序章 I was Born to Love You (君を愛するため生まれた)

文字数 4,547文字

 神ってる中学生・吉屋(よしや)が起こした、ガリラヤ旋風のはじめ。
 
 吉屋の周囲の人間は、すぐ「自己責任」「自業自得」「負け組は生きる価値無し」と言う。
 そう言いながら、自分の人生がどうにもうまく回っていない者が多い。
自分の状況を「自己責任」や「負け組」という言葉で説明できないと分かっているはずなのに、自分より弱い立場にいると思える者に同じ言葉をあびせる。表面上、自分より幸せそうに見える人たちを「努力をしないでのうのうと生きている」と決めつける。
「自己責任」の言葉に人一倍傷ついているのは自分なのに。
本当の自分を知ってほしい、優しい言葉をかけてもらいたいと思っているはずなのに。
 吉屋はそんな人たちを見ていると怒りや悲しみが身体をかけめぐり、内臓が痛くなった。

 吉屋には弟が4人、妹が2人いる。物心ついたときから母親はいつも妊娠していた。
つわりで苦しむ母親を気遣うのが当たり前の日常だった。出産にも立ち会ったことがある。
生き物のいのちが地上に生まれることは、奇跡の連続だ。
赤ちゃんが産み出された瞬間を目撃した時、この世界の命は、人間の努力だけではない、
神秘的な力がかかわって産まれてきて、特別な力によって生かされていると直感的に悟った。
だから、誰かの命に価値あるとか無いとか議論したり、人の生き方に自業自得とか負け組とか
ラベルを貼り合っているのを見ると悔しかった。ふざけんじゃねぇ、そんなの間違っていると大声で叫びたかった。
どうせ自分なんてとつぶやく人を抱きしめ「大丈夫、元気を出して」と力づけたかった。
自己責任、自業自得、一度でも炎上したら人生アウト……
そうつぶやき、ボコボコに傷ついた人たちを励ましたかった。
でも、自分に何ができるだろう?
吉屋は片田舎の中高一貫ガリラヤ学院に通うただの13歳。何の力も持っていなかった。

・・・

そんな吉屋の前に、一人の男が現れた。名前は深井恵(ふかい めぐみ)。
深井先生はガリラヤ学院高等部の英語科非常勤講師だった。
いつもラクダ色のジャケットを着て、イナゴせんべいとハチミツのど飴を食べていた。
吉屋は高等部の英語の授業に出たことはない。
でも、放課後の音楽室で深井先生が洋楽のCDを流していること、高等部の生徒が何人か
集まっていて、歌ったり喋ったりしていることは知っていた。
吉屋はどの部活にも所属せず、夕方まで校舎をぶらついたり図書室で過ごしていたから。
その日も、吉屋は校舎をぶらついていた。音楽室の前の廊下を歩いていて、流れてきた
曲が気になった。
「ラブ・ユー!ラブ・ユー!」とか「エクスタシー」とか叫ぶ野太いオジサンの声が
聞こえてきたのだ。
オジサンでも愛を叫ぶのだろうか? 堂々とアイ・ラブ・ユーなんて男が言うのだろうか。
吉屋は気になって、音楽室の後ろのドアを少し開けた。
深井先生は中学生の吉屋を招き入れてくれた。高等部の先輩たちも優しく、席を準備して
くれた。深井先生は、この曲はQueenの「 I Was Born to Love You」だと教えてくれた。
「君を愛するために生まれた」、高等部の先輩に辞書を借りて訳した。
中学一年生の吉屋には衝撃だった。
英語なら、堂々と「君を愛するために生まれた」と叫ぶことができる!
普段なら人に鼻で笑われるような、「現実はそんなに甘くない」と馬鹿にされるような
希望や愛、正義について語ることができる。人を愛すことの素晴らしさ、互いに励まし
幸福を願いあうこと、愛を心の軸にして生きていきたいんだと叫ぶことができる。
人にエールを送ることができる。

吉屋は洋楽を聞きたくて、放課後の音楽室に通うようになった。
深井先生と高等部の先輩たちは、洋楽を聞くだけでなく英語の歌詞で歌ったり、
日本語に訳したりもしていた。
深井先生は、高等部の先輩たちにいつも「切り替えていこうぜ!」と語った。
「ここは、授業じゃない。成績のことを考えなくていい」、和訳が間違っていても
いいから発表すること、意訳も大歓迎。ただ、なんでそのように訳したのか、どの単語を
大事に思ったかを自分の言葉で語ることが重要だと言った。発表する人は大事な気持ちを
語ってくれるのだから、聞く側も誠実な態度で受け止めるようにとも言った。間違っていて
も、頭ごなしに否定してはいけない。その人の感じた言葉を否定してはいけない、と。

・・・

半年ほど通うようになって、吉屋にも色々なことが分かってきた。
この集まりは、部活でも委員会でもない。深井先生が独自に始めた活動のようだった。
深井先生が高等部の英語の先生たちと言い争っているのを見たことがあった。

「すでに英語部という立派なクラブ活動があるのですから、そちらに合流しては?」
「洋楽を聞くのも和訳するのも結構ですがね、正しい英文法を学ぶ方が先ですよ」
「ダラダラ洋楽を聞くより目標を作るべきです。英語スピーチ大会を目指しましょう」
「深井先生も評価がほしいでしょう?不安定な非常勤のままでいたくないでしょう?」

シワひとつないスーツに身を包んだ先生たちに囲まれ、深井先生は怒りを爆発させた。
「この毒ヘビども!せっかく、生徒たちが点数をつけられ成績で評価させる窮屈な時間
から解放されて、自由に英語で自分を表現しているんだ。俺たちは英語を楽しんでいる、
余計なものを注入すんじゃねぇ!毒だ!」
吉屋は、先生でも大人に怒ったり怒鳴ったりするんだと驚いた。そして、深井先生は、
他の先生からあまりよく思われていないんだなということにも気づいた。

吉屋が中等部の2年生になってすぐ、深井先生は突然学校を去った。
何があったのか、高等部の先輩たちに聞いたけれど教えてくれなかった。音楽室には
誰も来なくなって、そのうち放課後は鍵がかけられるようになった。
吉屋は、どうしていいかわからなくなった。自分一人で英語を勉強してみたものの、
続かなかった。深井先生に出会う前、どんなふうに放課後を過ごしていたか、もう
覚えていなかった。

・・・
音楽室に入れないので、吉屋はいつもより早く帰宅した。家には鍵がかかっていた。
今日は仕事が休みなので、母と、新しいお父さんと、二人の間に生まれた6人の弟妹
たちだけで遊びに行くと言っていたことを思い出した。母は新しいお父さんにとても
気を遣っている。吉屋もワガママは言わないようにしている。
新しいお父さんは、悪い人じゃない。でも、吉屋以外の、本当の家族だけで暮らしたい
んだろうな、という空気を感じてしまう。

吉屋の家はエレベーターのない団地で、家の前に座ると他の人の昇り降りの迷惑になる。
なので、団地の真ん中にある公園で帰りを待った。4時間待ったけれど帰ってこなかった。

座り続けていると空腹のことばかり考えてしまう。吉屋は夜の団地を歩くことにした。

団地の駐輪場の近くに来た時、小銭入れが落ちているのを見つけた。
吉屋の心の奥に、黒い感情が現れ、ささやいた。
「お腹が空いているんだ、極限状態なんだ、自分を優先してもいいだろう。少し小銭をもらって、パンか何か買おう。人は生きるために食べなければいけない。他人のことを考える?やめよう、そんなこと。一番大切なのは自分だろ?」
吉屋はつぶやいた。
「人はパンだけで生きるんじゃない。食べるのは大切だが、僕は食べる機械じゃない」
「この小銭入れのお金を得るために働いている人がいる。この小銭入れの持ち主は、苦労して手に入れたお金で食べ物を買っているんだ。自分優先では世界は回らない。大切なものが見えなくなるような生き方、僕は、絶対にしない」


吉屋は小銭入れから目線をあげる。
エレベーターのない5階建ての夜の団地は、昼間見るより大きく高く感じる。
再び、吉屋の心の奥に黒い感情がささやいた。
「『お母さんは、もう僕のことなんか愛していないのでは?』と不安にならないか?
お母さんの愛を試してみないか?団地の屋上から飛び降りてみようぜ。長男が危険行為
に走った、ってなれば団地で噂になる。お母さんが大切に想っているならきっと守る。
いつも外食や遊びに行くときに置き去りにされているんだ、不安になって当然さ。少し
試してみたっていいじゃないか」
吉屋はつぶやいた。
「相手をためる行為は、相手を信頼していないことになる。相手を試して、傷つけて、
自分は特別な存在だったと誇ったところで何の意味もない。僕はお母さんが大事だ。
信頼しているから、試したりしない」

どこかの家の窓が開いているのか、テレビのニュースの声が聞こえてきた。
高低 羅馬男(こうてい ろまお)とかいう政治家の演説だ。またか、と吉屋は思う。
高低 羅馬男がした演説が素晴らしいと話題になり、一週間毎日放送しているのだ。
「努力しない人間に価値はない。年収が低い?生活が苦しい?努力すればいいのだ。
病気になりたくなければ、早く病院に言って治療を受ければいい。自業自得なのだ。
なまけ癖のある人間は、すぐにそうやって言い訳をする。向上心のない人間のために
大切な税金を使わせない。我々、向上党は、努力のできる人間を優先します。
私の成功を見てみろ。私は、いくつもの貧しい都市を再生させてきた。成功のノウハウ
がある。他人のことよりまず自分を優先し行動していく、このやり方に従えば成功する。
我々、向上党がこの国の経済を発展させてきた。豪華な神殿や公共施設を使えるのも、
文化や芸術が発展しているのも国が安定しているから。向上党の成果です……」
黒い感情が耳元でささやいた。
「高低 羅馬男や向上党の政治家の言うことは皆が聞いている。影響力がある。
ずいぶん前に羅馬男の政治に反対する抗議デモもあったが、簡単に解散させられた。
あの力こそ、正義。そう思わないか?羅馬男の主張に乗っかった方が生きやすいぜ?」

「失せろ悪魔!」
吉屋は叫んだ。怒りで目が熱くなり、涙が止まらない。
吉屋は知っている。
吉屋が生まれる前からこれまで、向上党が何度も増税を続けていること。
あらゆる税金が高くなったせいで、家賃が払えなくなり同じ団地に住む
黒江さんは家を失った。
ガリラヤと呼ばれるこの辺りは、工場で働くか農家で生計を立てる人が多い。
良い製品を作っても、野菜を作っても、都会の人たちに安く買い取られてしまう、
働いても働いても貯金ができないと、大人たちはいつもぼやいている。
都会では豪華な建築物や最新のエンタメを楽しめるかもしれないが、ガリラヤ
は都会から遠く離れているので出会うことはない。
ちいさかった頃、近所に住んでいて吉屋のことを可愛がってくれたオッチャンは、
都会で働いていた時の話をしてくれた。オッチャンは日雇い派遣で、向上党の
政治家たちが自慢する立派なビルの建設に関わったらしい。外国から取り寄せた
石を精密に削っていたが、その粉塵で肺を痛め、さらに重労働で腰を壊し、長く
働くことができなくなっていた。
なんで、こんなに心優しいオッチャンが辛い思いをたくさんしているのか。
僕は、向上党の謳い文句に従いたくない。羅馬男の言葉をありがたがらない。
毎日必死に生きている人間のいのちを、価値が無いなんて言わせない。
僕は「君を愛するため生まれた」と歌いたい。
この言葉を求めている人たちのところへ、伝えに行こう。

吉屋は決意した。
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登場人物紹介

吉屋(よしや) 

【中高一貫私立ガリラヤ学院中等部2年A組、14歳】

・ナザレ団地に母親、新しいお父さん、幼い6人の弟妹と住んでいる。

・高等部英語科非常勤講師の深井恵(ふかい めぐみ)先生と出会い、洋楽を聞くようになる。

・深井先生が学校を去り、自分で仲間を集め洋楽を聞くグループを作ろうと決心する。

・好きな歌手はQueeN

志門巌(しもん いわお)

【中高一貫私立ガリラヤ学院中等部2年A組、14歳】

・実の母親とは死別。7歳の時に父が再婚、義母ができる。

・スーパーマーケットの水産部門で働く父親と、父が再婚した母と3人暮らし。

・成績は中の下。

・天然パーマ、糸目、ごつい顔がコンプレックス。強そうに見えるが、喧嘩は強くない。

安渡 礼(あんど れい)

【中高一貫私立ガリラヤ学院中等部1年A組、12歳】

・志門の家の近所に住む従弟。幼いころから志門を兄のように慕っている。

・志門と同じく、おさかな係をしている。

・高等部に兄や姉のいる同級生とも仲が良く、情報通。

高津法子(たかつ のりこ)

【中高一貫私立ガリラヤ学院中等部2年A組、14歳】

・有名進学塾「ファリ佐井ゼミナール」に通っている。

・学習塾に通っていないクラスメイトを見下している。

・同じクラスの女子である猛瀬(もうせ)、五所(ごしょ)、申命(しんめい)を引き連れ、

 たびたび吉屋につっかかる。

・成績は上位、クラスの中心人物。

奈田名エル(なたな える)

【中高一貫私立ガリラヤ学院中等部2年A組、14歳】

・思いついたことは気になったことをよく考えずに口に出してしまうため、トラブルが多い

・「ちゃんとしなさい」と学校でも両親にも言われるが、自分の気持ちを上手く伝えられない

・イライラが爆発してしまうことも多い

・吉屋と「ガリラヤの風」を作ってから、自分のできることを探すようになる

佐渡 開(さど かい)

【私立ガリラヤ学院中等部2年A組担任/社会科教諭、32歳】

・ガリラヤ学院に赴任して日が浅い。生徒に軽く見られている。

湯田(ゆだ)

【王手の伊須狩高等学校2年A組、16歳】

・理数系に力を入れている、偏差値の高い高校に通っている。

・レンタルCDショップで吉屋と出会う。洋楽ではニルヴァーナが好き。

・両親は高学歴で教育熱心、湯田は一人っ子。エリート校で成績上位を保つため、ストレスを抱えている。

・先輩がホームレス狩りをしていることを知り「正義の掃除屋なんだ」と言われ関わってしまう。

・路上生活を送っている老人を殺してしまったかもしれない、誰か身代わりをたてたいと言われて、

 とっさに「ガリラヤ学院の吉屋って中2が調子乗っているから、あいつのせいにしたらいい」と、

 提案してしまう。

磨凛愛(まりあ)

【フリーター、16歳】

・スナック「マグダーラ」の一人娘。志門たちは「エッチな店」と呼んでいる。

・磨凛愛の母はいつも胸元の開いた服を着て、「マグダーラが通った」と言われるほど強い香水をつける

・磨凛愛は中学卒業後は高校に進学せず、時々マグダーラの店を手伝っている。

・吉屋と町で出会い、夜の公園で待ち合わせて話すようになる。

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