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文字数 2,063文字
都心の風景とこの部屋の温度差に、締め付けられるような切迫感に包まれ息が苦しくなる。画面に映る人々にはそれぞれ違った目的があるように見えて、わたしは一人一人の動きを目で追った。
そして彼らの中に自分の姿を溶け込ませる。そうしていると、名前のないわたしでいることが当然のように思えてきて、自分らしさを取り戻せたような気がした。
想像はわたしに勇気をもたらしてくれる。道行く人々にぺこりと頭を下げてから、これがわたしなんです、と言ってメッセージカードを手渡たす。感動的なシーンだと思った。もちろんそんなことできるわけないけど、現実はときに挑戦的だ。根拠のない世界では、誰かがわたしの名前を呼んでくれるような気がしたし、そうなることが当然 のように思えた。
そんな幻想的な理由から街へ行ってみたくなったわたしは、すばやく着替えを済ませ、メッセージカードをポケットに忍ばせてから、窓からお米を三粒撒き玄関を後にした。
日曜日の午後、休日は誰もが電車に乗るのかと思うくらいひどく混み合っていた。一人に慣れすぎていたわたしはこの状況に順応しきれていない。テレビの中の人々に自分を溶け込ませ、浮かれていたわたしの姿はすでに存在しなかった。それどころか微かな話し声や温度や匂いまでもが自分に襲い掛かってくるようで、五感を刺激するすべてのものが凶暴に感じられた。
他人との空気の触れ合いは、想像力を低下させ、いつしか彼らとの違いを確認することもできなくなり、均一化という波に蝕まれてく。
吊り革にもつかまれず、呆然と踏ん張るわたしの前には髪の長い女の人が立っていた。背を向けているので顔はわからないが、軽く襟を立て落ち着いた色のトレンチコートを自然と着こなす姿がとてもかっこよかった。それにいい匂いもする。見ず知らずの顔もわからない女の人に、わたしは憧れのようなものを抱いてしまった。
ひょっとして電話をかけてきた のはこの人なんじゃないかと、わたしは勝手な妄想を描く。だったらいいけどね、そう思い一人で笑ってみたくなったけど、誰かに見られるとやり場のない空気に堪えられそうにないので、わたしは必死にこらえた。
ふと彼女の肩に提げられた鞄から大きな隙間が開いていることに気がついた。そこでわたしは突発的な衝動に駆られてしまった。彼女にわたしの名前を呼んでもらえたらどんなに嬉しいだろう。
願望と衝動が重なり合ったとき、右手はすでにポケットからメッセージカードを取り出していた。そのままゆっくりと腕をあげるとためらうことなく、すっと彼女の鞄の中へと投げ入れた。とても簡単な作業だった。簡単すぎて何かやり残したことがあるんじゃないかと思ってしまったくらいだ。
車内には変わらない空気が流れている。携帯をいじってる女の子やうつむいたままドアに寄り掛かるおじさんや景色を眺め続ける若者もさっきまでと一緒だ。何も変わってない。
だけど本当は誰かがわたしの行動を見ていて何も言わないだけなんじゃないだろうかと思ってたら、突然電車が大きく揺れて隣にいたおじさんの肩に顔があたりジャケットにうっすらとファンデーションがついてしまい、小さな声ですいませんと言ってからその模様がキリンの頭みたいに見えてきて次第に冷静さを取り戻した。
女の人とわたしの立ち位置が変わってしまい、二人の間に距離ができると親近感もなくなってしまい、わたしは何をしてるんだろう、とぼんやりしながらアコムの広告を見てから、こんなことをしたかったわけじゃない、そう思った。
やがて顔は紅潮し、脇の下を流れる汗が音をたてるかのように滴り落ちた。取り返しのつかないことをしてしまったという思いと罪悪感が、背中から一気に流れ落ちていくようだった。
そして電車が止まった。終点だ。人々が電車からはき出されるように降りていく。どうすればいいのかわからなかったけど、とにかくカードを返してもらわなければいけないような気がして、わたしは彼女の後を追った。
駅を出ると、彼女は表通りの繁華街の裏手にある小さなネイルサロンのお店へと入っていった。ガラス張りの外観から彼女が奥の部屋へと入っていくのが見えた。多分このお店の店員なのだろう。
彼女の姿が見えなくなると、何だかどうでもいいような気分になり、もう帰ろうかと思ったけど、ここで諦めて帰ってしまうと今後何かが起るたびにどうでもよくなってしまいそうで、そういう考え方はだらしが無いと思ったし、それだけは嫌だったから途方に暮れたままお店の前をうろうろしていた。
しばらくすると突然、店内からあの女の人が現れて、わたしをまっすぐ見ていた。目と目が合った瞬間、まさかカードのことがばれてしまったのだろうかと思い、子供の頃母が大切にしていた資生堂の口紅で絵を描いてるところを見つかったときみたいに冷たい風にさらわれるような感覚におちいったけど、そんな思惑とは裏原に彼女は軽く微笑んだあと、優しい口調でわたしに声をかけた。
「よかったらお試しになりますか?」
そして彼らの中に自分の姿を溶け込ませる。そうしていると、名前のないわたしでいることが当然のように思えてきて、自分らしさを取り戻せたような気がした。
想像はわたしに勇気をもたらしてくれる。道行く人々にぺこりと頭を下げてから、これがわたしなんです、と言ってメッセージカードを手渡たす。感動的なシーンだと思った。もちろんそんなことできるわけないけど、現実はときに挑戦的だ。根拠のない世界では、誰かがわたしの名前を呼んでくれるような気がしたし、そうなることが当然 のように思えた。
そんな幻想的な理由から街へ行ってみたくなったわたしは、すばやく着替えを済ませ、メッセージカードをポケットに忍ばせてから、窓からお米を三粒撒き玄関を後にした。
日曜日の午後、休日は誰もが電車に乗るのかと思うくらいひどく混み合っていた。一人に慣れすぎていたわたしはこの状況に順応しきれていない。テレビの中の人々に自分を溶け込ませ、浮かれていたわたしの姿はすでに存在しなかった。それどころか微かな話し声や温度や匂いまでもが自分に襲い掛かってくるようで、五感を刺激するすべてのものが凶暴に感じられた。
他人との空気の触れ合いは、想像力を低下させ、いつしか彼らとの違いを確認することもできなくなり、均一化という波に蝕まれてく。
吊り革にもつかまれず、呆然と踏ん張るわたしの前には髪の長い女の人が立っていた。背を向けているので顔はわからないが、軽く襟を立て落ち着いた色のトレンチコートを自然と着こなす姿がとてもかっこよかった。それにいい匂いもする。見ず知らずの顔もわからない女の人に、わたしは憧れのようなものを抱いてしまった。
ひょっとして電話をかけてきた のはこの人なんじゃないかと、わたしは勝手な妄想を描く。だったらいいけどね、そう思い一人で笑ってみたくなったけど、誰かに見られるとやり場のない空気に堪えられそうにないので、わたしは必死にこらえた。
ふと彼女の肩に提げられた鞄から大きな隙間が開いていることに気がついた。そこでわたしは突発的な衝動に駆られてしまった。彼女にわたしの名前を呼んでもらえたらどんなに嬉しいだろう。
願望と衝動が重なり合ったとき、右手はすでにポケットからメッセージカードを取り出していた。そのままゆっくりと腕をあげるとためらうことなく、すっと彼女の鞄の中へと投げ入れた。とても簡単な作業だった。簡単すぎて何かやり残したことがあるんじゃないかと思ってしまったくらいだ。
車内には変わらない空気が流れている。携帯をいじってる女の子やうつむいたままドアに寄り掛かるおじさんや景色を眺め続ける若者もさっきまでと一緒だ。何も変わってない。
だけど本当は誰かがわたしの行動を見ていて何も言わないだけなんじゃないだろうかと思ってたら、突然電車が大きく揺れて隣にいたおじさんの肩に顔があたりジャケットにうっすらとファンデーションがついてしまい、小さな声ですいませんと言ってからその模様がキリンの頭みたいに見えてきて次第に冷静さを取り戻した。
女の人とわたしの立ち位置が変わってしまい、二人の間に距離ができると親近感もなくなってしまい、わたしは何をしてるんだろう、とぼんやりしながらアコムの広告を見てから、こんなことをしたかったわけじゃない、そう思った。
やがて顔は紅潮し、脇の下を流れる汗が音をたてるかのように滴り落ちた。取り返しのつかないことをしてしまったという思いと罪悪感が、背中から一気に流れ落ちていくようだった。
そして電車が止まった。終点だ。人々が電車からはき出されるように降りていく。どうすればいいのかわからなかったけど、とにかくカードを返してもらわなければいけないような気がして、わたしは彼女の後を追った。
駅を出ると、彼女は表通りの繁華街の裏手にある小さなネイルサロンのお店へと入っていった。ガラス張りの外観から彼女が奥の部屋へと入っていくのが見えた。多分このお店の店員なのだろう。
彼女の姿が見えなくなると、何だかどうでもいいような気分になり、もう帰ろうかと思ったけど、ここで諦めて帰ってしまうと今後何かが起るたびにどうでもよくなってしまいそうで、そういう考え方はだらしが無いと思ったし、それだけは嫌だったから途方に暮れたままお店の前をうろうろしていた。
しばらくすると突然、店内からあの女の人が現れて、わたしをまっすぐ見ていた。目と目が合った瞬間、まさかカードのことがばれてしまったのだろうかと思い、子供の頃母が大切にしていた資生堂の口紅で絵を描いてるところを見つかったときみたいに冷たい風にさらわれるような感覚におちいったけど、そんな思惑とは裏原に彼女は軽く微笑んだあと、優しい口調でわたしに声をかけた。
「よかったらお試しになりますか?」