第4話

文字数 6,245文字

 絵美さんが代わりにとってくれたホテルに帰り、ベッドの布団に頭まで潜っている。
何度も眠ろうとは思ったし、眠ろうと頑張ってはみた。が、ちっとも眠ることなんてできやしなかった。
ホテルの布団が家の布団と違うから、という単純な理由ではないことはもうわかっている。
 そっと掛け布団をめくって外を見ると、窓際で黙ってお酒を飲んでいる絵美さんが見えた。
いつもだったらお酒は体に悪い、と缶を取り上げるところだけど、今回は許すしかない。再び布団を掛けなおすと、左手のほうにあるドアからノックが聞こえた。
「林だが……、レイカは帰ったか」
 遠慮がちに、声の尻すぼみになっている。
「……どうぞ」
 返事する気力も残っておらず、投げやりな声が出てしまう。失礼な態度なのは重々承知だけど、林先輩なら大丈夫だろう。ややあって林先輩がドアから顔をのぞかせた。
いきり立ったスポーツ刈りが柔らかくなっているところを見るに、お風呂上りらしい。サングラスも真っ白く湯気で曇っている。
「よかった……無事に戻ってこられたんだな。オレも飯田も、ずっと心配していたんだぞ。まあ、飯田は寝ちまったんだがな」
「心配をおかけしてすみません」
「いや、全然いいんだ。レイカは偉い。オレらは怖がってあの場から動けなかったって言うのに」
 先輩が両手をブンブンと振って否定すると、その場に沈黙が流れた。
「ですけど、私、連れ戻せませんでした……。彼井さんが試合に出ると言って聞かなかったんです」
 でもそれは明らかに嘘だった、と言う事を後から付け加えると、林先輩は口を小さくOの形に開いた。
「彼井…が?そう言ったのか……」
 ゆっくりと先輩の口が閉じられ諦めの表情が顔全体に広がっていく。
「そうか、そうか……。じゃあ、どうしようもないな」
「あ、でも、明日の試合は見に行った方がいいと思います。私、やっぱり彼井さんが心配で」
 林先輩が仕方ないから帰ろう、とでも言いだしたらやりきれない。
しかし、実の事を言えば彼井さんへの心配よりも怒りが勝っていた。
理由は言うまでもなく、部外者と言われたこと。
確かに私はバレー部員ではない。でもカレー部員だ。それに部に誘ってくれたのは他の誰でもなく彼井さんなのに。揺るぎない事実を否定されて一番動揺していたのは結局、私だったのだ。
だから明日──試合中でもいい、私の持つ語彙を最大限に駆使して彼井さんを怒鳴ってやろうと思った。
「ああ、そんなことわかっている。試合には行こう。朝は早いぞ」
 林先輩は当たり前だろう、とでも言いたげに笑った。
そうしてからドアは閉められ、しばらく私はその場に立ち尽くしていた。明日、彼井さんに何を言ってやろうかと考えながら。


 次の日、空は怖く感じるほどに青かった。
夕焼けが綺麗だった日の翌日は晴れ、と言うのは本当だったんだと実感する。
日光が突き刺すようにしてアスファルトを照らし、いつにも増して熱気を放っている。
ただ立っているだけで汗が皮膚に浮き出てくるので、セーラー服が腕に張り付いて不快だ。さっさと夏服にしたい。
空が白む前に起き、絵美さんのミニバンを飛ばしてインターハイ会場に一番乗り!と言うのは甘い考えだったようで、すでに駐車場には大勢の人が集まっていた。
選手を乗せていた大型バスが駐車場にところ狭しと並び、一般の車も大量に止まっている。
ローカルテレビの取材班の姿から、地上波で見ない日はないテレビ局のロゴの腕章をはめた人たちまでもがそこらにたむろしていた。
「これじゃあ、中に入っても人がすごそうだな」
 林先輩がサングラスを鼻に抑えながらつぶやいた。顔に出る汗のせいで滑ってしまうらしい。
車から降りた絵美さんもあからさまに嫌な顔をし、「私は待ってる」と言ってすぐ引っ込んでしまった。
飯田先輩は相変わらずの無表情だ。昨日たくさん寝たからなのか、心なしかスッキリしているようにも見えたが。
 林先輩の思惑通り、会場内もうんざりするほど混雑していた。
なんとか空いている席を見つけ、並んで腰を下ろす。観客席はコートより一段落高くなっており、上から見下ろすことができる。
高いネットが向こう側の席の下まで続き、今からこの上をボールが飛んでいくのかと思うと鼓動が早くなるのが分かった。
 観客に対するアナウンスが鳴り響きしばらくしてから、飯田先輩がコートの端を指さした。
「あ、彼井だ」
 その途端私の前後がざわつきだした。振り返ってみると、その観客のほとんどが彼井さんに視線が注目している。彼井さんの名前は相当知れ渡っているらしい。
急いで私も下に身を乗り出すと、ユニフォーム姿の彼井さんの姿が見えた。
そう言えばユニフォーム姿の彼井さんを見るのは今日が初めてだ。近くに金本先輩や仲間も集まっている。
金本先輩はこちらをちらりと見ると、にやりと感じの悪い笑みを浮かべた。
「あいつ……」
歯を食いしばってなんとか怒りを押し戻した時、ホイッスルが会場全体に鳴った。
ネットを挟んで大声の挨拶が聞こえたかと思うと、一気に散り散りになってそれぞれの配置についた。
向こうに見える相手のチームは、この辺を知らない私にはどこの学校なのかわからない。彼井さんが最初にサーブを打つらしく、ボールを手にしてネットの先を見つめている。
そしてホールの床へ目線を下ろした。ボールに柔らかく手を添える。

が、彼井さんは動かない。微動だにしないのだ。

やがて会場が少しずつざわつき始めた。
彼井さんの後ろに控えていた金本先輩の顔にも焦りが浮かび始めている。
私も両隣の先輩たちに目配せしてみたが、二人とも全くわからないとばかりに肩をすくめるだけだった。一体彼井さんはこの期に及んで何を考えているのだろう。
今までも彼井さんの考えていることなどわかりやしなかったが、これほどまでではなかった。
怒鳴ろうとしていたはずなのに、言葉がのどの奥に引っ込んでしまう。緊張感を全身の肌で感じながら、ただ固唾を飲んで見ているしかない。
「お、おい彼井! どうしたんだよ!」
 しびれを切らした金本先輩が下を向いたままの彼井さんの顔を覗き込んだその瞬間──、彼は動いた。

「やってられるか────‼」

 と言う叫び声と共にバレーボールを勢いよく床に打ち付ける。
そのボールはバウンドして跳ね上がり、金本先輩の顔面にクリーンヒットした。尻もちをついた先輩の鼻から鼻血が吹き出し、床に真っ赤な血だまりを作る。
「何しやがる、彼井、てめえ……何のつもりだ……」
 ボールが軽い音をたてて転がり、会場には息苦しい空気が流れた。
林先輩も飯田先輩もあんぐり口を開けて動くことができない。いや、この場にいる人全てが先ほどの彼井さんと同じように動けなかった。
鼻を抑えながら立ち上がろうとする金本先輩。その態勢が及び腰になっていることをすぐに見抜いた。もう絶対に逃がしたりしない。
肺いっぱいに空気を吸い込むと、静寂を突き破って観客席から乗り上げて立ち上がった。
「何のつもりもないでしょう!」
 一斉に全ての視線が私の顔に注目するのが分かる。
教室で着信音が鳴った時とは比にならない。その視線の中には彼井さんのもあった。
「またお前……」
 金本先輩が小さくつぶやいたのが聞こえた。
「みなさん、この人!見えますか、この鼻血を出している人の事です。この人はインターハイに元から出場する予定の無かった人を無理やり出させ、その人の実力を利用して大学の推薦を得ようとしている、大・悪・人、なんですよー!」
 口を挟ませないように畳みかけると、あっという間に会場は騒然となった。
いきなり出てきた人がこんな事を言っても誰も信じてはいないかもしれない……とは思ったが、彼井さんのさっきの行動が証拠を裏付けてくれているはずだ。
あーあ、本当だったら彼井さんを怒鳴るつもりだったのに。
「や、やめ、やめろ! あの女ッ」
「レイカ、下がれ!」
 林先輩が私の肩をつかんで思い切り横に引っ張った。次の瞬間、バレーボールが弾丸のような勢いで観客席の方へ飛んできた。後ろの方で悲鳴が上がる。
「いいか涼‼ 私はもうお前の操り人形になどならない! お前とは今日限りでおさらばだ、では!」
 彼井さんが金本先輩に吐き捨てると、林先輩と飯田先輩も立ち上がった。
「彼井、よく言った!」「彼井~!」
 観客席は全体的には静かながらもざわついている。
そんな中人混みをかき分けて、私も林先輩も飯田先輩も観客席から直接コートにつながる階段を飛び降りるようにして下る。
彼井さんは吐き捨てたまま出口に向かって走っていく。私たちも振り返らず一心不乱に彼井さんの背中を追いかけた。
 どうしてか、気分爽快だ。
金本先輩の悪事を断罪したからでも、こう走ったことで顔に風を受けているからでもない、他の何かが私の胸の内を真っ白にしてくれている。
今までに味わったことのない感じたことすらもない清々しい感情が、全身を吹き抜けていった。
 そのままホールを出て、誰もいない道を勢いのまま走っていったら、小さな林に囲まれた広場に出た。
彼井さんはそこに走りこみ、芝生なのをいいことに体から滑り込んだ。
先輩たちも転んだり、つまづいたりしながら芝生に倒れこむ。私も芝生にすてんと膝をついてしまった。一番に滑り込んだ彼井さんがこちらを見てにやりと笑ったのをきっかけに、笑いが込み上げてきた。
普段は無表情な飯田先輩も小さな口から歯が見えている。
林先輩は笑いすぎて涙が出てきたのか、サングラスを外して目をこすっていた。
彼井さんは無邪気に、いかにも高校生らしく──年相応に、笑っていた。
そう言えば、私は彼井さんのこんな顔は見たことが無かったのだ。
常日頃から一人称は「私」と言い、そこら辺の高校生とはバレーの事を抜きにしても、何かが違っていた。その何かが、今やっとわかった気がした。
「レイカ、すまなかった」
 彼井さんが起き上がり、私の手を強く握り、頭を下げた。
「あの時の私はどうかしていた。やけくそになっていたんだ。そして諭してくれたレイカにもあんな態度をとってしまった……どうか、許してほしい」
「いえ……そんなこと。私も彼井さんに謝らなければならないことがあります。あの昼休み、ひどいことを言ってごめんなさい」
 私も頭を芝生に着きそうなぐらい下げると、飯田先輩がぽつりと言った。
「これで……おしまい」
 彼井さんがいなくなった会場は、私の学校のチームは、あの後どうなったのかはわからない。でも、私の中で今までの一連の大事件が幕を閉じたことがやっとわかってきた。
「さあ、帰りましょう。帰りの車ならもうありますし」
 先輩たちを追い立てて林を抜けると、駐車場に止まった赤いミニバンの窓から手を振る絵美さんが見えた。
にんまりとした表情をしているのはここからでも明らかで、それは私と彼井さんが並んでいるからなのは間違いない。
余計なお世話だ──満更でもないが。しかし、彼井さんは結局そんな私の気持ちなんて何一つ理解していやしなかった。
「君たち……私のためにそこまで……うれしいぞ! よし、帰りにはカレーをおごろう‼みんな好きなカレーでいいぞ! キーマカレーでもグリーンカレーでも、なんでもオッケーだ!」
 やっぱりカレー縛り……まあ、カレー部なんだから当たり前か。


 後日誰かの噂によると今年のバレー部は初戦敗退、ちょっとしたハプニングが選手間であったからだなんだと言うのが聞こえた。
あれを「ちょっとしたハプニング」の中にカテゴライズしていいのかどうかは怪しいが、誰かに動画を取られてシェアされていないだけまだましだと言えるだろう。
もちろんこれには表には伝わっていない裏の話がある。
当然彼井さんと金本先輩は呼び出しを食らったが、彼井さんは何を聞いても「あの場でレイカがさけんでいたことが全てだ」としか言わなかったらしい──林先輩から聞いたことだけど。
私が呼び出されなかったのはこの彼井さんの言葉のおかげだ。
それにありがたいことに今も金本先輩からはなんの復讐も受けていない。
呼び出しの場で金本先輩がきつくお灸をすえられたからだと言うことを信じたい……と思う。
自分の机から数学の教科書を出しながらそう願っていると、隣の席の男子がじろじろとこちらを見てきた。
「お前、やっぱりカレー臭いな」
相変わらず腹の立つやつだが、こんな時は無視を決め込むに限る。でも、嫌な言葉はどうしても耳に入ってくるものだったことを私は完全に忘れていた。
「あのねえ、あんた……」
今度こそ言い返してやろうとしたとき、後ろの席で雑談していた女の子グループが口を挟んだ。
「え~、カレーって言うよりかはスパイスの香りじゃない?」
「そうそう、ハーブとかね」
 それを聞いて腑に落ちたのか、隣の席の男子は首をかしげすぐさま「ほんとだ!」と目を輝かせた。別にこいつも特別悪気があって言ったわけじゃなかったのかもしれない。
「わ、なんだかエキゾチックな香りだ」
 いつもは教室の後ろ側でまとまって話している派手な集団もスマホをしまって近づいてきた。
いつの間にか私の周りはたくさんのクラスメイトでいっぱいになっていたのだ。
「あ……ありがとう」
 これも彼井さんのおかげなのだろうか。
「ありがとう、彼井さん」
 誰にも聞こえないように、私はそっと口の中でつぶやいた。


 ごたごたが収まってからしばらくして、彼井さんから招集がかかった。
てっきり林先輩や飯田先輩も来るものと思っていたので、待ち合わせ先のレストランに彼井さんしかいないのが見えた時はびっくりしてしまった。
「レイカ、こっちだ! 席はとってある」
 テーブル席で手を振る彼井さんの反対側にそそくさと座り、わざと機嫌の悪いふりをする。
「あんなに大きく手を振らないでください。周りの人が見ていて恥ずかしいでしょう」
「いやあ、すまない。カレーフェアに私としたことがテンションが上がってしまってね」
 窓際に置かれたメニューの一つに、『世界のカレーが大集合フェア』と書かれている。相変わらず彼井さんの頭の中にはカレーしか詰まっていないらしい。
特別おいしくもないお冷を飲もうとした時だった。彼井さんは擬音が目に見えそうなほどにこにこしながら、手を組んでテーブルの上に置いて──。
「レイカ、最初の方はむすっとしてばかりだったからな。笑った方がいい」
 お冷を吹き出すかと思った。
一瞬他の誰かに言ったのかと思ったが、最初自分の名前を呼んでいた事に気が付き、カッと耳まで熱くなるのが分かる。
「そういうのは彼女とかに言ってください。勘違いされますよ」
「おや? レイカは私の事が好きなのではなかったのか?」
「ちょっと、それどこ情報ですか」
 あわてて聞き返すとキョトンとした顔で彼井さんは「涼」と答えた。
「呼び出しを食らってから教室を出る時に涼が言ったんだ。あのレイカとか言う女、お前のことが好きらしいぞ、ってね」
 金本! 復讐してこないと思ったらこういう事だったのか! 最後まで腹の立つ……。
でも、もう言われてしまったことは取り消せない。焦りと緊張が頂点に達し、逆に落ち着いてきた。
「しかし申し訳ないが私にはカレーと言う相棒がいるんだ! カレーを放っておいてレイカと付き合うことはできない!」
 思い切り眉毛を下げて、わざとらしいくらいに悲しそうな顔をする彼井さん。その顔がほんの少し赤いことを私は見抜いた。
カレーだカレーだなんて言っていても、やっぱり彼井さんも男子高校生なのだ。

おわり
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