文字数 1,052文字

 次の日から、少女はすこしだけ変わりました。ランドセルをソファに投げ捨てて、わたしの元にやってくるのですが、少女の指は、いつになく忙しなく鍵盤をたたいて、わたしも悲鳴のように歌うことになりました。音はばらばらで、歌というより、悲鳴のような声を出してしまいました。弾くのをやめて、小さなため息を漏らしたときに、どうしたの、と不安な声を出しました。少女はすこしばかり黙ってから、口を開きました。
「コンサートでね、すごい人に出会ったの。私よりも、何歳も若いんだけど、私よりも、何倍もすごい人だった」
 あなたの、あの美しい曲は、しっかり弾くことができましたか。そう言うと、少女はふるふると首を振りました。
「私はちゃんと弾けた。練習通りに弾けた。でも、私よりもすごい人がいた」
 間違えないで、ちゃんと弾けたのなら、素晴らしい演奏になったでしょう。わたしはずっとあなたの演奏を歌って、聴いてきたのです。父親も、母親も、喜んでくれたでしょう。
「うん。パパもママも、良かったよって言ってくれた。ママなんて、涙まで流してた。でも、ダメなの。私よりも若くて、私よりすごい人がいた」
 それから、また指をわたしに添えて、弾きはじめました。弾き続けました。わたしは過呼吸になりながらも、必死に少女のために歌いました。夜が深くなっても、わたしの側にいました。指が震えそうになっても、わたしの側にいました。ずっとわたしは歌いました。いつも以上に、わたしといっしょにいたのに、低音ばかりが耳に残る日でした。
 わたしはたくさん歌いました。ドビュッシーだの、ベートーヴェンだの、チャイコフスキーだの、ショパンだの、パッヘルベルだの、リストだの、バッハだの、サティだの。わたしには、それがなんなのかよく分からないのですが、少女にとっては大事なようで、違う曲をわたしが歌っているはずなのに、少女はしきりにそれらの名前を呼んでいました。
 わたしばかりが過呼吸になる毎日で、少女もわずかに呼吸を乱しながらも、それはため息ばかりで、一生懸命に指を動かしていました。もう、前みたいに両親が隠れて聴きに来ることはありません。それどころか、ドアを閉めきってしまっていて、ドアの向こうの音が何も聞こえてこないばかりです。わたしは少しばかり寂しい気持ちになって、思わず低い音を出して泣いてしまいました。すると、少女は演奏を止めて、今度は深いため息を漏らして、また最初から弾き直しました。わたしは、何度も同じ曲を歌いました。少女はもう歌うことがありませんでした。
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