第3話

文字数 12,577文字

 結局家に着いたのは八時過ぎだった。
周りの家とは違って私の家だけは夜になっても明かりをともさず、シャッターも年中降りているためひっそりと眠っているように見える。
郵便受けから配達物を取る気にもならず、不用心にも空いている玄関の戸をわざと乱暴に開いた。この時間帯だときっと絵美さんはお酒を二缶ほど飲み、気持ちよくよだれを枕に垂らして寝ているころだろう。
そうなら夕食は私の分だけしか作らなくていいし、気が楽だと息を深く吐きながら暗いままの廊下に足を踏み入れ──、
「レイカちゃん、遅かったじゃん! いつも五時には帰ってくるのに……」
 階段の方からドタバタと足音が聞こえるやいなや、相変わらずだらしない恰好をした絵美さんが現れた。まさに、不意打ち。
「遅くなるなら電話くらいちょうだいよ。最近物騒でしょ? レイカちゃんみたいな女の子が夜にふらふらと……あれ、なんで泣いてるの?」
 私はこんなだらしない大人に説教される筋合いはないし、泣いてもいない。
ただ下を向いていただけだ。教科書とぺらぺらなルーズリーフしか入っていないカバンが、鉛でもないっているかのように異様に重く感じられた。
「カバンなら私が持つからさ。とりあえず、何か食べよう? そんな暗い顔しちゃって……おなかに何か入れりゃあ元気も出てくるって」
 絵美さんはカバンを無理やりひったくると、私の背中をぐいぐいと押してリビングへと連れて行った。はたから見たら、今の私はそんなに暗く見えるのか。
ふとリビングの窓を見ると家の前を流れるどぶのようによどんだ目をした自分が映り、なぜか怖くなって視線をそらした。
「はい、ご飯」
 しばらくして絵美さんがテーブルの上に置いたのは、カップのふちにびっくりマークが並んだカップ麺だった。
「ご飯って言っているのに、カップ麺じゃないですか……」
「私はレイカちゃんみたいに料理はできないの!」
 駄々をこねる子供のように両手をぶんぶんやる絵美さんを軽く流して、すでにお湯の入ったふたをじっと見つめた。
テープで止められていない左右のふたの端から湯気が静かに漏れて、天井に向かって上っていく。私と向かい合って座っている彼女はいつの間にやら自分の分も出してきて、勝手に麺をすすり始めていた。
「食べないの? 麺、伸びちゃうよ?」
 麺をゆっくりと噛みながら絵美さんが私を一瞥した。油と醤油の香りがいくら鼻先を刺激しても、箸を取る気になれない。
腹の底を大きく重い何かが占領していて、ラーメンなんかが入る余裕なんてどこにも無かった。
頭の中で二、三回同じことを咀嚼してから、私はカップ麺をそのままに口を開いた。
「……絵美さん、一つ聞いていいですか」
 彼女はぱっと満面の笑みを浮かべると、箸をテーブルに置いてイスに座りなおした。
「いいよ、なんでも聞きな」
「……絵美さんって、友達ってどうやって作ったんですか」
 意を決してした質問に、絵美さんは鳩が豆鉄砲を食ったような顔をした。
要は間抜けな表情ってことだ。彼女は口元を壊れかけの人形のように引きつらせると、ゆっくり腕組みをした。
「ええ~……。友達? もしかして、この前私が言ったこと気にしている感じ?」
「別にそんなんじゃないです」
「それならいいんだけど。でもいきなりそんな事言われても困っちゃうな。私、小学生のころからずっと周りの事なんか気にせず絵を描いていたし、そのまま大人になっちゃったみたいな人間だし」
 やっぱり、聞いた相手が間違っていたみたいだ。
でも、聞く相手が彼女しかいなかったのもこれまた認めざるを得ない事実。
こわばっていた肩の力がおかしいくらいに抜けて、やっとラーメンを食べる気になってきた。
ふたをめくって手を付けようとすると、それを止めるかのように絵美さんがしみじみと口を挟んだ。
「でもね~、友達はいないよりいた方がいいかもしれないけど、無理して作る事ないと思うよ。私の勝手な自論だけど。大して好きでもないやつと付き合っていることほど面倒なことってないからさ」
 昔を思い出すかのように絵美さんは言った。その視線は、部屋を黄色く照らす照明に向いている。
「……そうだったんですか」
「うん。高校一年生の時、美術部に入ってね、やたらと私にくっついてくる子がいてさ。悪い気はしなかったけど、合わせて遊んでいくうちにだんだんしんどくなってきて。それで大学入学の時にバイバイね」
 ふうん……と、くちびるの隙間から息が漏れた。絵美さんは続けて言う。
「まあ、やたらとくっついてくるやつが特別嫌でないんなら、そのまま友達にしちゃえばいい。逆に黙って待ってみるのはどう? 意外と気の合う人が向こうから来るかもしれないじゃん」
 白磁の歯を口元からのぞかせて、絵美さんは笑った。
するとぱっと手を広げ、ダイニングテーブルに音を立てて乗せた。
「あっ、そうだ。『カレー部』はどうなったの? カレー作ってる? もしかして──、今の質問ってその部長さんと何かあったから聞いたの?」
 イヤに鋭い。うっかり頭をもたげそうになるのをこらえて、すかさずラーメンをひとすすりした。
「そんな感じです」
「へえ、その部長のことを好きになっちゃったとか?」
「だから友達について聞いていたじゃないですか!」
 実際私と彼井さんの関係は友達でもなんでもなくって、ただの先輩と後輩または部長と部員と言う単純な関係にすぎない。ましてやそれ以上の関係を持てるはずがない。
彼井さんが私の事を友達だと思っているわけがなかった。
だからと言って、今から『友達』と呼ばれる関係になったところで私に特別な恩益があるわけでもない。
こうやって人との関わりを損得で考えてしまう自分が、本当は一番嫌いだった。
「あっそう……つまんないの。でも、いつものレイカちゃんに戻ってきたじゃん! 元気になってきて良かった良かった」
 絵美さんはラーメンの残った具を口いっぱいにかきこむと、席を立ってさっさと二階に姿を消した。
私は良くても、彼井さんをどうにかしないといけない。少なくとも一週間前までには感じることのなかった、名義しがたい感情が心臓のどこかで燃えていた。
ほとんど食べていないラーメンがのびきっていたのは言うまでもない。


 いつ彼井さんに呼び出されてもいいように、土日は比較的おしゃれな服をアイロンにかけておいたのに結局メールも電話もくることは無かった。
前まではめんどうくさがっていたのに、肩透かしを食らったようで自分が哀れに感じる。予定ががら空きの休日は暇なもので、彼井さんへの何もできない罪悪感が頭の中をずっと暗くしていた。
よく考えれば私は彼井さんの住所も家族構成も知らないのだから、当然の事ではあるけれど。


──事が動いたのは、週明けの月曜日だった。

 月曜と言う事もあって、登校したての朝の教室は陰鬱な空気が漂っている。
隣の席で黙々とスマホをいじる男子生徒を横目に、茶色い革張りのカバンを机の上に置いた。
ペンケースを取り出したところで、スカートのポケットに入っていたスマホが突然鳴りだした。
着信音が意外と大きく、教室のまばらな視線が一瞬に私に集まる。
デフォルトの無機質かつおどけ調子の音楽を鳴らし続ける電話を取り出し、あわてて出てみると、声の主は林先輩だった。
「朝から電話してすまない。レイカ、今大丈夫か?」
 いつも穏やかで余裕のある林先輩が、これほどにも切羽詰まった声を出すのを初めて聞いた。
「教室についたところですけど……」
「それならいいんだが……。レイカ、落ち着いて聞けよ、大変なことになった。彼井が涼たちに連れていかれた」
「えっ」
 スマホを落としそうになり、左手を急いで添える。
「どこにですか⁉ 今日のいつ頃に──」
「詳しいことはこれから説明する。始業時間までまだ時間があるな?渡り廊下に来てくれ。
オレと飯田もすぐにそこに行く」
 私の返答も聞かずに電話は切られ、頭の中はあっという間に白く塗りつぶされてしまった。
スマホを再びポケットに滑り込ませ、はやる鼓動を抑えながら渡り廊下へと走った。


 自動販売機が立ち並ぶ渡り廊下に先輩二人の姿を認めた時、私の心臓はやっと落ち着きを取り戻した。林先輩の額にはうっすらと汗がにじみ、飯田先輩の顔に薄紫がかかっているのを見ると、やはり二人も動揺しているんだと思う。
「遅くなってすみません」
「大丈夫……今来たところ」
 飯田先輩のデートに待ち合わせた女子のような返答を聞くと、気が抜けそうになってしまう。
林先輩は銀色の腕時計を見てから、私たちに向き直った。
「オレはうちのバレー部の日取りを間違えていたんだ……」
 ぼそりとした乾いた声が、足元に重く落ちたようだった。
「オレは、スマホで県のインターハイの日程を調べておいたんだ。万が一彼井が考えを変えて涼たちについていくことがあったら、彼井を追って引き止めるためにな。でも、本当は大会の一日前から泊りがけでインターハイに挑む予定だったらしい。完全に、知らなかった……」
 インターハイは県のホームページで見たように明日。
でも、会場が遠いため今日のうちにバレー部一同はどこかの合宿所に移動しなければならない。
つまり彼井さんはすでにバスか電車の中。
 私たちの交友関係が薄いがために防げなかった問題。
バレー部の知り合いが一人でもいて聞くことができたら、こんなことにはならなかったのだろうか。それとも、友達や知り合いに関わらずバレー部員を探し出して日程を吐かせれば良かったのか?
──そんな事今さら考えたって後の祭り以外の何物でもない。
「どうするんですか」
 一応聞いてみたけれど、私の頭の中には追いかけると言う答えしかなかった。
それは先輩たちも同じようで、飯田先輩が静かにつぶやいた。
「……行こう」
「学校、さぼるのか。まあ、良い。行くしかないんだ」
 少々芝居がかかった感じで林先輩はこめかみに手をあてた。
学校をエスケープすることをためらうその動きは、見た目とは裏腹に彼がカレー部の誰よりも真面目であることを証明している。
「ぐずぐずしている暇はありません。早く彼井さんを助けましょう、林副部長」
 こめかみに置かれた林先輩の手を下ろし、ぐっと力強く握ってみる。
先輩は一刹那驚いたように口を少し開き、すぐさま自信ありげに口元をきつく結びなおした。


 「この時間帯はまだ駅に他の生徒がいる。電車は使えそうにないな」
  教室に置きっぱなしだったカバンを持って学校の外に飛び出し、閑静な住宅街の路地に身を潜めた。林先輩が道に向かって顔を突き出し、周囲の様子をうかがった。
確かに制服を着た人たちが横一列に並び道をふさぎながら、やかましく歩いている。
朝からうるさいな、口じゃなくてさっさと足を動かせばいいのに。
「──そもそも彼井さんが行く合宿所ってどこなんですか?」
 そういえば聞いていなかった、と林先輩にたずねたけれど、先輩は「うぐっ」と変な声をのどから出したきり押し黙ってしまった。嫌な予感がする。
「もしかして……知らないんですか?」
 図星だったようで、林先輩は目線をそっと飯田先輩の方に移した。
飯田先輩も何も知らないとばかりに素知らぬふりをし、私たちがまったく話さないのを確認してから、ため息を吐いた。
「林、今回のインターハイが行われる会場はどこにあったか」
 淡々とした音声案内のように無感情な声で、飯田先輩は小首をかしげた。すぐさま林先輩がスマホを出して検索する。
「それなら県のホームページに載っていたが……」
「その近くの合宿所を調べてみて。いくつかあるはず」
 飯田先輩に言われるがまま、スマホのブラウザからマップを開いてインターハイの会場を目的地に設定し、周辺の合宿所を調べてみる。
まったく無いよりはましかもしれないけれど、かなりの数がヒットし、画面を見るだけでも嫌気がさしてきた。
「合宿所ってこんなにあるのか……⁉ この量を半日で見まわるとなると、けっこうきつくないか。交通費もかかるし交通手段も──」
 林先輩がスマホを覗き込んで弱音をたらたら言うのを、無意識に私の声がさえぎった。
「交通手段なら、いちおう心当たりがあります」


 言うが早いかすぐに絵美さんに連絡を取り、部長のいないカレー部一同は私の家へと向かった。絵美さんは狭いガレージから赤いミニバンを出しているところで、私たちの姿を見つけると車の中から大きく手を振った。
いつもならダメな大人日本代表と言われてもおかしくないのに、不思議と今日は頼もしく見える。
「早かったじゃん。へ~、この子たちがうわさのカレー部ねえ。また面白いメンツだわ、とりあえず乗りなよ。詳しい事は車の中で聞くからさ」
 開いた車窓から身を乗り出して、先輩たちを一瞥すると絵美さんはくいっと後部座席を指さした。
「ありがとうございます」
「……ありがとう、ございます」
 林先輩たちの声が聞こえて、私は助手席に乗り込んだ。
後ろに先輩たちが座ったのを確認すると、ミニバンは軽やかなエンジン音をたてて動き出した。
何かが足元にあたるなと思い下を見ると、運転席と助手席の間にすっぽりと大きなバッグが陣取っている。車体が揺れるたびに、中に入ったデッサンの教則本ややたらに大きなペンケースがこぼれそうになっていた。
──本当だったら、絵美さんは大学に行くはずだったんだ。
「……絵美さん、大学を休んでまで私たちのわがままを聞いてくれてありがとうございます」
 後ろの先輩たちに聞こえないように赤信号の間際に感謝を述べると、彼女は見慣れた笑顔で私の肩をたたいた。結構痛い。
「あ、林先輩。まずはどこから当たる気ですか」
 車の中で全員が黙ると、悪いことは何もしていないのにとたんに気まずくなる。
絵美さんにたたかれた感触の残る肩をなでながら、後部座席を振り返った。
「あらかた検討はついている。最初はS市文化会館ホールだ」
 声を出したのは林先輩なのに、なぜかスマホを見ているのは飯田先輩だった。
「車の中で画面を見るとすぐに酔うんだ。レイカのお姉さん、ナビって使えますか」
「もち、オッケーよ」
 二つ返事で絵美さんはナビを起動させた。と言うか、私と絵美さんは姉妹じゃない。
こんなだらしのない姉なんか、百万つまれたっていらない。隣でにやにやしている絵美さんが癪に障る。私が否定すると、先輩たちはあからさまに驚いた顔をした。失礼にもほどがある。
「だって、そっくりだから。順応が早いとこ」
 飯田先輩が目を見開いたままあっけらかんと言った。
「絵美さんはただの居候ですよ。大学を留年しまくっていたんですけど今年で晴れて進級して、この町のキャンパスに移ったんです。それが私の親の転勤の場所とかぶったので、一緒に引っ越しただけの事です」
「言い方が悪いなあ。下宿と言ってよ、家賃払っているんだからさ。レイカちゃんにいつもご飯作ってもらっているんだけど、すごくおいしいんだよ。レイカちゃんちってば、二つの意味で良物件」
 くだらない戯言を言いながら、絵美さんはハンドルをきった。
基本的に私の親は稼ぐことしか考えていない気がする。
うちの下宿は家を空けることが多いからと始めた副業だし、家を空けている時だって両親は毎秒毎秒どこかでお金を他人からむしり取っているのだ。
 一番最近で親との思い出をあげるなら、転勤と絵美さんのキャンパス移動が重なったおかげで「空き部屋を出さず、家賃をこれからもとれる」と言った時の汚い笑顔くらいなものだ。
「よーし、高速に乗るからね! 久しぶりだな~」
 絵美さんがはしゃいで、ぐんぐんと車の速度を上げていく。
法定速度はちゃんと守っているけれど、車窓からの景色が目まぐるしく変わるので思ったよりも速く感じた。
「う、ぐ……」
 後ろから変なうめき声が聞こえると思って振り返ると、飯田先輩に背中をさすってもらう林先輩がいた。脂汗を垂らして、肩で呼吸をしている。
「レイカ、林が酔っちゃった」
「大丈夫ですか、先輩……ミントキャンディーならありますけど、食べますか」
「あ、ああ、ありがとう。ありがたく受け取っておく」
 林先輩がおもむろに出した右手にキャンディーを置くと、やおら絵美さんが笑い出した。
「なんだか青春って感じで、いいね。うらやましいな」
 先輩がひどく酔っている時に言うのはいかがなものかと思ったが、口に出すのはやめておいた。
「こんなカレーの香りにまみれた部活が青春なんて、ずいぶん変わった感覚をしているんですね」
「……前言ったでしょ、レイカちゃん。今しかできないんだからね、こんな楽しい体験は。ねっ」
 絵美さんは最後に下手なウインクをしながら、アクセルを踏んだ。気づくと、ナビに「出口」の言葉が映し出されていた。思ったより近かったらしい。
「下に降りてから結構行くらしい。ちょっと山道に入るみたい」
 うめく林先輩を膝枕しながら、飯田先輩が静かに答えた。


やがて車はうっそうとした森林に突っ込み、しばらくして目的地らしき建物が見えてきた。
砂利の駐車場に大型バスが何台か止まっている。
ミニバンを降りてすぐさまホール内を覗いてみたが、選手たちが着ているユニフォームがうちの学校のものではなかった。
止まっているバスを確認しても「県立北里高校バレー部」と知らない名前が書かれており、彼井さんがいないことは明らかだった。
「どうだったか……」
 森のどこかで吐いてきたのか、口元をティッシュで拭きながら林先輩がたずねた。
 黙って私が首を横に振ると、「そうか」と返事をして先輩はまたえずいた。
「体、平気ですか? そんなに吐いて……」
「吐いているんじゃない、戻しているだけだ」
「それを吐いているって言うんですよ!」
 林先輩を車に連れて戻り、また別の合宿所を目的地に設定して出発した。
窓を開け外の空気を取り込むと、少し楽になったのか林先輩は間もなく静かな寝息を立て始めた。一つ一つ、彼井さんがいないか確認しながら場所を探っていく。
止まっているバス、動く生徒たちの服装、その他もろもろ手掛かりを探りつつ地点をめぐっていると、あっという間に太陽が西の空へ沈み始めていた。
 私が住んでいる市から遠く離れた町のサービスエリアに車をとめて、ベンチ前にたむろする。
サービスエリアの駐車場は平日と言う事もあって、長距離トラックとなんらかのバスしか止まっていなかった。
「南里トンネルの渋滞にさえはまらなければ良かったんですけど……。トラックの事故となれば仕方ないですよね」
 誰に言うでもなくつぶやくと、飯田先輩が自動販売機で買ったコーヒーを一口すすり「いけない、夕方になれば部員は……」と独りごちた。
「わかってますよ」
 意識せずに、口をついて声が出る。
「ホールからみんな引き上げてしまったら、私たちはとうとう合宿所に入れなくなってしまいます」
 当然の事実をつらつらと述べて、どうしようもないと受け入れるしか私たちの目の前に選択肢は残っていない。
朱色に染まった西の空が赤いミニバンを照らすと、残酷なほどに赤黒い影が足元にはこぼれ落ちる。それはガードレールの外に広がる山々も同じで、火事でもないのにその輪郭が炎を纏ったように見えた。林先輩は後部座席で首を上下させて船をこいでいた。
運転席に座る絵美さんは、ぼんやりとしながら下を見つめている。よく見たら寝ているようだった。
空になったコーヒー缶をゴミ箱に投げ捨て、空きっぱなしになった運転席の窓から手を入れて、絵美さんの肩をつついた。
「ふが……あれ、もう行くの?」
 目をこすりながら絵美さんは顔をあげた。
寝ていたところを起こされたというのに、彼女の声にはいやに張りがあり、それでいて不機嫌ではない。そんな絵美さんを見ているとこっちがなぜか申し訳なくなり、「ごめんなさい、振り回して」と小さく謝らずにはいられなかった。
「いいって、いいってば」
 絵美さんはそう言って笑い飛ばすと、再び私たちを乗せて車を発進させた。


 最後の目的地である「西里町運動文化ホール」に着いたとき、東の空には薄く星が見えていた。
体育館と合宿所が併合されたこの施設は一番最初に行った施設よりも山の奥にあり、スマホの光無しでは足元さえも見えない。
こんな遅くに敷地に入ってくるのも怪しいだろうと思い、絵美さんに断ってから足を忍ばせて先輩たちと施設の入り口をうかがってみた。
自動ドア越しに見えるエントランスはもう電気が消されており、スリッパで上がる段差の部分にある「本日は閉館しました」と書かれた立札がなんとか読めるくらいの非常灯が、寂しく蛾を寄せ集めている。
「ねえレイカ、あれ見て」
 飯田先輩がいつにもましてひそやかな声をだして、エントランスの奥──暗い廊下を歩く集団の人影を指さした。じりじりとやかましい山の虫の鳴き声に交じって、疲れ気味のだるそうな声が聞こえてくる。
その時一瞬、耳が聞き慣れたあの声をとらえた。
あの日私をカレー部に誘い、あの日私とカレーを作り、あの日私にカレーパンを手渡した──……。
「彼井さん!」
「レイカ、静かに!」
 林先輩が口に人差し指を当てて短く言ったが、もう私は止まれなかった。あんなにも探した彼井さんがそこにいる。
エントランス奥の廊下は施設の右側を突っ切って、隣の合宿所の入り口までつながっている。
要は渡り廊下のようになっていると言う事だ。急いで渡り廊下へ走り、集団が来る前に近くの生け垣に身を隠した。
渡り廊下の部分は屋外になっているので、ささやかな月の光のおかげでバレー部集団の最後尾を歩く彼井さんの姿を簡単に確認できた。
彼井さんは楽しいとも悲しいともつかない無表情を浮かべており、いつも私たちに向けている笑顔を思い出した瞬間、心の奥で何かが割れる音がした。
「おいレイカ、まさか合宿所に入る気じゃないだろうな⁉」
 バレー部集団が合宿所に吸い込まれた後、林先輩が私の後を追って肩をたたいた。
「入りますよ、私は。誰が何と言おうと」
 先輩の目を見てはっきりと言って見せたが、それでも先輩たちは納得がいかない様子だった。
「そもそもどうやって中に入る気なんだ⁉ この前の事でお前は涼に顔を覚えられている。中で見つかったらただじゃすまされないぞ?それに部外者は入れない。施設の職員に見られたらどうするんだ」
「遅れてきたマネージャーだってごまかします」
 売り言葉に買い言葉、と言うようにしばし問答してから林先輩を見ると、彼が恐ろしく息が上がっていることに気が付いた。後ろに控える飯田先輩の顔が青白くなっているのも夜の闇のせいだけではないはず。
「先輩たちだって彼井さんを連れ戻したいですよね? 先輩たちがそう怖がっているのなら私が行きます。待っていてください!」
 振り切るようにして走り出した私に、もう先輩たちはなにも言わなかった。
私が彼井さんを助けないで誰が助けるのよ。彼井さんは無理やり連れ去られたんだ、助けるのは私だ!
 と、意気込んで勇みつつ合宿所に忍び込んだが、彼井さんがこの施設のどこにいるのかは全くわからない。侵入することは簡単だったが、問題はこれからだ。
オレンジ色の今にも消えそうな電灯がともる廊下を静かに進み、曲がり角では頭を出して左右を確認してから足を前に出した。
運動文化ホールの方はわりと新しく綺麗だったが、こちらは年季の入った建物らしくところどころ壁紙が剥がれ、天井の隅にはクモの巣が張っている。
 廊下の途中にあったドアから突然大きな笑い声が響いてきた。どうやら食堂らしく、かすかにいい匂いが漂ってくる。
中の部員たちにばれないぎりぎりの距離でドアに近づいて覗いてみたけれど、彼井さんの姿は見当たらなかった。
どうやら食事はとっていないらしい。
 仕方なしに廊下を引き返して、今度は部員たちが泊まる個室を調べてみることにした。人の泊まる部屋を覗くのはお世辞にもマナーがいいとは言えないが、今日ばかりはしょうがない。
一足一足に気をつけて、廊下の中ほどまで来た時だった。
「お前、この前のやつだろ」
ほこりの降るようなよどんだ空気を破って聞こえたそれは、私を驚かせるのには十分だった。
声を発したのが誰なのか、もうわかっている──金本先輩だ。
「彼井を引っ張りに来たんだろ?わかってる」
 動揺しているのを悟られないように、ゆっくりと金本先輩の方へと体を向けた。
ここで少しでも焦ったり怖がったら負ける!と、私の本能が警報を鳴らしている。
先輩はお風呂にでも入りに行くのか、肩に真っ白いタオルをかけていた。
「彼井さんは嫌がっているんです。いい加減やる気のない彼井さんにすがっていないで、先輩のチームをまとめる力で勝負したらどうなんですか。あなたいちおう副部長なんでしょう」
 少し間を置いて金本先輩はチッと舌打ちをすると、自身の頭を爪を立てて抱え、いきなり下を向いた。
かと思えば、のどから酷く低い唸り声が聞こえ、次の瞬間先輩は血走り大きく開かれた眼の視線を私の顔に刺してきた。
「あー、うっざいな。てめえ……。口を開けば彼井彼井彼井!そんなにあいつのことが好きなのかよ⁉」
 凄まじい剣幕でまくし立てるその言葉に、私の耳から顔までが一気に赤くなったのが鏡を見ずとも分かった。
赤くなる理由までもが自分で分かってしまう事が、異様に悔しい。黙れごみやろう、とでも罵れたらどれだけ楽だったろう。
「それは関係ありません。私が取っている行動は、カレー部の正義感と私自身の良心に基づいてです」
「よく言うよ、そんな上っ面の……。彼井をここから連れ出したところでお前らには何の得もないだろ」
 対峙したまま金本先輩は吐き捨てた。
「上っ面だなんて失礼にもほどがありますよ。自分の利益ばかり考えているあなたに、私たちの何が分かるって言うんですか」
 私の声は意外とはっきりと聞こえ、狭い廊下の壁にこだました。
刹那、先輩は興醒めしたような顔になり、空々しく肩をすくめた。
「わかんねえよ、お前らの気持ちが。他人ごときにそこまで」
「……冷たいんですね。私はあなたが何をしようとも、彼井さんの出場を止めて見せますからね。嫌がっている人を強制的に参加させる権限なんて、最初から誰も持っていないんですから。先輩はせいぜい頑張って、自分の力で『推薦』を勝ち取ってくださいね」
 念押ししたつもりで語尾を強めると、先輩の顔も見ずきびすを返した。金本先輩の声は後から何も聞こえない。
少し静まった食堂を素通りして再び玄関のあたりに来た時、今になって足元が震えてきた。
そう言えば、あの日金本先輩に割って入りもめた時も後から足が震えだしていた。
足元がおぼつかなくなり、壁に手を付けて少しずつ歩く。
息も変に上がってきた。マラソン大会で外周した時よりもずっと不快で嫌な感じた。
戻ってくる前に、先輩の顔でも見ておけばよかったのだ、そうすれば表情によっては安心できたかもしれないのに。
「あ」
 頭ばかり働かせていたせいか、完全に目の前がお留守だった。
声が出た時にはもう遅く、廊下に積まれていた大きなスポーツバッグに足を引っかけ、前のめりになる。
前にふらついたときは彼井さんが手を貸してくれたなあ、とふいに思い出した時、スポーツバッグの左側にあったドアから手が出て、勢いよく私の手を引っ張った。
流れるように部屋の中に引きこまれ、まさか金本先輩の仲間──と遅く心配になったが、その必要は無かった。
「静かにな、私は疲れてしまって先に寝かせてもらっていたんだ。今はお風呂に行く人たちが多いから、少し待っておいた方がいい」
「彼井さん……」
 ずっと探していた彼井さんの姿がそこにはあった。彼井さんはドアをすぐに閉めると、私を座らせた。部屋には明かりがともっていなかったけれど、淡く差し込む月光で彼井さんの顔は見て取れる。
いつもはへらへらしている彼井さんでも、もとより顔は整っているので、真面目な顔をされるとこっちがどぎまぎしてしまう。
「そ、そうなんですか……」
 まともに目も合わせられない中、返事をする。
この分なら向こうも私の顔なんて大して見えないだろう。夜で本当によかった。ここで彼井さんを連れ戻せば全て私たちの勝ちだ。今度はしっかりと視線をあわせて、
「帰りましょう。林先輩も飯田先輩も、外で待っていますから、帰りましょう!」
 と言ったが──、彼井さんの返答はこうだった。

「いや……私は、帰らない」

「なんで、なんでですか。バレーはもう」
 合わせたはずの視線は向こうから外され、畳の目に落ちていた。
「レイカの言いたいことはわかる。でも、もういいんだ。ここまで連れてこられてしまったら、引き返すことなんてできない。それに私を必要としてくれているんだ、そう思ったら割かし嫌な気はしないだろ」
 幼い子をたしなめるかのような声色だった。でも彼井さんが本心から思っている事ではないのは明白で、それが浮き彫りになるにつれて私は怒りが込み上げてきた。
「それ、嘘でしょう」
 彼井さんは顔をあげない。
「金本先輩と言い合っていた時、彼が彼井さんを利用している事はもう明らかにわかっていたんでしょう? 自分がいいように扱われていることがつらくて、それを見ないふりして適当な言い訳をかぶせているだけ。そんなのみっともないと思わないんですか」
 自分が彼井さんに言ったことはこの際棚に上げた。
ほんの少し開いていた窓から柔らかな風が吹き込み、質素なカーテンを膨らませる。それは私と彼井さんの間をしばらく翻弄する壁になっていた。
「もう一度、言います。今ならまだ大丈夫です。私と戻りましょう」
「本当に、もういいんだ!」
 彼井さんの声が部屋の空気を揺るがせた。
「私のためにそこまで心配してくれるのはうれしいことだ。でも、試合に出ると言う事はこの私自身が決めることなんだ。そもそも君は部活には入っていないんだろ。部外者は口を挟まないでほしい」
 声を整えながら彼井さんは今度こそ、私の目を見た。
怒っているような泣きそうな、とにかく真剣かつ何かに追われているような表情だった。
「そうですか」
 彼井さんの顔を見つめたまま、脱力した答えが漏れ出た。
頭の中で彼井さんが放った言葉が頭痛のように響いている。悪い夢みたいだ。
「私は無理に止めたりはしません。彼井さんが、それでいいなら」
 のど元まで出かかっているたくさんの言いたいことをなんとか胃まで押し下げ、冷静を装ってみせた。しかし、胃まで下がったはずのものは意図せず勢いをつけて口を素通りし私の眼球の裏まで急上昇。
表に染み出したが最後、堰を切って流れ出した。どうか、私の顔を見ていませんように。
頭の片隅で自分が意外と泣き虫であったことを笑いながら、立ち上がって部屋を出ようとする。
「レイカ、待ってくれ。外はもう真っ暗だぞ、出るのは──」
「結構です」
 彼井さんはきっと私が泣き出したことに気づいてしまったんだろう。少し上ずった声を後にし、足早にホールから飛び出した。外気はこの時期にしては冷たくなっている。
涙を押し戻すように空を見ると、丸い月を中心にして散り散りになった雲が周りを囲んでいる。
いつだか絵美さんが夜食代わりに自分で作っていた目玉焼きみたいだな、とふいに思ってしまった。
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