文字数 2,375文字

 目的もなくただふらふらと街を歩いていると、自分をごまかしてるような気分になる。彩られたネイルアートは街の景色とうまく融合しているように見えた。
 手の平を人込みの中へかざしてみると、彼らが手に入れられなかった特別をわたしだけが与えられたかのようで、物語はわたしを選んだのだという優越感にとり付かれる。

 あの女の人に声をかけられたとき、きっと運命が導いてくれたんだと思った。彼女はきれいな指ですね、と言って右手の人差し指の爪をケアしてくれたけど、この指があなたの鞄の中にカードを投げ入れたのよ、と心の中でつぶやいてから悲しい気持ちになった。
 そうやってしばらく彼女と向き合っていたにもかかわらず、わたしは結局何も言えないまま店を後にした。指先に彩られたきれいなネイルとともに。

 ネイルアートをしたのは初めてだった。華やかなものというのは気持ちが踊る。だけどその装飾された爪は自分自身を覆い隠す偽りの象徴だった。
 違う、違う、違う、違う、わたしは何度も頭の中でそう叫びながら爪を擦り続けた。
 誰でもよかった。今はとにかく誰かに名前を呼んでもらわないと自分が消滅してしまいそうで怖かった。こうやって人は徐々に自分をしまい込んでいくんだな、そう思った。

 そんなことを考えながら唇を噛み締め必死にこらえていると、近くで人の気配を感じた。
「トモミ? 」
 顔を上げるとそこには知らない女の人が立っていた。わたしはいま名前を呼ばれた。わたしのことを、トモミと確かにそう呼んだ。
 叶うはずのない願いが現実となり、喜びと驚きが混じり合う。だけどそんな感情も思い出そうとする力に押し戻されて、わたしはたじろぐことしかできなかった。人違いなんじゃないかと思ったけれど、頭の中は記憶のラベンダー畑でいっぱいだ。
「やっぱり。久しぶりだね。むかしとちっとも変わってないんだもん。元気にしてる? 」
 はしゃいだ様子で彼女は話しかけてくる。答えが見つからないまま、わたしは曖昧に頷き彼女に合わせた。喜んでくれている相手に対して、どなたでしたっけ、なんて口が裂けても言えなかった。
 彼女は約束があるみたいだったけど、まだ少し時間があるからと言って、近くの喫茶店へと半ば強引に連れていかれることになってしまった。

 彼女の名前はまだ思い出せない。喜びが次第に恐怖へと変わっていっくのがわかった。
 窓際にあるテーブル席へ着くと、彼女はまくし立てるように話し始めた。豪快というか気が強いというか、わたしとは対象的だなと思いながら、そんな彼女の性格のおかげで笑っているだけで何とかこの場をやり過ごすことができたのは、不幸中の幸いだった。
 きっと会話の流れの中で彼女の名前を思い出すことができるだろうと安易に考えていたが、淡い期待はことごとく打ち砕かれた。
 わたしの以前勤めていた職場での話や学生時代の思い出や、付き合いのなくなった友人や知人の名前が出てきても、彼女の名前は微塵も浮かんでこなかった。

 今はただ行き先のわからない船に乗り、地平線を眺めながらいつ現れるかもわからない大陸を双眼鏡で探し出す乗組員のように、ひたすらそのときを待ち続けることしかできない。彼女の口から発せられる一言一言が現実を拒絶し始めた。
 言葉は杭を片手に襲いかかる小人となり、ガリバー旅行記の主人公のように手足の自由を奪いとっていくようだった。
 彼女の名前を思い出そうとすることに疲れきったわたしは、彼女を知っているトモミになりきることで救われようとした。彼女とわたしに与えられたわずかな時間は気休め程度に不安を取り除いてくれたが、恐れは次々とやってくる。

 皮肉なものね、とわたしは心の中で笑った。追い求めていた理想の世界で、今はただ逃れることに必死になっている。いっそのことやっぱり人違いでした、なんて言われたほうがましだと思ったけど、彼女は過去のわたしをよく知っていたのでそれはないだろう。

 演じ続けるわたしと施されたネイル、そして名前の知らない彼女。視界がぼやけ、偽りという舞台に置き去りにされたわたしは真実へと走りだそうとするが、誰かが肩を引っ張り、そっちじゃない、と言ってから別の方向を指差した。
 わたしは間違ってはいなかったけど、誰かにそう言われるとそうかもしれないと思い始めて、示された道へと足を踏み入れようとしたとき、名前のない彼女の話しが中断した。
「ごめん、そろそろ行かないと」
 そう言うと彼女は席を立ち、またね、と軽く手を振って足早に去っていった。彼女が座っていた席からは微かな香りが漂っている。やがてそれはぽっかりと穴のあいた静寂へと包まれた。そして身体の真ん中が何となく重苦しくなり、胸が締め付けられるというのはこういうことなんだと思った。

 わたしは結局、彼女の名前を呼んであげることができなかった。自分のことばかり精一杯で、腹立たしさが込み上げてくる。名前を呼んでもらえないことよりも、呼んであげられないことのほうが何倍も辛かった。

 わたしは何気なくポケットからカードを取り出し、カップの置かれたトレイへと並べた。わたしという人物が詳細に記されたそれを見て、悔しくて涙が止まらなかった。カードに大粒の涙が落ちると、やがて文字が滲み始めた。
 わたしは誰にも気付かれないようそっと涙をふいてから席を立ち、返却口へと向かうとトレイに散らばったカードをゴミ箱の中へと流し込んだ。

 外は相変わらず多くの人であふれていた。太陽が沈みかけ、街はもうひとつの姿へと変化しつつある。雑踏とともに入り混じった車のクラクション、乱暴に光を放つネオン看板と、どこからやってくるのかわからない甘い匂いと消費された臭気。この街には何だってある。
 わたしはそれらを全身で受け入れると、自然な足取りで人込みの中へ合流した。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み