第5話 下校時に麦の穂パンを買う
文字数 2,386文字
放課後に教室で洋楽を歌う吉屋のことを知っていたと思う。
中等部の2人に1人は放課後に吉屋のところにやってきた。
中学2年の5月まで吉屋はほとんど目立たない生徒だったし、休み時間に
クラスメイトと喋っているところも見たことが無いような存在だった。
それが今や、休憩時間のたびに吉屋と話したくて人が集まるようになった。
他クラスの生徒も多い。志門はゆっくり吉屋と話せなくなっていた。
奈田名エルは「俺ら初期メンバーなのに」とブツブツ文句を言っていた。
志門もその気持ちが分かる。でも、奈田名エルのように文句は言えなかった。
「吉屋、今日は俺、放課後残れない。先に帰るから」
昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴り、吉屋の周囲から人が去ったのを見て
志門は吉屋に言った。
「なにか用事?」「うん、麦の穂パン買いにいく」
奈田名エルが「今日だったっけ?!俺も行かなくっちゃ」と話に割り込んだ。
「麦の穂パン?」
「何だよ、吉屋、知らないの?ずっとテレビでCM流れてる有名なパンだよ」
吉屋は分からないようだったので、志門が説明した。
『麦の穂パン』とは、いま都会で流行っている高級パンだ。都会では朝から
行列ができていて、何日も前から予約をしてパンを買う人もいるらしい。
都会の人は麦の穂パンを朝食に食べたり、お土産にもっていくのだという。
都会で制作されたテレビ番組やCMで放送され、新聞や雑誌でも特集されている。
しかし、田舎のガリラヤには『麦の穂パン』の店はない。
高級パンだけでなく、都会で話題の物の多くはガリラヤで手に入ることはない。
しかし、今日一日だけ高級パンの店『麦の穂パン』がガリラヤにやってくる。
それも、ガリラヤ学院近くのスーパーマーケット前で店頭販売するのだ。
数量限定だから並ばないといけない。でも、放課後ダッシュで店に行けば買える
かもしれない。
志門のお母さんも、以前から『麦の穂パン』に憧れていた一人だ。テレビドラマ、
バラエティー番組で目にするたびに「食べてみたいなぁ」とつぶやいていた。
お母さんに『麦の穂パン』を買って帰ったら喜ぶだろうな。
志門はお母さんに内緒でパンを買いに行くことにした。
万が一、パンを購入できなかった時、お母さんをガッカリさせたくなくて、志門は
今朝何も言わずに家を出た。
「お母さんに都会で話題の『麦の穂パン』を買って帰りたいんだ」
「俺も食べてみたい。吉屋悪い、俺も今日先帰る」
「じゃあ、今日は休みにしよう。みんなで買いに行こう」
吉屋は言った。
放課後、教室に集まった人たちに「今日は休み」とだけ伝えて、吉屋はすぐに
学校を出た。志門は、吉屋が放課後の用事につき合ってくれたことが嬉しかった。
久しぶりに初期メンバーだけで過ごせることが嬉しかった。
・・・
吉屋は行列の外で待っていると言った。
スーパーマーケットの前にはすでに行列ができていたが、何とか購入することが
できた。
『麦の穂パン』のオシャレな紙袋を提げた志門、奈田名エル、ヤコブとヨハネが
吉屋のもとに戻ると、彼のそばに高津法子がいた。
高津法子と同じ女子グループの猛瀬、五所、申命も一緒だった。
「吉屋、見てよ。放課後に寄り道して、しかも、買い食いなんかしちゃって。
放課後に制服のままで、買い物をするなんて校則違反だよ!」
たしか高津法子、猛瀬、五所、申命は生徒会に所属していたはず。
この時間は生徒会活動で忙しいはずなのに、なんで放課後に店の前にいるのだろう。
高津法子たちも高級パンを買いに来たのだろうか?と、志門は考えた。
いや違う、高津法子は志門たちが学校帰りに高級パンを買いにいこうとしていると
気づき、生徒会を休んでついてきたのだ。
高津法子たちは、吉屋の周りに人が集まり吉屋の話を聞いていることが許せないと
言っていた。英語の塾にも通っていない、英文法も満足に勉強していないくせに、
洋楽を語っているなんて間違っている、吉屋たちと洋楽聴いて英語ができると
勘違いしていたら成績落ちるよ、と周囲の女子たちに言ってまわっている。
なんとかして吉屋の欠点をみつけ、吉屋の人気を落そうとしているのだ。
高津法子たちは、買い物袋を提げた志門たちではなく、吉屋を見ている。
俺たちのことなんか、眼中にないのかよ。志門は唇をかんだ。
吉屋は高津法子たちを見て言った。
「ダビデ先輩の話を知らないのか?ガリラヤの人間なら誰でも知ってるだろ?」
ダビデ先輩とは、高低羅馬男(こうてい ろまお)とか彼の所属政党である向上党
が出てくるずっと前にガリラヤの地域と人々のために尽くした政治家だ。
田舎で羊飼いをしている大家族の家で育ち、政治家の道に進んだ、異色の存在だ。
政治家一族ではないため、偏見や様々な苦労を経験したが有能な政治家だったという。
「ダビデ先輩」というダビデの幼少期のエピソードをまとめた絵本シリーズは、
ガリラヤに住んでいる者なら子どもの時に必ず読むし、小学校でダビデの劇も行う。
ダビデ先輩のエピソードの中に、部活終わりにスーパーで買い食いした話がある。
ある日、ハードな練習を終えた部活帰りに仲間たちが脱水症状で倒れてしまった。
ダビデ先輩がスーパーマーケットまで走り、水を購入して手当てした。そんな話だ。
「ダビデ先輩は、『下校中に買い食いしてはいけない』という規則にとらわれずに、
まずその人に必要なものを優先した」
「下校のルールは、ガリ学生のために定められた。下校ルールは表面的に人を見て
判断したり、人を縛り付けるためのものじゃない」
「高津の言っていることは、表面的なこだわりだ。俺はガリ学生として、人間として、
人を思いやる心を軸に行動しているんだ」
吉屋は言った。
高津法子たちは、吉屋の言いたいことが分からず、けれども反論したくて口をモゴモゴ
動かしていた。
しかし、吉屋は「行こうぜ」と言って歩き出した。