙の講演などに同行し、身の回りの事を手伝いながらどんなに忙しくても毎日のデリバリーを休む事はなかった。
 一方の美沙も、隆が家を出た事で心に開いてしまった大きな穴を陽気な早川が埋めてくれたお陰で今の自分があると感じ、多忙な日々を生きて行けるのはその早川がいつも側にいて手助けしてくれるからだと心から感謝していた。

 そんな2人はまるで親子のように息が合い、公私共にお互いを求めて上手くやっていた。

「こんばんは、美沙さ〜ん」
 早川はチャイムも鳴らさず、勝手に開けたドア越しに軽い挨拶をしただけでキッチンまで行き、料理をしながら背中を見せているその肩をそっと叩く。

「あー、ビックリさせないでよ!」驚いた美沙がそう言うと、
「あれ、声を掛けたのに聞こえませんでした?」早川はとぼけたフリをして笑い、「食事の支度なら、手伝いますよ」と、腕まくりをしながら気遣った。

「今日は手伝わなくて良いわ。久しぶりに早く仕事が終わったんだから休んでいて!」美沙は食器棚からグラスを取り出すと飲み物と共に手渡す。

 ダイニングチェアに腰掛けた早川は両腕を上げて伸びをしながら、
「…ようやく投票結果が出て、各賞の選定が終わりましたよ」と仕事の口調になって言った。

「お疲れ様。私が選んだポエムはどう?」美沙が鍋を覗きながら背中で訊くと、
「はい、優秀賞に選ばれました!」すぐに早川が答えた。

「トシちゃんはどのポエムに投票したの?」鍋の蓋を片手に振り返ると、
「私が投票したの、今回も美沙さんと同じでした」と早川は肩を竦めて笑った。

 それを見た美沙は嬉しそうな笑顔で、
「私達って、似た者同士なのかしらね」と首を傾げて見せた。


 毎日のデリバリーは仕事を終えた早川が迎えに来ることになっていたから、美沙はいつしか2人分の食事を作って待つようになっていた。
 仕事が早く終わった日はデリバリーの前に食べ、そうでない時は戻ってからという感じでほぼ毎日一緒だったが早川がずっと多忙だった為、2人での食事は2週間ぶりだった。

 その早川はやなせフーズが昨年から開催している『動物ポエムアワード』の審査員長を初回の美沙に代わって務めており、その受賞者の選定をようやく終えたところだったのだ。


 食事をしながら、
「トシちゃんが書き溜めたポエム、ずっと預かったままだったけど読ませてもらったの。すごく感動しちゃったわ」美沙が正直に感想を述べると、
「美沙さんに比べたら私のなんて…」すぐに早川が謙遜する。

 美沙は意味ありげな笑顔を浮かべながら顔を近づけ、
「あんなにイイものを私が独り占めしてはいけないと思ってね…、出版社の人に見せたの…」少し焦らすように言い、「そうしたら、本にしたいって言うのよ…。トシちゃんのポエム集よ、どうかしら?」と微笑んだ。

「え…、本当ですか!」
 早川は思わず大きな声を出した。

「嘘じゃないわ、あなたを説得してくれと頼まれたんだもの」美沙が嬉しそうな顔で言うと
「これって…、夢じゃないですよね?」早川は遠くを見るような目を輝かせた。

「ちゃんとした人に見てもらったから大丈夫! 新人デビュー、決まりね!」美沙は期待に満ちた目で早川を見つめ、「私が推薦すると帯に書かせもらってもイイ?」少し遠慮がちに言った。

「は、はい。もちろんです」早川は首を縦に何度も振りながら言い、「あぁ…、ずっと抱いていた夢がこんな風に突然、叶うなんて…」目に薄っすら涙を浮かべながら、「全て美沙さんのお陰です。何とお礼を言ったら良いのか…」と言葉を詰まらせた。

 それを聞いた美沙は早川の目をじっと見詰めて、
「誰のお陰でもないの、トシちゃんの実力が認められただけよ。自分の力で勝ち取った結果なのよ」真面目な顔で言い、「その証拠に、すでに大ファンが1人いるわ…」と顔を近づけた。

「ファンって?」早川が困惑した顔を見せると、
「あなたの…、すぐ目の前よ!」笑いながら早川の鼻先を人差し指でそっと突いた。


 3ヶ月後、ポエム集の出版記念イベントが大きな書店で行われ、早川は緊張の中、地元のニュースチャンネルから人生初の取材を受けていた。
 その後、店の一角に置かれたテーブルで本を購入してくれた人へのサイン会が始まると早川はその長い列に驚く。
 美沙が自分の講演でその良さについて話していたから早川のポエム集は出版前から待ち望まれ、イベントには大勢の人が集まっていたのだった。


 最後の1人にサインを終え、ようやく疲れた手を休められると思った時、
「私にもサインをお願いします」と本棚の影から1人の女性が現れた。

 サングラスを掛けたその人はストローハットを目深に被り、チェック柄のロングスカートスーツにハイヒールを履いていた。

 早川の前まで来たその女性が
「出版おめでとうございます。ここにサインをお願いします…」と持っていたポエム集を差し出した瞬間、早川は椅子を蹴とばすようにして立ち上がり、テーブル越しのその女性に抱きついた。

 そして、涙で声を震わせながら言う。
「美沙さん、来てくれたのね! しかもやなせフーズのあの授賞式の服で!」

「そう、私の再出発点になったあの受賞式で着た服よ。そしてこの場所がトシちゃんにとっての記念すべき出発点よ。この感動をずっと忘れないでね、本当におめでとう!」美沙はきつく抱きしめられながら早川の耳元でそう告げた。

 すると、目ざとく美沙を見つけたニュースチャンネルの記者が駆け寄り、
「作家の斎藤美沙さんですね! 次回の作品はいつ頃出版の予定ですか?」とマイクを差し出してきたが、
「今日の主役は私ではなく早川さんです。彼女をどうぞよろしくお願いします」美沙はそう言って丁寧に取材を断ると人混みの中に姿を消した。
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