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文字数 13,212文字

 うわああああああああああああああああああああああああああっ
 と魘されて、目覚めると土曜日。つまり今日は花火の日。それは俺がボコられる日。
 朝起きて、ゲロを吐いた。ずっと食欲が無くて胃の中が空っぽだから、出て来たのは色の無い酸っぱい液体だけだけど。何か喰わなきゃ。
 登校拒否の苛められっ子になった気分。いやいやそんなもんじゃ無い。時計の秒針が動く度に、首吊り台の階段を上っている気分だ。
 九時四十七分。
 あと十時間十三分。
 十三分と言う半端な数字が、これまた不吉だ。
 俺は結局、仲間に助けを頼まなかったし、頼めなかった。ベッドで横になる時も、メシを喰う時も、便所にいる時も、風呂に入っている時も、常に近くに携帯電話を置いていたけど、結局誰からも連絡が来なかった。くだらない見栄を張ってつまらない嘘なんか吐いた所為で、俺は大事な友達まで無くしてしまったみたいだ。後悔先に立たず。その通り。昔の人は良い事を言ったもんだ。身に沁みるよ。
 今日は昼間の仕事が休みなのか、お袋が味噌汁を温めてくれた。お握りとミートボール。お握りは具無し。ミートボールはレトルト。相変わらず手抜きメニューだけど、食ったらちょっと泣きそうになった。決して美味くは無いけど、これは最高の飯だ。
「今日は休みなの?」久しぶりに俺から話し掛けてみた。
「ん? 夜からお弁当屋さんだよ。トシちゃんはどっか出かけるの?」
「まあ、夜にね」
「あんまり夜遊びばっかしてると、ろくなもんになんないよ。勉強ばっかやっててもろくなもんになんないけど」
「うるせえなぁ」
 俺は、お袋のこう言う所が好きだ。お袋は俺を縛り付けない。男の子は男の子らしく外で遊んで怪我して帰って来るもんだ。小さい時から何度もそう言われていた。中学になって俺が問題を起こす度に、何時も先生の前で号泣したお袋。ごめんなさい、本当は優しい良い子なんです。そう言って俺の頭を押し下げながら、子供みたいに泣いてくれた。その後二人になった時、ぺろっと舌を出して、いい演技だったでしょ、なんて笑ったりしたけど俺は知っている。あんなの演技で出来る筈ないじゃん。俺を食わせる事に必死で、女の色気なんて一ミリも残って無いけど、お袋は世界一の女だ。
「昼ご飯は? 何食べたい? たまにはちゃんと作るよ」
「冷蔵庫のもん適当に食うからいいよ。夜遅いんだろ、いいよ寝てて」
「あ、そ。楽な子だねえ」
 もしかしたら、お袋の飯を食うのも、お袋と話すのもこれで最後かも知れない。まあ、殺される事は無いと思うけど、どうなっちゃうかなんて分からない。本当は昼飯を作って貰いたかったけど、言えなかったな。先に死んだら泣くだろうな。嫌だな、死ぬの。
 優しい良い子に育たなくて、ごめんな。
 
 部屋に引き蘢ってプラス思考のイメージトレーニング。二中の錦戸は、俺よりチビだけど筋肉ムキムキのマッチョマンだ。小学生の時、空手の全関東大会で優勝した事があるらしい。中一の時、自分より二十センチも背が高い高校生をハイキック一発でKOした話は、こっちでも伝説になっている。運動神経が並みじゃ無いらしく、バック宙どころか側宙まで余裕で決め、指二本で逆立ちしてそのまま歩くって話も聞いた事がある。二回ぐらいしか見た事が無いけど顔は白いゴリラって感じで俺の方が余裕で男前だが、あんな顔でも女には滅茶苦茶もてるらしい。俺から見たらゴリラでも、女から見たら中田なのだ。
 やばい。
 勝てる気がまるでしない。
 テレビで見る格闘技では、空手家はパンチでの顔面攻撃に慣れていないみたいで、顔を殴られてやられる事が多い。奴に勝てるとしたら、ちょっとぐらい蹴られても我慢して、思いっきり顔を殴ってやるしか無い気がするけど無理だろなあ。この前みたいにバットか何か武器を持って行くっていう手もあるけど、それで向こうもエスカレートして武器を持ち出したら、確実に殺される。俺は一人で行くけど、あいつらはきっと何人かで来ているだろうし、そうで無かったとしてもあっちには黒澤がいるから数でも確実に不利だ。面倒見てるとか言ってたもんなあ。黒澤にだって勝てそうも無いのに、怪物二人も倒せる訳が無い。取り敢えず謝って何発か殴られて帰って来るっていうのが、一番ましな気がして来た。それってかなり辛いけどね。仕方無いか。
 と、思っている内に、何時の間にかもう昼過ぎ。
 台所でテレビを点けると、みのもんたもタモリも出ていない。間違い無く、今日は、土曜だ。人生最後になるかも知れない飯にインスタントの焼きそばを選び、食い終わった鍋を洗った。柄にも無く流しにたまった他の食器を全部洗って、洗濯物を全部取り込んだ。
 お袋は居間で寝ている。ピンクの寝間着からだらしなく腹が出ている。お袋がボリボリ掻いている臍の下の傷は帝王切開の痕で、俺がこの世に生まれて来た印だ。
「疲れてんだなあ」
 弁当屋が二十四時間営業なんて凄い時代になったもんだ。

 何も解決策が思い浮かばないまま、時間だけがどんどん過ぎて行く。蜩がカナカナ鳴き始め、何だか切ない夕暮れ。外から幽かに、下駄やサンダルがアスファルトを擦る音が聞こえる。皆、土手に向かっているのだ。窓を開けて下を見る。オンボロ四階建て公団住宅の二階の窓からは、浴衣の女を連れたカップルが、一分間に五組ぐらいの頻度で通り過ぎて行く。皆、手をばっちり繋いで幸せ絶頂って感じだ。花火が終わったら、みんなあの腰の紐を引っ張って浴衣を脱がすんだろうなあ。俺はふんっ、と力を入れて、建て付けの悪い窓を閉めた。羨まし過ぎる。ベッドにダイブ。
 目を閉じたら、顔を真っ赤にしたオカッパの女の子が瞼に浮かんだ。
 何と無く携帯電話を開いて、高木優子の番号を表示する。俺が番号を知っている事も、きっと高木優子は知らないんだろうなあ。発信ボタンに親指を掛けたら胸がどきどきして来た。いま何してんの? これから俺と花火行かない? なんて絶対無理。俺はこれから錦戸と喧嘩だ。喧嘩になればまだ良い方で、一方的にぶん殴られて二度と高木優子に会えなくなるかも知れない。電話する勇気なんて、元々無いし。
 はぁ
 って何やってんの、俺。寝返り打った拍子に思いっきり発信ボタン押してんじゃん。
 液晶画面に出た〈発信中〉の文字。呼び出し音がなる前に、俺は慌てて電話を切った。
「セーフ」
 窓の外が騒がしい。笑い声。黄色い声。取り残された、俺。
 一人でいると何時もの癖で、何と無くちんちんに手が伸びる。日によって違うけど、今日は百パーセント皮被り。怖い思いをした時に、きんたまが縮み上がると言うけど、今の俺は、竿まで縮んで、自分の殻に閉じこもっている。親子揃って情け無い。
 !
 ちんちんの皮を剥いた瞬間、携帯電話が鳴った。遂に来た。たぶん水田か佐藤だ。きっと仲直りに俺を花火に誘って来……と思いつつ携帯を開いたら、液晶に表示された四文字は、
〈高木優子〉
 俺はベッドから跳ね起きた。捲ったばっかりの皮が、一瞬で元に戻ってドリル状。マシンガンを連射しているみたいに、心臓が暴れまくっている。
 何で?
 俺は五コール分迷って、電話に出た。
「もしもし」
「あ、高木だけど今電話くれた?」
 喉が乾いて、必死で唾を溜めた。セーフじゃなかったの? どうしよう。何て言えばいいんだ、俺。
「え、した、っけ? 間違えたかも」
「あ、そ。間違いか」
 沈黙。五秒の沈黙が、果てしなく長く感じる。何か言え、俺。思いっきり口を窄めて、やっと溜まった唾液。飲み込んで、喋れ、俺。
「花火いかないの?」
「じゃあ切るね」
 同時に言って、また沈黙。どうしよう。息が荒くなって来て、死ぬ程恥ずかしい。聞かれてるかな、はあはあ言ってるの。まるでストーカーみたいじゃん。
 言葉が出ない。そのまま切られるかと思って半分諦めていたら、ソプラノの声が、俺の鼓膜を震わせた。
「うん。行かない。勉強あるから。トシちゃんは? 雄基くんとかと行くんでしょ?」
「あ、俺……、今ちょっと水田と仲悪いんだ……。どっちにしても今日他に予定あるし」
「ふーん」平べったい声で、冷やかすように高木優子が言った。「じゃあ彼女と行くんだ。トシちゃん意外と人気あるからね」
「違えよ」
 俺は、かっと熱くなって来て。
「ふーん。別にいいけど」
「違えって、誤解すんなよっ」
 つい、声を荒げた。
「だから別にいいって」
 何でこんなにツイて無いんだろう。最近の俺は、何をやっても上手く行かない。俺は高木優子に聞こえないように小さく溜息を吐いて、情け無い程の小声で言った。
「彼女なんかいねえよ。ちょっと……俺……今……二中と揉めててさ、喧嘩しに行くんだよ。一人で」
「え、馬鹿じゃないの」
「馬鹿で悪かったな」
 また、カッとなった。もう嫌だ。自分が、嫌いだ。
「やめときなよ」
 高木優子の声が、急に険しくなった。
「男にはな。負けると分かっていてもやらなきゃなんない時があるんだよっ」
「何それ、馬鹿じゃないの。漫画の読み過ぎだよ」
「うるせえな」
「じゃあ切るね。いい。やめときなよ」
「え、待てよ」
 ツー ツー ツー ツー
 って、また、一方的過ぎるよ。そう言えば子供の頃からそうだった。あいつは人の話を聞かない。
 俺は携帯電話を握りしめたまま、中腰で放心した。パンツを間抜けに下げたままで。

 はぁ
 溜息を吐いて、またベッドにダイブ。
 携帯電話の着信履歴。その一番上に、高木優子。俺は表示をそのままにして、電話を閉じた。何と無く、終了ボタンを押したく無かった。
 そう言えば、あいつ、俺からの着信だって分かってたような口振りだった。だとしたら何で俺の番号知ってたんだろ。聞いてみたいけど、聞いたら墓穴だ。逆に聞かれるに決まっている。じゃあ何で私の番号知ってるのって。
 ま、いいや。
 仰向けの大の字になって天井を見る。子供の時から見ている天井の染みが、怪物になって俺を食おうとしている。
 光った。
 花火の弾ける音がして、窓の外がちょっと明るくなった。
 そろそろ、行くか。
 クレヨンしんちゃんの時計を見ると、七時半だ。まだ三十分あるけど、もうここでくさくさしていたくない。階段を下りて表に出ると、花火。奇麗だ。紫や緑のでっかい丸が次々と開き、ちょっと遅れで、俺の体全体に音が迫って来る。金色の筋が空を流れて、鳥肌が立つ程、奇麗だ。
 花火。
 さっき生まれて今死ぬ、巨大な生き物みたいだ。煙の匂い。競い合う光。うっとりする。でももう、見ない。

 振り返って、歩き出した。
 どーん ぱっぱぱらぱっぱっぱぱぱ どーんどーん ぱらぱぱっぱぱ
 花火に背を向けて、俺は空き地に向かう。遅れて来たカップルが、駆け足で擦れ違って行く。ラーメン屋の親父が、孫と一緒に空を見上げている。サラリーマンの兄ちゃんが。煙草屋のじいさんが。不法就労のフィリピン人が。タンザニア人。かどうかは分からないけど、瞳を潤ませた黒人の男が。みんなが立ち止まって見ているのと逆方向に、俺は真っすぐ歩いて行く。背中の真ん中に、冷たい汗を掻きながら。
 土手に向かう道は珍しく渋滞していて、車の中の人達も、嬉しそうに空を見上げている。花火渋滞に託つけて、いちゃつき始めたカップルも居る。爆音でダサイ曲をかける奴。クラクションを鳴らしまくる馬鹿。そんな中、殆ど交通量の無い逆車線を走って来た車が、俺を追い越して何故か停まった。
「あれ、やっぱりそうだ。君こないだの子よね」
 黄色いZ。窓から顔を出したのは、早乙女艶子。おかみさんだ。あぴこ。
「あ、どうも」
「若いのに花火行かないの?」
「はい、いかないっす」
「あらそう。奇麗なのにね」
 見返ったおかみさんの顔に赤い光が反射して、艶っぽかった。
「おかみさんの方が奇麗っすよ。なんて」
 言ってからしまったと思ったけど、言っちゃったもんは仕様が無い。どうせ早乙女艶子から見たら、俺なんかただの洟垂れ小僧だ。しかもこの人、どすけべの変態だし。
「あら。あなたお世辞がうまいのね。そうだ、こんどまた遊びにいらっしゃい。親方もあなたたちのこと気に入ってるみたいだから。滅多に無いのよ、そんなこと」
「はい」
「豊田と本田も遊んであげてね。こっちに友達もいなくてさびしいのよ。あの子達」
「はい。生きてたらまた行きますよ。今から喧嘩なんで」
「あら。男の子ね」そう言って早乙女艶子は煙草を銜えた。高そうな黒いガスライターから炎を吸い込み、メンソールの先が赤く焼ける。薄荷の匂いのする煙を形の良い唇から吐き出して、彼女は言った。「負けないようにね」
 ぞくっとした。まるで女優だ。て言うか元本物の女優か。映画のワンシーンみたいな状況に、俺も負けじと気取ってみる。
「まあ、それは多分無理なんで、なるべくカッコ良くやられて来ます」
 格好良く言えたかな。
「あ、そう。頑張ってね」
 女優は唇の端で微笑んで、アクセルを踏んだ。たっぷりとした黒髪が風に靡いて、あの時と同じ香水の香りを残して行った。すけべ液。
 黄色いZは、がらがらの車線を真っすぐにかっ飛んで行き、すぐに見えなくなった。

 どーん ぱっぱらぱっぱっぱぱぱぱ どーんどーん ぱらぱぱっぱぱ

 着いちゃった。
 空き地の前に、金髪のひょろい奴が二人。阿呆みたいに口を開けて、花火を見ている。見慣れない顔だ。二中の奴に間違い無い。やはり奴等は複数で来ている。黒澤と錦戸を入れたら、少なくとも四人か。
 やめときなよ。
 高木優子の顔が浮かんで、一瞬逃げて帰ろうかと思ったけど、やっぱり止めた。そんな事しても問題を先送りにするだけだ。
 負けてもいいや。死ぬのはやだけど。
「なるべくカッコ良くやられて来ます」
 呟いて、煙草を点けた。百円ライターが石を擦る音で、俺に気付いたひょろい奴二人が、殺人事件を目撃した家政婦みたいな顔をして、空き地の中に走って行った。
「来た来た来た」「木島来た」
 俺は思いっきり煙を吸い込んで、吐きながら小走りになった。ワイヤーの切れた杭の隙間からリングイン。
 どーん ぱぱぱらぱっぱっぱらぱぱ どーん ぱらぱぱっぱぱ
 花火の光に照らされて、二中の奴等と黒澤が赤く浮かび上がる。1。2。3。4567? 何と全部で七人もいる。でもまあ、四人も七人も百人も、最悪なのは一緒だ。もう一回煙を吸って、もったいないけど煙草を捨てた。足元で、小さな火花が散った。
「あれあれ、流石喧嘩の強い俊政くん。一人で来たんだ偉いねえ」黒澤が何時もの薄気味悪い笑いを浮かべながら、ぺっと唾を吐いた。「つまんねえな。喧嘩にならねえだろそれじゃあよお」
 家に居る時は、小便をちびるくらいビビると思っていたけど、こうして奴らを前にしてもそれ程怖く感じない。きっと花火の所為だろう。点滅する光。鼓膜を震わせる爆発音。現実感が、奪われてしまった。
「まあいいっすよ。ぱっぱとやっちゃって花火行きましょうよ」
 錦戸はヴァンダレイ・シウバみたいに手首をぐるぐる回し、俺なんか眼中に無いって感じの目で、空を見上げた。筋肉質の体にTシャツが張り付いて、乳首の場所が丸分かりだ。白ゴリラ、だった筈の錦戸の顔は、日焼けと花火の照り返しで真っ赤になっている。発光する空から視線を下ろした錦戸の顔には、黒澤と同じ薄笑いが貼り付いて居る。お前なんかに負ける訳が無いって感じの、苛められっ子を見るような、憎たらしい笑いだ。まあ、その通りだから仕様が無いけど。乳首当てゲームをやりに来たんじゃない。俺は一人でここに喧嘩をしに来て、七人も相手じゃどう考えても勝ち目が無い。
「そうだな。せっかくだから行くか、花火。俺ちょっと女呼んどくからその間にやっちゃっていいよ」
「よし、じゃあやっちゃいますね、早くやんないと終わっちゃいますから」
 ザザッ
 横一列の真ん中から、摺り足でステップインして来た錦戸が、俺の一メートル前でファイティングポーズを取った。展開早過ぎ。俺はてっきり、何でこんな下らない嘘を吐いたかの説明をねちねちいびられながら延々とさせられ、結局最後に土下座させられ、その後ボコられるって感じの流れを想像していた。全然予想と違うんですけど。まあ、さっさとやられちゃった方が、いくらかましだけど。と思っている内に、
 来た。
「シュッ」
 俺の顎目掛けてパンチが来る。
 俺は反射的に右手で錦戸のジャブを払った。
「ぬぐっ」
 体がくの字に折れた。鳩尾が苦しくて、息が出来ない。ジャブは、フェイントだった。奴は当てる気の無いパンチを伸ばしたままクルリと回転し、ガードの空いた俺の腹に、遠心力を効かせたバックスピンキックを叩き込んだ。
「どっすか、黒澤さん。後ろ蹴り。これ昔から俺の得意技なんすよ」
「あ、ごめん。メール打ってて見てなかった」
 恍けた会話に残りの五人が笑い、調子に乗ったゴリラが舌を出して戯ける。
「なんだ、いい感じで決まったのになぁ。じゃあもう一回やるから見ててくださいよ」
「ちょっと待って、メール送っちゃうから。あ、今送った。いいよ」
「じゃあお前、同じ事やるから頑張って立ってろよ」
 錦戸が構える。俺をおちょくるように舌を出す。前足が半歩動いて、ジャブが来る。
 カッとなって頭が熱くなった。
 畜生。
 俺は、覚悟を決めた。こんなんじゃ余りにもカッコ悪過ぎる。俺は動かないサンドバッグじゃ無え。このまま何もしないでやられるのは嫌だ。このままやられたんじゃこの街に居られない。一発でもいい。こいつの憎たらしい顔にパンチを打ち込んでやる。腹を蹴られてもいい。こいつが振り返ると同時に、飛び込んで鼻を折ってやる。
 錦戸のパンチが、俺の鼻先でコースを変える。やはりフェイントだ。
 舐めやがって。
 俺は後ろ足を蹴って踏み込んだ。腹の筋肉をぐっと締めて、右ストレートを伸ばす。高速回転して振り返った錦戸の右足が、跳ね上がる。
 しまった。
 裏をかかれた。狙われているのは、腹じゃ無い。奴の足は、俺の右の顳かみを狙っている。俺は構わず、右拳に力を込めた。
 ぐしゃ
 鼻が潰れる確かな感触がして、錦戸が倒れた。倒れ際、遅れて来た奴の右足が俺の右肩を撫でる。
 大ラッキー。
 ヤケクソで出したパンチが、結果的にカウンターパンチになった。錦戸はビビってサンドバッグになった俺が腹をガードすると予想して、がら空きになる筈の頭を狙っていた。まさか反撃されるなんて思いもせずに。カッコ良く決める筈だった大技、大失敗。残念でした。ざまあみろ。お前なんか、殺してやる。
 俺はそのまま錦戸の体に馬乗りになって、狂ったように拳を打ち込んだ。
 どーん
 花火が弾ける。
 俺は切れた。
 もうどうなってもいい。何もしないで惨めにやられるくらいなら、この乳首丸分かりのムキムキ赤ゴリラをぶっ飛ばして殺される方がまだましだ。これで良かった。後悔は、無い。
 一発。
 二発。
 三発。
 四発。
 嘘だろ。
 五発殴った所で、きんたまに激痛が走った。興奮して中腰になっていた俺の股間を、錦戸が右脛で蹴り上げたのだ。
「くぅおのやろーっ!」錦戸は右足をそのまま折り畳み、今度は足の裏で俺を引き剥がすように鳩尾を蹴った。「てめえ、反撃してんじゃねえよ」
 振り出しに戻った。
 俺は斜め後ろに吹っ飛ばされ、腹ときんたまを押さえながら立ち上がった。
 鬼の面を貼付けたような錦戸の顔が、迫って来る。
 痛みに耐えて、何とかファイティングポーズを取る。まだ、負けた訳じゃ無い。その証拠に、奴の足元もふらついている。
 錦戸の間合いに、入った。
「せいやっ」空手の気合いと共に、奴が右拳を突き出す。
 俺はまた、錦戸の懐に飛び込んだ。
 右ストレートが、髪の毛を千切りそうなスピードで、頭の上を、通り過ぎて行く。俺は一旦低くした体を伸び上がらせながら、錦戸の太い首に、右腕を絡ませた。腕の関節がぴったりと喉仏に触れた瞬間、巻き込むようにして、投げた。
 奇跡だ。
 神様は、いた。
 決まった。
 相撲部屋で見た、あの技。露西山の真似。首投げだ。
 錦戸は俺の体の下で、驚愕に目を見開いている。今度こそ失敗はしない。俺は二度ときんたまを蹴られないように腰を密着させて、完璧なマウントポジションを取った。
「うおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおっ」
 どんぱらっどんどんぱっどんぱっぱらららどどんぱっぱららどんどんぱっ
 吠えた。
 一発。二発。三発。四発。五発。六発。今何発?
 錦戸の口から、泡の混じった血が溢れた。妄想の中だけど、ニコニコプラザの駐車場で殴った時みたいに、錦戸の目が光を無くした。自分の右手の小指が、あり得ない方向に曲がっている。折れている。なのに痛みを感じない。返り血が目に入って、シャツの裾で拭った。その時、後ろ頭に衝撃を受けた。多分、誰かの膝蹴りだ。意識が一瞬、遠くなる。血塗れの赤ゴリラから引っ剥がされて、今度は俺が、馬乗りで殴られる番が来た。
 ああ。まあ、そうだよな。一対七じゃ死にに来たようなもんだよ。
 誰かの拳が、俺の頬骨を打った。砂利の粒が、後頭の頭皮に食い込む。
 あーあ
 終わりだ。まあいいけどね。

 どんぱららっどんどんぱっぱらららどどんぱっぱららどんどんどんどんぱっ

 何発殴られたかな。空が光っている。真上を向いて殴られているから、花火が見られなくて残念だ。ちょっとブリッジしたら、逆さまになった花火が見えるかも知れないけど、もう無理だ。そんな元気は、残っていない。それに逆さまに見たって、花火は丸いから。同じか。
 ああ。高木優子と、花火が見たかった。土手に座って。手を繋いだりして。アイツは浴衣。俺はアロハ。金色の簾が流れながら消えるのを見て、奇麗と呟く。お前の方が奇麗だよ。やだ俊政ったら恥ずかしい。赤くなったね。違うわよ、花火の所為よ。
 折れた歯が、確実に三つ以上、口の中で動き回っている。腹を殴られて、塩っぱい唾液と一緒に、全部吐き出した。すぐにまた舌の奥に溜まり出すのは、唾液じゃなくて、血だろう。塩っぱい筈だ。それにちょっと鉄臭い。
 眠くなって来た。寝ちゃおっかな。さっき告白すれば良かった。ずっと好きだったもんなあ。
 ま、こっちは仕様が無いか。
 グッバイ。

 シューッ シューッ

 あれ。
 攻撃が止まった。それとも、感覚が無くなっただけ?
「なんだデブ。何見てんだコラ」ひょろい奴Aの声。
 シューッ シューッ
 頑張って目を開けたら、血が染みた。右手で目を擦ったら、余計ぬるぬるになった。瞬きを繰り返している内に、赤く滲んだ世界がぼんやりと見えて来る。
「何見てんだっつってんだろ豚っ」ひょろい奴Bが凄んでいる。誰に?豚って事はやっぱり。
 豊田。
 本田。
 Tシャツにスウェット姿の二人が、俺の左に立って居る。夢かな? でもこんなヘンテコな夢、見るか? 普通。現実と繋がった夢。そんなのあり得ない。ドラマだったら、ほっぺたを抓ったりするけど、そんな事しなくても、体中、滅茶苦茶痛くなって来たし。
 A「豚臭えんだよっ、帰れっ」
 B「って言うかぶっ飛ばしてやる」
 AとB「うらあああああああああああ」
 ひょろい奴ABが一人ずつ、豊田と本田に殴り掛かり、一瞬で投げ飛ばされて顔から砂利に突っ込んだ。ほぼ二人同時に。コントみたいだ。まあ俺達も多分あんなんだったんだろうけど。
 しかし何で豊田が? 何で本田が? 聞こうと体を起こそうとしたら、肋骨が死ぬ程痛くて動けない。こりゃ絶対折れてるな。何とか状況を把握しようと首だけ振り返って反対側を見ると、顔中血塗れになってぐったりと座り込んでいる錦戸。その横で唖然となって立っている銜え煙草の黒澤。俺の真上では、多分さっきまで俺をタコ殴りにしていた、二中のナンバー234って感じの三人が、豊田と本田を睨み付けている。俺のアングルから見た三人は、顎と鼻の穴。こんな角度から人を見るのは、多分赤ん坊の時以来だろう。一番でかい奴はよっぽど俺を殴ったのか、拳から赤黒い血が垂れている。その血が一滴、俺の腕に落ちて来て、生温い。
「んだぁおらぁ」
 でかい奴が威勢良く体を起こし、俺の体を跨いだ。奴の爪先が肋にちょっと引っ掛かって、俺は呻き声が漏れるを我慢出来ない。残りの二人、どっちも金髪の短髪と長髪が、肩を怒らせて後に続く。
「ふざけた事してっと殺すぞこらっ」でかい奴が本田と対峙して吠える。
 本田は表情を一ミリも変えず、潤んだ瞳で奴を見ている。
「んだよデブてめえ」「殺すぞブタっ」金髪の二人が豊田に吠える。
 シューッ シューッ
 豊田も何時もの如く鼻と口から奇妙な息を吐きながら、細い目の隙間から二人を見て微動だにしない。
 デブ。豚。そんな言葉で二人をビビらせる事は出来ない。あいつらは今まで、何百万回も同じ事を言われて来たのだ。そして二人は強くなった。お前らでは絶対に、二人には勝てない。
 動いた。
 でかい奴が仕掛けた。大振りの右フック。本田は瞬間的に体を低くしたが、耳の十センチ上にパンチが当たり、頭が四十五度横を向いた。でもまるで効いていない。そのまま摺り足で距離を詰めた本田は、パンチを振り切って横向きになった奴の後ろに回り込み、尻の上まで下げたGパンのベルトを掴んだ。
 ふんっ
 でかい奴は南極と北極が瞬間移動した時の方位磁石みたいに空中で逆様になり、首から地面に落とされた。本田は虫を潰すような自然な動きで奴の腹を踏み、呻いた奴は体をくの字に曲げて砂利の上を転がった。
 本田はその後、澄んだ瞳で黒澤を見た。
 ぽんっ ぽんっ ぽんっ
 迫り出した腹を三回叩きながら。

 金髪の二人は、まず短髪の方から動いた。左ジャブ。と思ったらそれはフェイントで、そのまま百八十度右回転。遠心力を使った、後ろ蹴り。あれ? パクリじゃん。俺が錦戸から食らった技と同じじゃん。きっと遊びがてら錦戸に習ったんだろう。あいつ程の切れは無いものの、斜めに蹴り上げた踵が豊田の腹に減り込んだ。短髪の顔がにやけた。決まったっ、大成功って感じで。
 ふんっ
 豊田が金髪の足を掴んで捻った。思った通りだ。まるで効いていない。トヨタのボディは衝撃吸収ボディだ。付け焼き刃の空手技なんか通用する訳が無いし、お前なんかにまぐれは無い。短髪は足首を百八十度回され、筋の切れる嫌な音の後、絶叫して砂利の上を転げ回った。
 もう一人の金髪。長髪の方がどさくさ紛れに豊田の後ろに回り込む。五所ノ関部屋を襲撃した時に、俺が使ったのと同じ手だ。
 長髪が拳を固めてストレートのモーションに入る。
 危ない。
 その時、いきなり走り込んで来た影が空中に跳び上がり、長髪の延髄にドロップキックを食らわせた。滞空時間の長い見事な跳躍。余程運動能力が優れていなければこんな芸当は出来ない。影は倒れた長髪に馬乗りになり、往復のフックを十秒間に二十発の速さでヒットさせた。
「だいじょうぶか? 俊政」紫の花火が、影を照らす。
「まあ、一応生きてるよ、水田」
 新たな足音に振り返る。遅れて来た影。佐藤だ。
「だいじょうぶか?」
「だいじょうぶだって言ってんじゃん」
 喋るだけでしんどいんだから何回も同じ事言わすなよ。何だよみんな。お前らなんか呼んで無えよ。嬉し過ぎるけど。

 シューッ シューッ
 豊田も、細い目の隙間から、真っすぐに黒澤を見た。
 ぽんっ ぽんっ
 大きく二回、腹の肉を叩く。
 豊田と本田が、ぴったりと横に並んで、ゆっくりと、黒澤に近付いて行く。便所で履くようなダサいサンダルが、小石を潰して音を発てる。今あいつらに塩を渡したら、きっと豪快に撒くだろう。
「なんだでめえらっヤクザもんに喧嘩売んのか」
 そう言いながら黒澤は慌ててしゃがみ込み、錦戸の手を引っ張って何かを外した。銀色の光。メリケンサックだ。きっと黒澤は、錦戸にメリケンサックを嵌めておき、奴の体力が回復した所で俺にトドメを刺させようとしたのだろう。俺から取り上げたメリケンサックで。あれだけぶん殴っちゃったら錦戸も躊躇はしないだろう。やばかった。本当に殺される所だった。自分の小遣いで買った武器で。
「ヤクザ舐めてっと殺すぞくぉらぁ」
 ヤクザの使いっ走りの黒澤は、甲高い声で凄みながらメリケンサックの装着を終えた。背中を丸め、ボクサースタイルでフットワークを刻む。両手のリングに赤や緑の花火が反射して、妖しく光っている。
 ちょっとやばいかも。
 黒澤が左ジャブで前に出た。左右交互にジャブを出し、二人を牽制し同時に間合いを測っている。豊田と本田は相変わらずノーガードで、半歩ずつ真っすぐ後退して行く。やばい。二人の弱点、それはガードが下手な事だ。普通のパンチならヒットしても効かないが、鉄の塊で突かれたら豊田と本田でも凹んでしまう。現に、俺はちょっと前に金属バットで本田を伸ばしている。
 前歯の欠けた歯を見せて、黒澤が嗤った。自分より弱い奴を見る時の、憎たらしい気持ち悪い不快な腹の立つ最悪の笑顔だ。喧嘩慣れした黒澤は、決して勝機を見逃さない。
 右の豊田、左の本田と牽制のジャブを二回突いた後、後ろ足で砂利を蹴って豊田にステップインする。
 動いた。
 同時に右肩を前に出しながら腰を回転させ、右ストレート放つ。
 ぐしゃっ
 口から飛び出た血の糸が、ゆっくりと放物線を描く。
 黒澤が真横に吹っ飛んだ。
 どーん ぱぱぱらぱっぱっぱらぱぱ どーん ぱらぱぱっぱぱ
 金属バットがカランと涼しい音を発て、ゆっくりと地面を転がって、止まった。Tシャツを頭に被って胴の長い首無し人間みたいになった影が、空き地の端の暗がりをコソコソと逃げて行く。
〈終わったらバットはどうすればいいの?〉
 あいつはあの時、金属バットを持って帰っていたのだ。俺達がやばくなったら後ろから行く。あの時水田が立てた作戦を、ケーホーは今、成功させた。
「畜生、痛ぇよデブお前らヤクザ舐めん」
 踏んだ。踏んだ。踏んだ。踏んだ。耳の上を押さえて転がりながら喚いていた黒澤は、二人に二回ずつ踏み付けられて動かなくなった。

 終わった。
 胃袋に刺さっていたブーメランが、今消えた。

 ぷんと良い香りがして体をそっと起こされた。この香り。すけべ液の匂い。早乙女艶子。おかみさんだ。肋の痛みも、すけべ液の魔法でちょっとだけ麻痺して、何とか俺は上半身を起こした。腕に触れる掌が柔らかい。助っ人外人に揉み捲られていたおっぱいが、もろに背中に当たっている。
「だいじょうぶ?」
「あ、はい何とか」
 どう考えても間違い無い。豊田と本田を呼んでくれたのは、きっとこの人だ。
 おかみさんは凄い。良い匂いで柔かくて優しくて美人ですけべで自由で、底が無い。好みのタイプとは違うけど、何か滅茶苦茶、いい女だ。
「どう? ちゃんとカッコ良くやられた?」
「はい。まあ、後で恥ずかしく無い感じには」
「そうみたいね。いいなあ青春、青春なんて言っちゃう時点でもうおばさんって事だけどね、でも見て、ほらみんな」
 仲間。仲間。仲間が俺を見て微笑んでいる。水田も佐藤も豊田も本田も、きっと何処かの影で隠れて見ているケーホーも。
「ほんとは駄目なのよ、こんな事しちゃ。でも悪い事ほど楽しいのよね。親方も見に来てるのよ、ほら」
「かいさーんっ かいさーんっ ほらお前ら終わったらさっさと解散しろ。そんな程度の怪我、ぜんぜん大したことぬわいわあ、わぁはっはっはっはっわぁはっはっはっはっ」
 黒澤にメールで呼ばれたのだろう、浴衣姿の明日香と愛が、伸ばされた黒澤と相撲少年二人組、豪快に笑う親方を交互に見て唖然としている。手に持った食べかけのフランクフルトから、ケチャップとマスタードが垂れている。
「すごいねあのデブ」「ハハ強い」
 水田が豊田と本田の肩を叩いて、笑った。
「よっ」
「お疲れさんでございます」「お疲れさんでございます」
 出た。相撲の挨拶。
 佐藤が道路を指差して、水田に何かを伝えたけど、花火の音で聞こえなかった。道路を振り返る水田。じゃあなっ、って感じで手を挙げる。俺は不思議に思って、水田の視線の先を見た。
 自転車。
 片手で前髪を隠した女の子が、猛スピードで走って行く。
 花火が弾けて、金色に光った。
 高木優子。

 しゅるるるるる どーん
 しゅるるるるる どーん
 しゅるるるるる どーん
 しゅるるるるる どーん
 ぱっ
 どんぱららっどんどんぱっぱらららどどんぱっぱららどんどんどんどんぱっ

 振り返って花火を見た。
 光と音が、俺の心臓を掴んだり離したりする。今年の花火大会も、どうやらクライマックスみたいだ。
 余りにも奇麗で、俺、泣いちゃった。
 我慢出来ないよ、こんなの。
 血の混じったこの涙が止まるまで、暫くは皆の方を向けないな。

 どーん
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