第1話

文字数 5,712文字

 「やってられるか────‼」
彼井さんことカレー部の部長がぶん投げたバレーボールは、床をバウンドしてものの見事に副部長の顔面にクリーンヒットした。
「何しやがる、彼井、てめえ……」
 尻もちをついて顔を押さえる副部長の鼻からは、真っ赤な鮮血がだらだらと流れ出して、体育館の磨かれた床にいくつかの小さな血だまりを作った。
彼井さんはカレー部の部長であっても、バレー部の部長でもある。黄と青のボールが軽い音をたてて床に転がったとき、私──宮川麗香は観客席から立ち上がって、大きく息を吸い込んだ。


 明日は小テストがあるというのにうっかりと世界史の教科書を忘れてしまった。
五月半ばとは思えないくらい蒸し暑い学校の廊下を、だるい両手両足をフル稼働させてダッシュする。どこぞの風紀委員会が書いた「廊下は走ってはいけません」のポスターなんか、知ったこっちゃない。
 だいぶ息が上がってきたところでやっとこさ一年A組の教室についた。ぼろい教室の引き戸を開けようとして、はたと手が止まる。
変なにおいが扉の向こうから漂ってきている!
分かりやすく言うと、そこらへんで取った雑草を適当な調味料で真っ黒こげになるまで炒めた感じだ。
はじめは「なんだこれ?」やら「学校の中で料理?」などの至極誰でも考えるであろうことを頭の中で巡らせていたが、どこで何をとち狂ったのか「もしかして学校の中で危険な実験をして学校を爆破させるのでは⁉」と言う素っ頓狂な結論に落ち着いてしまった。
 ……言い訳をしてよいのなら気が動転していた、焦っていたから、と言う事にしておいてほしい。
だって、自分の目の前からおかしなにおいがしたら、誰だって不思議に思ったり何をしているのか焦ったりするでしょ。私の場合それがとんちんかんな考えに出てしまったというだけだ。
 さて困った。この異臭にひるんでいては教科書を取りに行くことはできない。教室の前で右往左往してから、意を決して引き戸を勢いよく開けた。
「はへ……」
 私でもここまで気の抜けた声が出たのは初めてだ。教室の中には目を疑うような光景が広がっていた。教室の真ん中に集まる男子三人。ここまではまだいい。理解できる。
問題はここからで、机の上にコンロ、火にかかっているのはにおいの元だと思われる底の深い鍋。
中で煮込まれているのは真っ黒な液体で、ふつふつと泡が表面に飛び出しては消えている。それを食べるつもりなのかお皿と炊飯器が別の机の上に準備されていた。
ご飯にかけて食べるものと言ったらカレー。そう、この人たちは放課後の教室でカレーを作っていた!
「この人たちと空間に触れてはいけない」と脳が率直に判断したため、そそくさとロッカーに走った……が、無理だった。気づくとがっちりと私の腕がつかまれている。
「おい、ちょっといいか」
 手をつかんだ主は、嫌に目鼻立ちの整った男子だった。爽やかな黒髪ショートでおまけに高身長ときている。町で歩いていたらおそらく速攻読者モデルかなんかにスカウトされるだろう。
……が、こんなところで会ってしまっては美人でもイケメンでも関係なく関わりたくない。
さっきからカレーのにおいが強く鼻腔を刺激してくるし、学ランにかけたエプロンに適当に張り付けられた意味不明な「ME」と言うアップリケのせいで、「残念イケメン」感が倍増している。よって私はこう答えることしかできない。
「なんですか」
 せいいっぱい興味なさげに、かつ迷惑そうな顔で言ったつもりだったが目の前の残念イケメンはそんなこと歯牙にもかけず、顔に満面の笑みを浮かべてこう述べた。
「君、新入部員だろう?よく来てくれた!」
 果たして日本語が通じているのか。
「林、飯田! ついに我がカレー部に新入部員が来てくれたぞ!早くカレーの準備をするんだ! 私は三年で部長の彼井好男だ、よろしくな。好きに男と書いてよしおと読む、と覚えてくれ。君は確か転校生だろう?」
 彼井好男とか言う三年は私の腕をぎっちりホールドしたまま、聞いてもいない自己紹介を始めた。
確かに私は、先週この町に引っ越してきたばかりのピッカピカの転校生だ。だけど転校生だから「カレー部」に入らなければならないなんて義務、今まで聞いたことが無い。
しかもこいつら、私にあの真っ黒いカレー……と呼ぶにもおこがましい物体を食べさせようとしている。ちらりと視線を鍋の方にやると、彼井好男さんに呼ばれた二人がさっそく食事の準備を始めていた。
「ちょっと、やめてください! 私は忘れ物をここに取りに来ただけです! それなのにどうして私が『カレー部』に入らなければならないんですか。そもそもカレー部って一体なんですか」
 どうにかして、彼井さんが手を離したらカレーを食べようとするふりをしてさっさと逃げよう。テストより健康の方が大切だ。
「カレー部は彼井が一人で立ち上げた、おいしいカレーを作りそして食べるための部だ。主に放課後や土曜日に活動している。オレは同じく三年で副部長の林来人だ、よろしくな新入部員」
 突然ドスの効いた声が頭の上から降ってきた。
声のした方に首をひねると脱色したスポーツ刈りにサングラス、首にヘッドフォンを掛けた見るからにガラの悪い男子が立っている。
その林来人と言う先輩は、白米の上に黒い液体がかかったものを私の横にある机の上に置いた。まずい、こんな不良の前で逃げられない。
「ほらほら冷めないうちに食べてくれ! そして入部してくれ!」
 彼井さんがやっと手を離してくれたと思ったが、空いた手でぱっとスプーンでカレーと思しきものをすくって口元に押し付けてきた。鼻が焦げた雑草のにおいでおかしくなってしまいそうだ。
「う、じゃあ、一口だけ……」
 ここまできたらもう誰だって断ることはできまい。ああ、明日の私の体に幸あれ!観念して黒い物体をほんの少し口の中に入れてみる……あれ?
「おいしい」
 ぽろっと感想がこぼれた。
雑草のようなにおいは口の中で何種類もブレンドされたと思われるスパイスの香りと刺激に変わり、ご飯はふっくらと炊きあがっており噛めば噛むほどに甘くなっていく。
なるほど真っ黒な色もたくさんのスパイスを煮込んだからと考えれば納得できる……って、私はなんで食レポなんてしているのよ。
「どうだ、おいしいだろう! おいしいだろう!」
 私の反応に満足したのか、彼井さんはその場でスキップをしだした。となりの林先輩やもう一人の先輩もにこにこしている。無邪気な先輩たちだ。
「まあ、見た目の割には」
「見た目の割には、とはなんだ! クミンやコリアンダー、カルダモンにターメリックなど、カレーに使われる代表的な二十種ものスパイスを組み合わせた上に、白米は私の祖母から送ってもらった新潟産のブランド米だぞ!」
「うるさいです。じゃあ私は帰りますから。カレー、ごちそうさまでした」
彼井さんの話を聞き流して銀色のスプーンをカレーの皿の上に戻し、私がおもむろに立ち上がろうとすると体が軽いことに気が付いた。
まさか、カレーを食べた効果⁉ ……なんてことはなく、ポケットの中のスマホが無くなっていたからだった。手のひらをすっと前に差し出す。
「スマホ、返してください。ここの部はスリも平気でするんですか」
 スマホを盗った主は、もう一人のカレー部員の男子だった。私と同じくらいの背格好で、女の子のように大きなたれ目をしている。
微妙に目が緑色に光り、日本人離れした高い鼻や白い肌を見ると、どうやら何らかの国のハーフのようだ。
「……」
 その先輩はにっこりと笑ったまま私のスマホの画面をスライドし、手早くメッセージアプリを開いた。嫌な予感がする。
「何をする気なんですか!」
 思うがままにされてはたまらない、とスマホに向かって飛びかかると、あっさりとかわされた。日頃の運動不足って、こういうところに出るのか。
「飯田、そのままグループに入れちゃっていいぞ」
 彼井さんはスマホを持つ飯田と呼ばれた男子に呼び掛けると、その瞬間私のチャットアプリに意味不明なグループが追加された。
「カレー部 メンバー四人 彼井・HAYASHI・飯田ルウ・レイカ」
 返されたスマホの画面を見てぎょっとした。私はこの変な三人組のメンバーにされていた!
「君……宮川麗香、って言うのか。改めてよろしくな新入部員! これからカレー部の新たな部員として、よりこの部を共に盛り上げていこう!」
 上履きに書いてあった私の名前をチェックしながら、彼井さんは声高らかに片手を差し出した。握手しろってことなのかしら……これ。
「よろしくな」「……よろしく」
 他の二人も手を差し出してくる。
よくわからない変な男子三人に囲まれて手を差し出されているこの状況、どうしたらいいのよ⁉
発狂寸前にまで陥った頭をどうにかしてクールダウンさせようと、私は黙って教室を全力で飛び出した。狂ったこの空間からの脱出だ。
足と手を冒頭と同じようにフル稼働で動かしまくってなんとか昇降口まで来たときに、スマホの着信音がうるさいことに気が付いた。
電源を入れてメッセージアプリを開くと、先ほどのカレー部グループに彼井さんが投稿している。
「彼井・明日の土曜日に、河原でカレー作りを行う! 絶対に来るように! 来なかった者はカレーについてのレポート五枚を──」
 みなまで読む気になれなかった、と言うかそれを私の脳が拒んだ。
「いやあああああああ!」

後でわかったことだが、カレー部の部員は全員三年だった。


 学校から歩いて十五分、バスも電車も一切使わない徒歩通学圏内にあるごくごく一般的な民家。これが私の暮らす家だ。
郵便受けに大量にたまった両親あてのダイレクトメールやはがきを久しぶりに取り込んで、明かりの点いていないリビングのテーブルにぽいっと投げる。
カレンダーをチラ見すると、カラーペンでぎっしりと仕事の予定が書きこまれていた。この分だと両親はしばらく帰ってこないだろう。
その時、二階から猛獣の叫び声のようないびきが聞こえてきた。
しまった、絵美さんをまだ起こしていない。二階に駆け上がって、ドアに向かってノックを仕掛ける。
「絵美さん、起きてください! もう夜の七時ですよ! まさか日中ずっと寝ていたんじゃないでしょうね⁉ ドア、開けますからね!」
 二階の角部屋──我が家で一番日当たりの良い部屋を陣取るのは、美大生で絶賛宮川家に居候している東堂絵美さんだ。
ちゃんとした年齢は聞いたことがないけれど、多分二十五を軽く超えていると思う。しびれをきらしてドアを開けた瞬間、私はあまりの部屋の汚さに辟易した。
散乱した衣類、飲みかけのジュースやらお酒のカンやらが所狭しと並ぶ床、マットレスが大きくずれたベッドに横たわる絵美さん。
ベッドの反対側には、彼女がこれでも美大生の端くれだと主張するように大きなキャンバスが置かれていた。
私には美術のセンスが無いので赤や黄色で縦横ななめに描きなぐられているようにしか見えない。
「聞こえているんですか絵美さん、ご飯すぐに作っちゃいますから起きてくださいよ? いつもご飯だって呼んでいる時に、降りてきてくれないんですから」
「え~、昨日夜更かしして……まだ眠くて。レイカちゃんいつもよりイライラしてない?頭痛なら薬あげるけど」
 おもむろに起き上がりながら、絵美さんは落ちたキャミソールのストラップを直した。
違うってのに……。なんで私の周りにはさっきのカレー部といい絵美さんといい、面倒くさい人たちが集まってくるのよ。
「違うの? じゃあなんでそんなにイライラしてるのさ~。何があったの、教えて教えて!教えてくれないと離れない」
 私のセーラー服のすそをぎっちりとつかみぐいぐい引っ張りだす絵美さん。ああ、こんな大人にはなりたくないな。
「──変な先輩に無理やり意味不明な部活に入れられたんです」
 小声かつ一息で、端的な説明。
これが絵美さんの好奇心に余計火をつけた。ベッドの上に座りなおして私の顔を下からのぞきこむ。
「変な部活? なんて言う部活なの?」
「……カレー部です」


 しん、とマンガのコマに出てくるような擬音の静寂がしばし部屋を支配した。
その後に響いたのは当然絵美さんの笑い声。マットレスを手のひらで叩きながら、バカ笑いを続ける。だから言いたくなかったのに。
「なにそれ面白いじゃん、入ったら?」
「もう入れられちゃったんですよ、さっき言ったじゃないですか。しかも明日から活動だって言って……土曜日だっていうのに河原でカレー作りなんですよ?」
「いいね~、カレー好きよ、私」
 他人事だと思っているから、そんなことが言えるのよ。
「なら私のかわりに絵美さんが入ったらどうなんですか。よくわからない部なので成人女性でも部員にしてくれると思いますよ」
 ベッドの下に落ちたスナック菓子のゴミを拾い上げて、あふれかけたゴミ箱へと投げた。ゴミの山が音をたててくずれ、辺りにポテトチップスのカスが散乱する。こまめに掃除してほしい。
ため息をつく私と裏腹に、絵美さんは腕を頭の後ろで組んでへらへらと笑った。
「あはは、そりゃあ無理な話だ。私は次の個展に向けていっぱい絵を描かなきゃいけないもんね」
 そのセリフは去年も聞いた気がする。
確か私が中三で受験期真っただ中と言うのに、「個展の客が来なくて暇だ、見に来てくれ」と言われて前に住んでいた町のしょぼい雑居ビルに連行された思い出がある。
「どうせ誰も身に来ないじゃないですか。そんな個展をやっても──」
「なかなか言ってくれるねー。ま、変な部活だってクラブだって、嫌でも友達のいないレイカちゃんは何かしら入った方がいいと思うけど。カレー部とやらの部長さん、いい選択したわ」
 失礼なやつ!
「友達がいないのはお互い様です! 人の事言えません。この町に引っ越してきた時も絵美さんと一緒でしたし、その時に二人とも友人関係はまっさらリセットされちゃってるでしょ?」
「ま、そうだな!」
 なんでそんな快活に笑えるのよ……。
とりあえず、部屋くらいはきれいにしてほしい。この部屋の散らかりようを帰ってきた親が見たら、卒倒するに違いないから。
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