第1話

文字数 6,045文字

「グッドウィルの泉」
 永見エルマ
 
 冷たい雪の降る夜、一人の赤ん坊が産声を上げた。
 「はあ…はあ…。あなた、ほら見て、私たちの子供よ」
 ミザリエは憔悴しきった目でチャーリーを見つめる。その手には助産師から渡された小さな赤ん坊を抱えていた。
 「ああ、見えてる。見えてるとも。俺たちの子だ。ああ、なんて可愛いんだ」
 涙を抑えられないマスク姿の父が分娩台の側に近寄り子供を抱える。少々グロテスクな顔を見て、思わずそうこぼした。
 「目を瞑っているんだね。写真や人形とは違う。本当の本当に僕たちの子供なんだ。二人の宝なんだ」
 押し寄せる感動も束の間、後の処置を控える赤ん坊は助産師に取り上げられると、奥の扉へと消えた。分娩室には最後まで泣き声が絶えなかった。
 こうして、グッドウィルは泣きながら生まれ落ちた。苦痛に顔を歪ませ、これから身に降りかかる全ての悲劇を思い憂いながら、生を得た。十年間、グッドウィルは成長した。しかし、それは人とは違ったものだった。
 ある夕方、ミザリエがいつものように部屋の掃除をしている時、外から帰ってきたグッドウィルが楽しそうにスキップをしながら、母に近寄った。
 「ままがこれがたべよ、りょりしよ」
 グッドウィルはそう言って、手を差し出す。紅くぬるぬるとした手のひらにはぐったりとして、少し口を開けたネズミを掴んでいた。ネズミがぴぎゅうと鳴く。ミザリエは思いも寄らないものに叫んでしまった。
 「なんでこんなもの持ってるのよ!早く捨てなさい!」
 そう言うと、彼女はグッドウィルの手を強く叩いた。ネズミはゴトンと床へ落ちる。赤くなったグッドウィルの手を見て母ははっと我に帰ると、今度は息子の手を強く握りしめた。
 「ごめんなさい、ちょっとやりすぎてしまったわ」
 良くなかったわと、母はグッドウィルの優しく両手を包み込む。今や願いとなった口癖をボソリと呟いた。
「おねがいだから、エライ子でいて」
 当の本人はというと不思議でならなかった。母がサプライズに喜ばない理由、自分に罵声を浴びせた理由、自分の手を叩いた理由、そしてその後に泣きながら自分の手をさする理由。ひとつとして理解できなかったのだ。本人の中にあったのは喜んでくれるという低次な思考だった。彼はどうすれば良いのかわからなくて、立ち尽くして母を見ていた。ジンジンとした手の痛みはなかなか引かなかった。
 その晩、目が覚めたグッドウィルは自分の部屋からトイレへ向かっていると、リビングで夫婦の会話が聞こえた。
 「私…もう耐えられない。あの子のことを理解できないの。今日の夕、あの子が帰ってきたと思ったら、手にネズミを持っていたの。しかも血まみれのネズミをよ。あの子は家の前で見つけたって言っていたけれど、あの子はもう十才よ?普通なら気持ち悪がるものなんじゃないの?」
 「まあ、落ち着いてよ。確かにあの子は普通の子とは違うかもしれないけれど、お医者さんも言ってたじゃないか。あの子に異常はないし、成長には個人差があるって」
 「五年よ?普通の子が二年で会話できるのに、あの子は言葉を発するのに三年、会話が成立するまで五年もかかったのよ?当時は話しただけでも奇跡だと思ったけど、普通じゃないわ。小学校には入ってから五年間満足に友達もできないし、挙げ句の果てには医者からも近所からも家庭環境を疑われる始末よ。学校の成績も最悪。診断書がなくて学校も手のつけようがないって匙を投げてるわ。それにあの子が学校でなんて呼ばれているか知ってる?ナッツのグッドウィルよ?これじゃあ、あんまりだわ」
 次第に金切り声になっていたミザリエはついに泣き始めてしまった。起きるかもしれないからとチャーリーはなんとか落ち着かせようとする。扉の隙間から見ていたグッドウィルは、なんだか怖くなって足が針金みたいに固まって動けなくなってしまった。
 「この間だって危ないから車と道路には近づかないでって言ったのに、私が目を逸らした一瞬で道路を横切ろうとしてて…危うく轢かれかけたのよ。こんなことがこれからも何度もあるなんて、私にはもう無理よ」
 「無理なんて言わないで。僕等はいつでも乗り越えてきたじゃないか。不妊の時だって諦めなかっただろう?確かにあの時は絶望のどん底だったけど、それでもいつも僕らのそばには神様がついていてくれたじゃないか。そして、あの子達はいつだって僕らの天使なんだ」
 「天使?」
 母の声に一層ヒステリックが増す。振り回す彼女の手をチャーリーは間一髪で避けた。
「天使なんて言い方はやめて!あなたなんにもわかってないわ。そりゃそうよね。あなたが産んだわけじゃないもの。グッドウィルのことも、あの子ことだって、何にもわからないわよね。あの子は…少なくともあの子は生きてるのよ」
 泣くことしかできないミザリエはそれ以上何も言わなかった。チャーリーも完全かける言葉を失ってしまい、部屋には静寂が満ちる。二人が話している間、グッドウィルは怖くて逃げ出したいという気持ちしかなかった。そして、この無音に意を決して部屋へと逃げ込んだのだった。
 その翌日、ミザリエとグッドウィルは何度目かわからない病院へ向かった。グッドウィルはなかなか行こうとせず、朝の支度は難航した。それも尤もで、痛い注射に何かわからないけどゴオンゴオンと音を立ててグッドウィルの体の周りを回るもの、さらには頭を締め付けるヘッドギアなど、グッドウィルからしてみると病院には嫌なものしかない。それらに動かずじっと耐えなくてはならないのが苦痛で仕方ないのなかった。
 今日の来院の目的はウイルス検査だった。死んだネズミがどんな菌を持っているかはわかったものではないと母は心配していた。結果が良好だったことがわかると、グッドウィルはすぐに帰宅を許された。今までよりも早い帰宅に車の中でグッドウィルはご機嫌だった。帰宅後、ミザリエはグッドウィルを椅子に座らせた。
 「グッドウィル。いい加減あんなことはやめなさい。もう二度とネズミには触っちゃダメよ」
 「ぼくの…なにのよいない?」
 「危ないウイルスがたくさんいるからよ。噛まれたりでもしたら大変なんだからね」
 「ちりたい。ぼくわ…のなにがよい…よいない?」
 「…なんでいけないか本当にわかってるの?」
 「まんまあ」
 グッドウィルは小首を傾げている。近くにある人形を手に取った。
 「やろ」
 魔が指すのは一瞬で、頭を床にぶつけるだとか目に人形をぶつけるだとか、そんなことは煮え滾った頭の中にはなかった。ごとごとと音を出しながら跳ね転がると、グッドウィルはやはり泣くほかなかった。
 この日、床についたミザリエが見たのは恐ろしいあの日の夢だった。彼女はきっとグッドウィルのせいだろうと思った。夫婦二人は最寄りで最も大きな総合病院にいた。二才のグッドウェルは父に抱えられていた。青白い廊下の奥の扉を開けると、診察室につながっていて、一人のメガネをかけた老人がいた。パイプ椅子に夫婦が座ると、老人は話す。
 「辛いかもしれませんが、よく聞いてください。お腹の中の赤ちゃんに染色体異常が確認されました。おそらく無事に赤ちゃんを産むことはできません。自然流産という形になるでしょう」
 「そんな…どうにか、どうにか産んであげる方法はないんですか?」
 「こればかりはどうしようもありません。たとえなんとかして子供を産んでも、子供が生き残る可能性は万に一つもありません。本当に残念ですが、赤ん坊を諦めるほかありません」
 母は泣き崩れた。片手で顔を覆い、もう片方は自身のお腹にあてている。父は背中に片手で摩ってあげていた。グッドウィルはというと、父の片腕の中で壁のポスターを必死に見ていた。母は大粒の涙を流していた。
 この後の出来事は、ミザリエにとってもグッドウィルにとっても忘れられないものだった。
 帰宅した夫婦二人の間にはなおも重く苦しい空気が漂っていた。
 「なもわなに?」
 グッドウィルの手には胸にNemoと書かれたちいさなテディベアがあった。苦痛で母の顔が歪む。
 「なで、なにでママはなくの?どおして?うれい?」
 「嬉しいわけないわ。悲しいのよ。もうあの子のことは終わったの。これ以上ママを悲しくさせないで!」
 今までのしつけとは違って少し、苛立ちと悪意のこもった声だった。それを聞き分けられないグッドウィルは、その態度にまるで新しいおもちゃを得たような、楽しい気持ちになった。
 「にええも、にええも、なええも、…なえにも?」
 「もうやめて!」
 そう言ったミザリエはグッドウィルの頬を平手打ちした。慌ててチャーリーが止めに入ったが、母は自分のしようとしていることをやめようとはしなかった。
 「あんたなんて…あんたなんて!」
 グッドウィルは大声で泣いた。この日は一段と頬が痛くて仕方がなかったのだ。
 ウィリアム家は歪みがさらなる歪みを産むサイクルに膠着し、その家庭は泥沼化していた。つまり、グッドウィルが異常な行動を取り、母がなぜこんなことをしたのかと怒号で問い詰める。いつからか、ウィリアム家では日常茶飯事となってしまった。自我の目覚めた幼児が自身の判断で行動し、その結果大人の理解のできないようなことをするのは決して異常ではない。問題がグットウィルの言語的、思考能力的、学習的な知能の遅れだったのは言うまでもなかった。

 グッドウィルの学校生活は彼の家庭に劣らず劣悪だった。グッドウィルがいつものように一人で帰ろうとしていると、二人組が話しかけてきた。ひょろひょろのっぽがティム。ずる賢くて、いろんな悪知恵を働かせてはグッドウィルを騙している。この間は池に突き落とされた。ずんぐりとして太っちょの方がバルスで、図太い神経と横暴さが取り柄の彼は喧嘩もいつも負けなし。その力強さでグッドウィルに暴力を振っているのだった。二人は四六時中どこへ行くにしても一緒で、いつもグッドウィルをいじめる機会を探していた。
 「おいナッツのグッドウィル、お前は根性なしだろ?最近噂になってるんだけどよ、この学校の裏山の奥の洞窟に化け物がでるんだとさ。そこまで案内してやるから、お前確認してこいよ」
 「にかない。ままを、を…がぁ?おこらる」
「ナッツのくせに生意気だな。お前は口答えせずに俺たちの言うことを聞いとけばいいんだよ」
 バルスが右腕を掴むと、すかさずティムが左へ潜り込んできて、その両手で細い左腕を握りしめた。グッドウィルは身を振るって抵抗する。二人はそんなの関係なしに裏山へと連れていった。
 裏山は木々が鬱蒼としており、背丈の何十倍もの高木が彼らを見下ろしている。動物か何者かが常に一定の距離を保ってこちらをのぞいては、木々の奥へと消えてゆく。いつのまにか青い空は深緑色の天井に変わっていた。二十分ほど歩き続ける。
 「おい、グッドウィル。お前怖くなってきたんじゃねえか?いまにもチビっちまいそうなんだろ?」
 「へへへ、怖くなってるに決まってるよ」
 ティムは薄汚い笑みを浮かべている。
 「にかない。かえってじゃないとおこらる」
 「なんだてめえ、強がってんじゃねえぞ!」
 大きな声に反応したカラスが一斉に飛び跳ねた。
 「もうちょっとで着くはずだ」
 前日の雨のせいでぐちょぐちょとぬかるんだ地面を進む。勾配のある坂を登っていると、一際地面が盛り上がった場所に出た。その先が真暗闇の洞窟がひっそりとあった。
 「ここがあの洞窟だな。よし入ってこい」
 「はいってこいたらうち変えれる?」
 「ああ、入って無事戻って来られたらな」
 戻って来られたらな、と繰り返すティム。二人はうすら笑いを浮かべる。
 グッドウィルは躊躇なく洞窟へと入る。中はジメジメとしていて、肌寒さに鳥肌が立った。当然ライトなど持っていないため、暗闇の中を進むことになり、グッドウィルは薄目ですたすたと歩いていく。足音が洞窟内でこだまする。洞窟はかなり小さいようで、五分ほど歩いていると分かれ道にも出会わずに最奥へと辿り着いた。そこには花緑青色に光り輝く泉があった。半径二メートルもないが、底は見えないほど深いようで、泉縁には苔が茂っている。
 グッドウィルは泉に惹かれるように側へ近寄り、中を覗いてみた。底は見えない。面白いものも何もなく帰ろうと、泉を背にした時だった。
 これはまた珍しいお客さんですね。
 グッドウィルは振り返る。そこにはなにも変わらず、泉が佇んでいる。
 私は泉の妖精です。ここへ訪ねてくれたお礼に、あなたの欲しいものを一つ与えましょう。
 「なんでも?」
 摩訶不思議な状況に好奇心をそそられる。恐怖はなかった。すこし考えてからふと母の口癖を思い出す。
 「本当になんでもいいの?」
 ええ。
「ならエライ子?にして。ままがいつも言うの。エライ子、エライ子。まま泣くんの。かぁいそう」
 それは良い願いですね、と微笑んだ。
 どれほど賢い子になりたいのですか?
「うーん、ばろすとちむ?」
 それでは、その二人を連れてきてください。そしたら、あなたのことを賢くしてあげましょう。
 入り口に戻ると、二人の手にはスコップが握られていた。
「な、なあ、バルス。ここまでやる必要なかったんじゃないのか?わざわざ化け物がいるなんて嘘ついて」
「いいから黙って掘れよ。お前もぶっ飛ばされてぇか?」
「おーい」
 二人は素早くスコップを背中の後ろへ隠す。
「うえ、思ったよりも早いぞ」
 グッドウィルは二人に近寄る。
「いっそになかにきて。そしたらエライ子」
「こいつは驚いた。とうとうナッツの中身が空っぽになっちまったようだ。何言ってんだ、おめえ?」
「ようせい」
「ほう、じゃあその妖精とやら見に行こうか」
 ニシニシと笑う二人。新たなおもちゃの種を見つけたのだから、水を注がずにはいられなかったのだ。ティムは洞窟の余りの暗さに尻込みしたが、バルスに殴られるのもまた勘弁だった。三人は洞窟へと入り、泉まで辿り着く。二人組は例の泉を覗くがそこには泉水があるだけだった。
「なんだよ。何もねえじゃねえか」
 何もないじゃねえか、とティムが繰り返す。やめだやめだとバルスが帰ろうとしたその時、妖精がグッドウィルに語りかけた。
 二人を泉に落としなさい。
 不思議に思ったが、言われたままにグッドウィルは泉の縁に立つ二人の背中を突き押した。
「何すんだてめえ」
 首から上を出してバルスが上がろうとしたそのときだった。泉は音もなく一瞬で二人を飲み込み、あっという間に二人は深い底へ姿を消していった。もがき苦しむバルスをグッドウィルはなにも言わずに見下ろしていた。
「ばろす?ちむ?」
 代わりに答えたのは妖精の声だった。
 今あなたはこの二人の知識を得ました。きっとエライ子になれることでしょう。
「妖精さん?二人は?」
 それきり泉は何も応えなかった。グッドウィルはしかたなく帰ることにした。

 
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