文字数 771文字

 わたしたちは長い間、いっしょにいることで、会話ができるようになったのかもしれません。少女がわたしの前に座って、演奏するとき、いつもより少しだけうれしそうにみえて、どうしたの、なんか良いことでもあったと、尋ねてみたら、
「ねぇねぇ、きいて。先生から、コンクールに出てみないって言われて。なんか大きな場所でさ、私が演奏するんだって」
 ほほ笑みながら、そう返してくれました。わたしは自分の言葉が届いたという驚きと、少女の嬉しそうな笑みをみたときのうれしさで、感情が混ざり合って、思わず音を外してしまいました。
 あぁ、もう、なんて、嬉しそうな声。その日は、ずいぶんと軽やかで、朗らかに、楽しそうに歌うことができました。少女もどこか遠くの景色をみるように、ときおり演奏を止めては、少し笑って、また鍵盤に触れました。両親も、喜々とした少女の報告を聞いて、立派なドレスを買わなきゃいけないな、ねぇいつなの、早く見に行きたい、やだ恥ずかしい、見に来ないでよ、なんてワイワイ騒いでいました。ずっと明るい家でした。
「じゃあ、わたし行ってくるね」
 きれいな真っ白いドレスを着た少女が、わたしに告げて、たったったと身軽な足音を立てて、家を出ていきました。そのコンテストに、わたしがいないのが悲しくて、低い音をひとつ、その家に響かせました。それから、少女が必死に練習していた『ハンガリー舞曲第5番』と少女が呼んでいた曲の冒頭をすこしだけ口ずさみました。もっとかわいらしい名前をつけたらいいのに。快活で春のような、少女にぴったりの曲です。
 すっかり太陽は寝静まって、暗くなった夜に、ドアが開く音が聞こえました。わたしはどうだったのか訊きたくて、うずうずしながら、少女がやってくるのを待っていましたが、スタスタと静かな足音が鳴るだけで、その日は少女がやってきませんでした。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み