文字数 1,006文字

「わたし、ピアノ教室に行くことにしたの」
 嬉しそうにわたしに打ち明けてくれたとき、少しだけ汚れたピンクのランドセルを変わらずに背負っているのに、あなたはすっかり大人っぽくなりました。人差し指だけで、わたしの鍵盤を押すこともなくなりました。右手と左手は、まるで別人のように動かしています。わたしはいつも忙しなく口ずさんで、息を吸う暇がありません。ですが、まだたどたどしいのか、ずれた音を出してしまったり、違う音を出していた両手が、いっしょになっていたりしました。その度に、あー、と大声を上げて、笑いあったものです。いつの間にか、歌以外に、わたしに話しかけてくれるようになりました。
「今日ね、テストが返ってきてね、満点だったの」
「今日ね、帰りに友達の家に行ってきたの。たくさんゲームしてね、すっごく楽しかった」
「今日ね、なんかいい気分なの。なんでかって、分からないんだけど。なんでか、すごく嬉しいんだ」
「今日ね、雨だったから、最悪なの。傘をささなきゃいけないからさ、前が見えなくてね、もう少しで電信柱にぶつかりそうになったし、水たまりを歩いてさ、靴の中がびちゃびちゃになって、靴下もびちゃびちゃになって、それが気持ち悪くて、傘さしているのに、帰ってきたら、スカートも濡れちゃってて」
「あのね、今日から学年のみんなで合唱をすることになって、わたしが伴奏を弾くことになったの」
 どれもこれも、わたしには分からないことでした。それでも、わたしに話しかけてくれる少女の声はいつも明るくて、その声を聞いているだけで、嬉しい気持ちばかりがあふれました。ピアノ教室に行くことにした、という少女の声も嬉しそうで、わたしは良かったねと高い音を鳴らしました。
 少女との合唱はまだ続きました。相変わらず、わたしはいっしょに歌うことは叶わず、伴奏だけでしたが。どんどん少女の指が魔法のように見えました。わたしがこんな音を出せるのだと、驚くことも少なくありませんでした。少女が歌わないときもありました。そのときは、わたしが歌う音を、少女は耳をすませて聴くばかりです。わたしはいっしょに歌いたいと思っていたので、たったひとりで歌うときは少しだけ悲しいですが、わたしの歌を真剣に聴いている少女をみたら、そんな気持ちも霧散して、精一杯を歌に注ぎました。
 月日が経つごとに、みるみる少女は成長していきました。それを眺めるのが、どこかさみしかったです。
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