第3話

文字数 4,603文字

◆二〇一七年◆ 
 会社を出てスマホを見る。まだラインの返事はない。
 大学卒業間際に付き合い始めた彼氏とは、もう五年目になる。年数を経た分だけトキメキは摩耗して、仲は良いけどカップル的なことは最近おざなりだ。もうすぐクリスマスだというのに、何の予定もない。朝送ったラインに既読すらつかない。怒ったって、どうせ仕事が忙しいんだと言うのだろう。私だって忙しいけど、どうにかやりくりしてるわ。社会人何年目だ。イライラしながら、雨上がりの新宿を歩く。濡れたアスファルトに光が反射して綺麗なのに、どこか下水臭い。
 きっと私の仕事なんて大したことないって思っているんだろうな。会社も新宿だし。その点、彼氏の会社は丸ノ内だ。格上だ。会社の知名度も、あっちの方が抜群に高い。
 会社の同期に彼氏の話をすると「絶対手離さない方がいいよ!」とみんな口を揃える。うちの会社は出会いも無いし、あったとして、各段に今の彼氏より条件が劣る。合コンや婚活アプリを頑張っている子もいるけれど、あれはどこか格下感がある。自然な出会いで付き合って、そのまま結婚するのが、一番序列が高い。暗黙の了解で。
 序列、序列、序列。いつからこんなに、序列を気にするようになってしまったんだろう。自分を雑に扱う彼氏を切ることさえできない。たぶんクリスマスだって、向こうの家でセックスしてダラッとして終わりだ。腹が立つ。なのに私は、「全然気にしていないよ」って、ものわかりの良い女ぶるんだ。だってもう二十七で、周りは結婚・出産報告で溢れている。晩婚化しているとメディアは言うけど、あれって嘘だと思う。人生がトントン拍子に進む人と、そうでない人の溝がどんどん大きくなっているだけなんじゃないか。受験も就職も結婚も、順調な人はスルスル進み、一度乗り遅れたらずるずると周回遅れになる。だからどうしたって焦るのだ。一度だって、機を逃してはならない。
 腹が立つ。私と、私をこうさせる全てに。
 あまりにも腹立たしくて、デパ地下で豪遊してやる、と閉店間際のデパートに駆け込む。エスカレーターで地下の食品売り場に降りると、すぐ目の前の中華惣菜店が「期間限定品、タイムセールでーす」と、大ぶりの焼売の詰まった総菜パックを、ちょうどショーケースの上に並べ始めたところだった。何人かが焼売を一瞥したが、誰も買わなかった。ケースの前に行ってみると、半額シールの貼られたパックの側に、『限定・黒豚パイン焼売』のポスターが貼られている。絶妙に食欲をそそられない写真の横に、産地にこだわったとか、調理法がどうだとか、皮がすごいとか、いろんな情報が書かれている。
 私は焼売に手を伸ばす。別に食べたいわけではなく、頑張って、努力したのに、選ばれずに価値を無くすのが憐れだったからだ。何だってそうだ。選ばれなければ意味が無い。
 会計をしながら、それを私に教えてくれた、中高時代の同級生のことを思い出していた。彼女の名前は、ひかりちゃんといった。
 
 私たちは中高一貫の女子校で、コーラス部員として六年間一緒に活動していた。同期部員としての親しさはあったけど、休日に遊ぶとか、深い付き合いをしたことはない。そういう子、ひかりちゃんには誰もいなかったと思う。彼女は学年の中で、疎まれる側の人だった。ガリ勉で、そんなに要領も良くないのに、生徒会に学祭委員に応援団と、何にでも首を突っ込んでくるから。
 「あの子のお母さん、ものすごい教育ママらしいよ」という噂は、いつの間にか耳に入った。ひかりちゃんのお母さんは有名人で、自分が海外の立派な大学を出ていることを、テレビで何度も話していた。ひかりちゃんにもその選択肢を残すため、勉強以外の経歴作りを厳しく指導していたらしい。だからひかりちゃんは、ガリ勉しないと良い成績を取れないくせに、課外活動も闇雲に取り組んで、いつも忙しそうだった。
 立候補する割に、全然楽しそうじゃないし、悲壮感さえある。意見を聞いても困ったように笑うだけで、これといった考えが無い。中身が空っぽだから、周囲の顔色を窺って、合わせることでしか受け入れてもらう方法を知らない。あの年頃の女子は、そういうのをすぐに見抜く。彼女はすぐに見下され、冗談めかしてひどい言葉を投げつけられるような立ち位置に置かれた。彼女に反撃するほどの強さはないと、みんな分かっていた。
 私は彼女を哀れに思いながらも、助けたりはしなかった。傷つけられてもヘラヘラ笑っている彼女の姿が、自分の中の弱い部分と重なったからだ。今だって腹を立てているのに、彼氏にさえ何も言えないでいる。私のそういう打算や弱さは昔からあって、それを直視したくなくて、ひかりちゃんに必要以上に近づくのを避けていた。
 私たちが中二の頃、ひかりちゃんのお母さんが、精子バンクを利用して娘を産んだことを公表した。それによって、彼女はより一層見下されるようになった。
 精子バンクなんて普通じゃない、人工的で気持ち悪い。自然なものの方が「良い」に決まっているのに。アプリや結婚相談所より、自然な出会いを尊ぶのと同じだ。
 なんだ、私たちはあの頃から、序列の虜だった。
 
「ひかりちゃん、部長やりたいみたいだよ」
 同期部員の一人がそう言ったのは、高校二年になる春休みのことだった。その日は休日練習で、駅で会った数名と、ひと気の無い通学路を歩いていた。コーラス部は高二の二学期前に代替わりがある。夏休みに毎年大きな大会があり、それが区切りになっていた。役職付きの先輩は、後継者を直々に指名するのがしきたりで、指名は秘密裏に行われ、他の部員は、引退式で発表されるまで、誰が役に付くのか全く知らされない。
「あ、やっぱり?最近相模先輩にべったりだもんね」と別の子が言う。
 当時の部長はアルトパートの相模先輩で、歌の実力もさることながら、ショートカットがよく似合う背の高い美人で、カリスマ的な人気があった。
「こないだひかりちゃんが先輩と話してるの聞いたけど、すごかったよ、全力のヨイショ」
「指名されようと必死だねぇ。部活でもトップになれって、ママの言いつけかな。うち全国でも強豪だし」
「でも相模先輩も、流石に周りからの人望とか考慮してくれると思うけど……。中学の大会のとき、ひかりちゃん役立たずだったし」
 やいやい言いながら上履きに履き替えて、練習場所の音楽室に入ると、既にひかりちゃんがいて、楽譜を片手に相模先輩に何か熱心に質問していた。隣にいた子が、小さく、うげぇ、と声を出した。
 意識してみると、確かにひかりちゃんの相模先輩への媚の売り方はすごかった。休憩時間には、隙あらば先輩に話しかけて、先輩が言ったことを何でも大げさに褒め称えた。
 そんなにやりたいかねぇ、部長。と私は冷めた目で見ていたのだが、相模先輩に憧れる複数の同期から、ひかりちゃんは本気で嫌われ始めていた。あの子が部長になるなら部活辞める、と言い出す子まで出て、それを同期で一番人格者の、おっかさん的な子がなだめていた。
 そういう不穏な空気を抱えたまま夏が来て、大会が始まった。予選は順当にクリアしたものの、その年は最終的に、全国で四位という結果で終わった。その前年が全国二位だったこともあり、みんな悔しくて泣いた。
 大会が終わってから初めての部活で、相模先輩から部長としての最後の挨拶があった。先輩は目に涙を溜め、自分の不甲斐なさを詫びた。先輩を囲むように部員たちが輪になって立ち、ひかりちゃんは私の向かいにいた。
「私はみんなを入賞に導いてあげられなかったけど、次の部長は、絶対に挽回してくれると信じています」
 相模先輩はそう言って、次の部長の名前を呼んだ。ひかりちゃんではなく、おっかさん的なあの子だった。みんなからの熱い拍手で迎えられ、新部長はハキハキと就任のスピーチをした。私は思わず、向かいに立つひかりちゃんの顔を見てしまった。呆然としていたり、泣いたりしているかと思ったのだけど、ひかりちゃんは周りと同じ、穏やかな笑みで新部長の言葉を聞いていた。
 全ての役職者の発表が終わり、一度休憩に入った。ひかりちゃんも私も、何の役にも選ばれなかった。同期たちは新部長を囲んではしゃいでいたが、私はなんとなく乗り遅れて部室の端にいた。少し離れたところで、ひかりちゃんもぼんやり佇んでいた。そのときひかりちゃんが、独り言ちた言葉が、うっかり聞こえてしまった。
 彼女はぽつりと「意味ないなぁ」と言ったのだ。
 その言葉はやけに、私の胸に残った。そうだよなぁ、選ばれなかったら、何の意味もないもんな。ひかりちゃんは、媚びを売るだけだったわけではなくて、練習もかなり頑張っていたと思う。でも、それも何の意味もなさなかった。彼女は何者にもなれず、選ばれもせず、ただの部員Aのままである。これまでも、これからも。
 私はぼうっと佇むひかりちゃんの横顔を眺めた。それがひかりちゃんに関しての最後の記憶で、その後彼女がどう振る舞っていたかさえ覚えてない。その日から何日も経たずにあのニュースが報じられ、彼女は学校に来なくなった。
 ひかりちゃんのお母さんは、優秀な遺伝子を持つドナーだけを揃えた、海外の高級精子バンクを利用してひかりちゃんを産んだと公言していた。ところが、この精子バンクがほとんど詐欺だったことが発覚したのだ。
 もうとっくの昔に破産したこのバンクは、開設後すぐにドナー不足に陥ったらしく、「優秀な遺伝子」なんてこだわりは捨て、見境なく精子を集め、利用客には虚偽の情報を載せたカタログを見せていた。末期には、どのドナーを選んでも、提供されるのは同じ人物の精液、という状態になっていたそうだ。バンクから生まれた米国人の男性が、自分の親の情報を調べるうち、この事実を突き止めた。生命倫理を揺るがす事件として、テレビや週刊誌でこのニュースが連日報じられ、必然的に、ひかりちゃんのお母さんにも注目が集まった。もちろん、学校はしばらくこの話題で持ちきりだった。
 信じられない、でも良い気味。ステータスばっかりに縛られて、わざわざ精子を買ってまで子供を産んだ、自業自得だね。みんな口々に言って、笑った。
 ニュースが出てから、ひかりちゃんが学校に来ることは無かった。ひっそりと辞めていったのだろうけど、誰も何も知らない。部の同窓会でも、彼女のことは度々話題に上るものの、結局彼女の今を知っている人は誰もいなくて、みんな「どうしてるんだろうね」と言うばかりだ。少し侮蔑の滲んだ口調で。
 でも、今の私たち、ひかりちゃんのお母さんのことを笑えないよな。焼売の入ったビニール袋をぶらぶら揺らしながら、デパ地下を巡る。
 私たちだって、結婚適齢期を前に、序列に振り回されている。少しでも条件の良い男を、スペックの高い男を、手間を尽くし、お金をかけて、血眼になって探している。どこまでが尊くて、どこからが打算的かなんて、誰が決められるというのだろう。
 まあ、どんなに序列を気にしたところで、選ばれなかったら意味がない。ショーケースに残る色鮮やかな惣菜を前に、私は小さくため息をついた。
 あの子は誰かに選んでもらうことが出来ただろうか。選んでもらえていたらいいな。なんて自分のことは棚にあげて、鞄の中の震えないスマホを、もう一度取り出した。
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