文字数 8,929文字

 一昨々日の明々後日。さきおとといのしあさって。つまり今日、木曜日。悩んだあげくに、俺は商店街を迂回して水田の家に向かった。情けないけど。
 最近、あの道を通ると本当にろくな事が無い。嫌な予感が鼻の頭に貼り付いている。順番から言って、今度は二中の錦戸あたりに会いそうだ。まあ奴は学区が違うから、こんな所で会う可能性は殆ど無いが、電車で何処かに出掛けるとしたら、利用する駅は同じだからこっちに来る筈。用心に超した事は無い。もし今奴らと事を構えても、これだけ満身創痍では勝ち目が無い。頼りにしていたメリケンサックも、昨日黒澤の糞に取り上げられてしまった。
 あーあ。
 思えば夏休みの貴重な一週間を無駄にしてしまった。尤も、元々学校なんかしょっちゅうサボってるけど。それでもやっぱり夏休み、平日にサボるのとは気分が違う。なんせ学校中の生徒全員が、合法的に休みなのだ。そんな特別な日を、一週間も損した。悔し過ぎる。俺は貧乏人の子だから、損が大嫌いだ。
 しかし暑い。
 二つ先の交差点に、在る訳の無い水たまりが出来ている。蜃気楼。よく映画とかで砂漠のシーンに出て来て、主人公が走って行くと何も無くてがっかり、っていうあれと一緒。そうだ。近い内に、仲間と海に泳ぎに行こう。思いっきり水と戯れて、失われた夏を、取り戻すんだ。もしかすると、可愛い女と仲良くなれるかも知れない。嫌な事なんか忘れて、仲間と女と俺、海辺を走る。派手な水着の女の胸が、横にした8の字を描きながらゆっくりと揺れる。そう、何故かスローモーション。阿呆な想像をしながら歩いていたら、少しだけ元気が出て来た。
 ホント暑い。
 昨日大雨が降ったからだろうか、今日は特に日差しが強く感じる。散歩中の犬も息切れしていて、とても楽しんでいるようには見えない。汗かきな俺は、元々夏が好きじゃない。しかも、今年の夏は、今の所、人生で最悪の夏。なんて思い始めてまたブルー。

 水田のプレハブの前に着いて、ほっとした。今日は何も起こらなかった。安普請のドアノブを引くと、むっとした男の汗の匂いと煙草の匂い、そして俺の部屋がそうであるように、幽かに精液の匂いがした。自分の家以外で最も俺が落ち着く場所。それが、ここ。
「おう、俊政。久しぶり」
 一番入口に近い所に銜え煙草で寝転んでいた佐藤裕太が、白い歯を光らせて眩しい笑顔を見せた。佐藤は俺達のグループの中で一番の美男子で、何時も洒落た服を着ている。今日もラインストーンで髑髏が描かれたピチピチのTシャツにクラッシュジーンズを穿いている。こんな服は、少なくともニコニコプラザには売っていない。上手い具合に染まった髪も、都内のサロンで染めている。ジャニーズ顔の男前。特別スポーツが出来る訳じゃ無いし喧嘩が強い訳じゃ無いけど、こういう奴は何処の不良グループにもいるもんだ。男前が一人居るだけで俺達の格も上がるし、学校で一番悪いグループに居るだけで奴の格も上がる。
「おう」
 俺はわざと無愛想に応えて、壁際の床に座った。部屋の中には俺以外に三人。残りの二人、水田とケーホーは、対戦型のサッカーゲームをやっている。
「馬鹿テメエふざけんなよ」
「ごめん」
 怒っている方が中学のナンバーツー、水田雄基で、怒られている方がケーホーこと星野慶だ。ケーホーは簡単に言うと俺達のパシリで、馬鹿で気弱なチビ。肝心な時になると必ず何処かに居なくなり、熱りが冷める頃にそっと現れる。常に人の顔色を見て生きているから、危機回避能力が並じゃない。ケーホーと言う変な渾名の由来は、まず仮性包茎であるから。更に名前がホシノケイだから略してホーケイ。暫くはホーケイと呼ばれていたが、流石にそのままズバリは呼ぶ方も恥ずかしいという事になってケーホーに改められた。勿論、本人はこの渾名を気に入っていない。自分より確実に弱い奴に対してのみ度を超して凶暴になるケーホーは、何の戦意も無い真面目っ子を三回病院送りにした事がある。理由は全て、ケーホーと呼ばれたからだと言っているが、俺の知る限りそれは全て被害妄想だ。小狡くて気の小さい変な奴だけど、何故だか不思議と憎めないのは、奴の家が俺と同じような母子家庭だからかも知れない。因にまだみんなには知られていないが、実は俺も密かに仮性包茎だ。剥けばちゃんと剥けるけどね。つやつやしてて、奇麗だし。
「畜生、テメエ俺に勝つんじゃねえよ」
「だってごめん」
「だってって何だよっ」
「ごめんなさい」
 何時もと変わらない二人のやりとりを見ていると、何だか滅茶苦茶、癒される。他にも五人ぐらい仲間と呼べる奴が居るが、本当に親友と言えるのは、ここに居る三人だけだ。
「ケーホーちょっと代われよ」
 俺はコントローラーを引ったくり、水田の横に座った。水田は身長百八十ちょい、がっちりとしたでかい男で小学校まではリトルリーグのエース&四番打者。スポーツ万能で家も金持ち。何の不自由も無かった筈の水田の不幸は、三人兄弟の兄貴二人の出来が良過ぎた事だ。一番上の兄貴は東京の大学、それも東京大学を出た天才で、二番目の兄貴も東大一直線な感じの有名進学校に通っている。おまけに二人共決して勉強ばっかしのもやしっ子では無く、水田に負けず劣らずのスポーツマンだ。長男はテニスで、次男は棒高跳びで中学時代に全国大会に出て入賞までしている。俺やケーホーみたいに片親じゃなくても、グレる要因はいろいろあるもんだ。
「来たか俊政、久しぶり。よし、勝負勝負」
 俺はブラジル。水田はフランス。フランスボールでキックオフ。

 やってる事は何時も同じ。ゲームをやって、漫画を読んで、それに飽きたらエロ話。だんだんエロ話に乗って来ると、四人の中で唯一童貞のケーホーが必ず勃起して笑われる。後はどこのクラスの誰が可愛いとか誰がヤリマンだとか。後輩の誰が生意気だとか地元の誰が強いとか弱いとか。掃除機でちんちんを吸ってみたら痛いだけだったとか。きんたまをじーっと見ていると皮がゆっくり動いているのは何でだろうとか。腹を抱えて笑いながらたわいも無い話をしている内に気付くと夜中になっている。そして今日もそんな感じ。何時もと同じ。
 いや、変だ。
 やっぱり変だ。
 変過ぎる。だって誰も、俺に武勇伝を聞かないじゃないか。俺は二中のトップ、錦戸を倒した男だ、嘘だけど。そう思い始めた途端に、みんなの顔がのっぺらぼうに見えて来た。すぐ近くにいるのに、みんなの声が遠く感じる。不安の黒雲がどんどん広がって来て、会話に入っていけなくなる。やはり明日香と愛がバラしたか。真相を知りたいけど、それを聞くのは無理だ。怖過ぎる。もしバレていたら、格好悪過ぎる。
「どしたの? 何か元気なくね?」
 佐藤が能天気な顔で聞いて来て、俺は更に混乱した。みんな何処まで知っているのか。或は何も知らないのか。真相を知らないとしたら何故、武勇伝を聞きたがらない。良い方に考えれば、日にちが経って興味が無くなっただけって言う可能性もある。
「え? そう見える? 煙草喫い過ぎて肺痛えけどそれでかなあ」
 平静を装ってまた馬鹿話に加わる。何時もの如くインターネットの裏ビデオ販売サイトにある無料サンプル動画を、四つの頭をくっ付けながら観て、「この体位は気持ち良いんだよなあ」とか、「こんな風に潮を噴かせるには指の形はこうだ」とか、嘘なのか本当なのか分からない自慢話をして、最後にケーホーが「いーなーみんな」とフル勃起状態で呟いた所で、夕方五時の夕焼け小焼けが聞こえた。この曲を聞くと、何だか悲しくなる。何で毎日毎日、これから夜が始まるっていう時にこんな切ない曲をかけるんだろう。しかも日本中で。しかもよりにもよって、こんなに不安な時に。

 不安のでかい種を胃袋に残したまま、俺達は何時ものようにコンビニに行く事になった。水田の家から歩いて三分のセブンイレブン前は、俺達の第二の溜まり場だ。出来たばっかりの頃は、しょっちゅうそこで万引きをしていたけど、元不良の店長が気の良い最高の人で、店長と仲良くなってからと言うもの俺達グループの万引きは一切禁止にし、もし他の奴らが万引きをしているのを見つけたら、速攻でボコる事に決めた。
 昼間だったらガリガリ君。今みたいな夕方はカップ麺とジュースを買って、駐車場の縁石で食う。俺は焼きそば派だからUFOを買い、排水溝にお湯を捨てて液体ソースを混ぜる。正直今日は、あまり食欲が無い。でも普段通りに振る舞わないと。
 西の空が茜色になって来た。何時もだったら奇麗だと思える光線が、今日は不吉な事の前兆に感じる。考えれば考える程、何も考えられない。頭の中が空っぽで、気が付くと焼きそばがのびていた。
 漠然とした嫌ーな感じ。例えると、外に出かけている時に、家でゴミ箱に捨てたシケモクの火がちゃんと消えていたような消えていなかったような。そんな感じを百倍にしたような不安がずっと、鼻の奥に貼り付いている。大好きな筈の焼きそばが、今日は泥の味。ぼんやりと遠くを眺めていたら、逆光の中、ヘンテコなシルエットが左右にぐらぐら揺れながら近付いて来た。
 周りを見ると何時気付いたのか、みんなも何となくその影を見ている。近付いて来るに連れ、だんだん影の正体が露になって来た。なんだありゃ。

 自転車。
 ママチャリの二人乗り。
 バランスが取れなくて、ハンドルが滅茶苦茶に揺れている。
 その度に黒板を引っ掻いたような嫌ーなブレーキ音がする。
 タイヤは真っ平らに潰れている。
 デブ二人。

 ぎょっとした。

 浴衣を着た五分刈りのデブがパンクした自転車に二人乗りして俺達の溜まっているセブンイレブンにゆらゆらしながら近付いて来ているそしてその二人のデブのうち前に乗って大汗を掻いて息を切らしている方のデブはあのとき本屋の前で俺を伸ばしたあのデブに間違い無い。

 あいつだ。

 あいつだ。

 あいつだ。

 あいつ……

 何時までたってもこっちに付かない。拍子抜けもいい所だ。あいつら……、馬鹿じゃねえの?
 普通だったら十秒で着くような距離を一分ぐらいかけて走って来る自転車を買い物袋を両手に持ったおばさんが歩いて追い越して行く。その光景は長閑で、何とも微笑ましく、俺は何時の間にか不覚にも口元を弛めてしまった。まるで漫画だ。真っ赤な夕焼けの中、意味の無い二人乗りで、ゆっくりと近付いて来る汗だくのデブ。青春の一頁。
 不意に強い視線を感じた。俺を見ているのは自転車のデブでは無く、水田と佐藤とケーホーだ。
 やっぱり。
 知っていたんだ。
 その視線で確信した。仲間がヘンテコなデブにやられたと聞き、苦し紛れで見え見えの嘘に調子を合わせた。そして今、目の前に地元じゃ見た事の無いデブが現れ、仲間をやったデブが目の前のデブと同じかどうか確かめようとしている。俺の表情から真相を読み取ろうとしている。みんなの目は間違い無く、そんな目だ。俺の脳味噌の中を、そっと覗く目。

 どうする?

 俺は唇を引き締め、取り敢えず笑みを消した。乾いた唇を舐めて正面を向くと、デブはもう、すぐそこまで来ている。やるか。無視するか。迷っている時間は無い。四対二。数では余裕で優勢だ。反撃が来る事を想定さえしていれば、あんなヘンテコなデブにやられる事なんか無かった。今やれば、確実に勝てる。しかも、どうせもうみんなにはバレているんだ。無視する方がよっぽど不自然だろう。
 やっちゃうか。
 縁石に焼きそばを置いた。みんなもラーメンを置いた。デブがやっと駐車場に入って来た。デブの目を見た。目が合った。信じられない事に、デブは俺を無視して目を逸らした。覚えてないのか。俺を。デブが逸らした目線の先にあるもの。それは、俺の食いかけの焼きそばだ。
 それに気付いた瞬間、思わず立ち上がっていた。一瞬で、血が煮えた。
「ブッコロスッ!」
 デブの前に躍り出て自転車を蹴り飛ばした。ギリギリのバランスで二輪走行を保っていた自転車はあっけなくひっくり返り、二人のデブは達磨のようにアスファルトに転がった。浴衣の裾が捲れ上がり、今時小学生でも穿かないような白のブリーフが見えた。
「テメェ何シカトしてんだ豚っ」
 立ち上がって見下ろす俺達四人対転がっているデブ二匹。勝負は決まった。後はボコるだけだ。
 と、思っていた。
 が、もう一言ぐらいカッコ良く恫喝してやろうと口を開いた時には、デブは二匹共立ち上がって仁王立ちでこっちを向いていた。立ち上がる瞬間、ブレイクダンスを踊るように両脚を百八十度開いたように感じたが、余りに予想を超えた動きだった為、目で追う事が出来なかった。俺をやった方のデブは前に会った時と変わらず無表情で、シューッ シューッ と不気味な息を吐いている。もう一人のデブも双子だと言われれば何の疑いも持たずにそうですか道理で似てますねぇと答えてしまうくらい相方とそっくりで、額から大汗を垂らしながら同じようにハァハァ息を吐いているが、よく見るとこっちの方は目が大きく、黒目が濡れて光っている様子は、その部分だけ見れば少年アニメのキャラクターのような可愛さがある。体は豚なのに、濡れた瞳だけがキラキラ輝いているのだ。
 ぽんっ ぽんっ
 唐突に、細目の方が自分の腹を二回叩き、それに続いて
 ぽんっ ぽんっ ぽんっ
 と、アニメ目も腹を三回叩いた。
「何だぁデブ。ナメてんのかコラァ」
 カッとなった俺は思いっきり地面を蹴って細目に突進した。今度こそヘタは打たない。ボディをいくら殴っても、肉のクッションに邪魔されてこいつには効かない。拳をカチカチに固めて鼻先に突き出す。
「死ね豚っ」
 そこにあった物は軟骨を殴り潰す感触では無く、夕焼け空だった。
 俺は右ストレートを伸ばしたままベルトを掴まれ、宙に放り投げられていた。ウルトラマンが宇宙に帰る時の格好で、茜色の空を飛んだ。地面に叩き付けられるまでの数秒が、俺には物凄く長く感じた。
 右肩に激痛が走った。デブ、強い。俺、弱い。やつらが俺に勝ったのは、決してまぐれじゃない事が分かった。それから暫くの間、俺は無様に転がったまま、何も出来ないで成り行きを見ていた。本当に何も出来なかった。ただ、じっと、それを見ていた。口をあんぐりと開けて。湖の畔に横たわる銅像のように、オカマポーズで固まっていた。

 俺が見たもの。
 アニメ目のデブに蹴りを入れた水田は、横っ腹に右脛がヒットするのと同時に、相手の右ビンタで吹っ飛ばされた。カウンターだ。斜め後ろに飛んで行く水田をアニメ目デブは摺り足で追いかけ、地面に叩き付けられると同時に駄目押しのボディを打ち下ろした。アニメのキャラが、地球を真っ二つに割る時の、あんな感じの打ち方だった。水田はデブの手技とアスファルトにサンドイッチされた状態になり、アメリカンクラッカーの紐を引っぱったように口と鼻の穴からラーメンを飛び出させ、気絶した。左の耳の穴からゆっくりと血が垂れて来て、襟足の毛の中に吸い込まれて行くのが見えた。
 男前の佐藤はデブの乗って来た自転車を持ち上げ、細目デブに投げ付けようと構えた。中々良いアイディアだったが、全力で放った筈の自転車は、佐藤の頭に垂直に落ちて来た。水田を殴り終わったアニメ目のデブが、背後から自転車を掴んでいたからだ。佐藤はその後、二人のデブに挟まれ、俺の視界から消えた。数秒後、デブが離れると同時に現れた佐藤は、薄紙が倒れるようにへなへなと崩れ落ち、ジャニーズ系の男前だった筈のその顔は、ぐちゃぐちゃの真っ赤っか。都内のサロンで絶妙な色に染めた髪もボサボサ。ラインストーンで髑髏が描かれた高そうなTシャツは、乳首が見えるまで、伸ばされていた。毎度の如く、ケーホーは上手く逃げ出したようで、何時の間にか何処かへ消えていた。

 その間、俺は一ミリも動く事が出来なかった。人間の敵う相手では無い。三人も相手にした後だと言うのに、デブ達は何事も無かったように普通に自転車を起こし、故障が無いかどうかをチェックし始めた。その時初めて気が付いた。タイヤはパンクしていたのではなく、デブの重みで潰れていただけだった。自転車に問題が無い事を確認すると、デブは二人して満足そうに頷き、立ち上がった。二人共浴衣の紐が緩んで、だらしない体と白いブリーフが丸見えになっている。よく見ると文字までは読めないが、ブリーフのゴム部分に名前のような物が書いてある。黒のマジックで。その後二人は平然と浴衣を直し、コンビニの自動ドアに向かった。そしてガラスの扉が開いた所で、細目の方のデブが立ち止まり、急にこっちを振り返った。
 目が合った。
 細目は既に店内に入ったアニメ目を呼び止め、何かを耳打ちしている。
「あいつ、まだ伸びてないぜ。もっとメタクソにやっちゃわね?」
 俺は聞こえない会話の内容を、こう想像した。アニメ目が頷き、二人のデブが向かって来る。細目は真っすぐ俺の方に。アニメ目は、何故か少しコースを逸れて、伸びている佐藤の方に。もし相手が本当に人間では無く、動物だったら、俺は絶対に死んだ振りをしただろう。否、違う。もし森で熊に出会っても、死んだ振りなんか出来ない。恐怖がそれを許さないのだ。闇が怖くて絶対に目を開けてしまう。俺はゆっくりと向かって来るデブを、ただ見ている。大きく目を見開いて。全身を硬直させたまま。
 怪物がやって来る。
 そしてまた、信じられない事が起こった。デブは寝転がっている俺をひょいと跨いで、縁石に置いておいたおれの焼きそばを食った。半分以上残っていたそばを、三秒で。別の方向からもズルズルと麺を啜る音が聞こえて来る。佐藤の食い残したカップラーメンをアニメ目のデブが食っているのだ。その音は同様に三秒で終わり、発泡スチロールがアスファルトを転がる音がすぐに続いた。
 その後二人はまた何事も無かったかのようにセブンイレブンに入り、数分後、自転車の左右のハンドルに大きいビニール袋をぶら下げて、来た時と同じかそれ以下のスピードで西の光に消えて行った。今度は逆にアニメ目が運転し、細目が荷台に乗って。
 俺はただ放心するしか無かった。
 奴等のさっきの会話は、きっとこうだ。
「さっきの焼きそばうまそうだったから食ってもいいかな」
「俺もラーメン食べたい」

 水田が突然咳をして、口から飛び出した縮れ麺が宙を舞った。ほとんど同じタイミングで佐藤がうーんと唸り、寝返り打って目を開ける。外は大分暗くなっていて、街灯の明かりが灯り始めた。遠くから、誰かの走る足音が近付いて来る。ケーホーだ。
「ちょっと見てこれ大変だよこれ見てよ」ケーホーの手にはしっかりと携帯電話が握られている。「俊政くんこれ見てよなんかこの一本あっちの道の前に何かちょうちんとか変なもん作ってた工場みたいなのあったじゃん、あそこにこんなの出来てたほら見て」
 自分だけさっさと逃げ出した事を有耶無耶にしたいという卑しい魂胆丸見えの早口で、ケーホーが携帯を突き出した。毎度の事だから怒る気も起きず、携帯の画面に目を遣ると、なんか和風の、家の写真。
「なんだこれ」
「なんだこれってあれに決まってんじゃんあいつらきっとこっから来たんだよ絶対そうだよ間違いないよ」
「は?」
「は? ってあれだよあれ、なんて言うんだっけあれ、そうだちょっと貸して」
 一度は俺に預けた携帯を引ったくるように奪い取り、ケーホーは俺に、別の写真を見せた。
 木で出来た看板の写真。
 毛筆体で書かれた黒い文字。

 五所ノ関部屋

「これって」
「あ、思い出したっ相撲部屋!相撲部屋だよ!」
「は? ていうか何であんなとこに相撲部屋が出来てんだよっ」
「知らないよそんなの、でもあいつら確実に相撲取りだよ」
 あいつら、相撲取り。それで全て合点がいった。俺の鼻を折ったのは、張り手だ。佐藤をぶっとばした直後、距離を詰めた時のあの動き。あの摺り足。揃いの浴衣。でも何で、千葉に、相撲部屋?

 俺とケーホーは、取り敢えず水田と佐藤の介抱をする事にした。セブンイレブンの店長に水とマキロンとタオルを借り、まず水田を起こした。水田の左頬から左耳にかけて、手形のような赤い痣が出来ている。意識を取り戻した水田は激しく耳を痛がり、俺は多分鼓膜が破けているだろうと思った。男前の佐藤は顔が倍くらいに腫れていて、鼻と口から血が出ている。くっきり二重だった筈の瞼は、無惨にも歴史の教科書に載っていた埴輪みたいになっていて、もし事情を知らない奴が今の佐藤と擦れ違っても、きっと誰だか分からないだろう。
 晩飯を買いに来る客が、引っ切り無しに店を出入りし、その度に俺達をチラ見して行く。白い目で。
 生温い水気をたっぷり含んだ空気が、重い。
 俺達は何を話せば良いか、何をすれば良いか分からず、何となくそのまま解散する事になった。医者に行かなきゃと言って水田は家に向かい、平衡感覚が変になったのか、耳を押さえて斜めに歩く寂し気な後ろ姿が、小さくなって夜に溶けて行く。佐藤は何も言わずに立ち上がり、肩を落として宵闇に消えた。みんなと比べてダメージの少ない俺と、ダメージゼロのケーホーは、殆ど空になったマキロンと血の付いたタオルを店長に返し、何も買わないのは悪いと思ってジュースを一本ずつ買った。店長は優しい顔でじっと見るだけで、俺達に何も聞かなかった。
「どうしよっか。これから」ジュースを一口飲んで、ケーホーが言った。俺が帰ろうと言うまで、きっとケーホーは帰れないんだろう。自分だけ逃げ出した手前、じゃあ俺先に帰るよとは言えない。そんな顔だった。
「帰ろっか」俺は駐車場の縁石から腰を上げ、残ったジュースを一気に飲んだ。罪悪感があるのは、俺も同じだ。あいつらが凄過ぎて、何も出来なかった。まだ戦えるのに、戦わなかった。体も肩がちょっと痛いだけ。セコい痛みが、恥ずかしい。
 タンクトップを着た巨乳の女がコンビニに入って行くのと擦れ違ったけど、二人共、それについて何も話さなかった。
 ノーブラの乳首が浮き彫りになっていたのに。
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