第2話

文字数 3,685文字

◆二〇〇六年◆
 ショッピングモール内の本屋は、白く光り輝いて、周りから浮かび上がって見える。灯に吸い寄せられる虫のように、私はふらふらと店内に足を踏み入れる。いつもなら息子の草太がぐずって入れないが、今日は一人でゆっくり見て回れる。
 入り口近くの新刊コーナーで、平積みになった本を眺めていたら、一つの本に目が釘付けになった。白い表紙に赤い帯が巻かれ、その帯部分に、スーツ姿の女性の写真があしらわれている。
「衝撃のカミングアウトで話題 現代女性のカリスマが、悩める全ての女性に送るバイブル!」
 本を手に取り、帯の文言を、まじまじ読んでしまう。その言葉の横でにこやかに笑う女性は、昔私の雇い主だった。大学生の頃、半年だけ、彼女の娘の家庭教師をしていた。もう八年前になる。
 彼女の現在の肩書はコンサルタントなのだが、海外の大学を出て、国連組織や外資系企業で活躍した華やかな経歴を武器に、私が雇われていた当時から、コメンテーターとしてテレビ番組に度々出演し、タレントのような扱いを受けていた。
 パラパラとページを捲ってみるが、どのページからも圧がすごい。自分が正しいという圧、圧、圧。少しでも圧を避けようと、思わず頭をのけぞらせて、紙面と距離を取る。変な姿勢で著者の自分語りを流し読みしながら、どこかに娘の話は出てこないかな、と探してしまう。私の教え子だったあの子。母親とは全然違う、控えめなタイプで、いつも自信なさげに微笑んでいた。名前は、ひかりちゃんといった。
「とにかく、成績を一番にして欲しいんです。全教科満点を目指してください」
 顔合わせのときに、母親がそう言いのけた横でも、少し顔を伏せて、困ったように微笑んでいた。その頃、ひかりちゃんは名門の私立小学校に通う二年生だった。
 母親に押し切られ、とりあえず全教科を見ることになったのだけど、ひかりちゃんは数多くのお稽古事を抱え、いつも疲れていた。こんな小さい子が、と不憫で、授業の合間に、少しお昼寝させることさえあった。僅かばかりの休憩時間、何だかいつも苦しそうなひかりちゃんの寝顔を見ながら、良心が痛んだ。元々、大学の部活の先輩から引き継いだバイト先だった。「私には、あの家はちょっと合わなくて」と先輩が含みを持たせて言っていたのに、高時給に目がくらんで、ろくに話も聞かずに引き受けてしまったけど、きっと先輩も良心の呵責があったのだろう。
 ひかりちゃんは努力家だったので、私の平凡な指導でもかなり良い成績をキープできていたのだが、全て一番、は達成できず、私は半年であっさりクビになった。
 本にようやく娘の話が登場した。御三家と名高い中高一貫の女子校で優秀な成績を収め、部活に生徒会に課外活動にと奔走し、華々しい活躍をしているらしい。中学でまた受験したんだ、とひかりちゃんに少し同情する。
「娘は毎日本当に忙しく、親の私が心配になる程です。でも、あまり口出しはしません。自分で『選ぶ』ことの大切さを、私は身をもって知っているからです。どの活動を、どれくらい頑張るか。全て彼女が自分で選んだことです。自分の選択だからこそ、忙しい日々も、キラキラ輝くような表情で乗り越えられるのだと思います。」
 やたらと「選ぶ」という言葉が出てくるな、と表紙を見返したら、そもそもタイトルが『私の選択』だった。
 ここに書いてあること、本当かなあ、と疑ってしまう。私が知っているひかりちゃんは、だいたいにおいて母親の言いなりで、自分の意志というものが薄い子だった。
 あるとき雑談の中で、彼女が嗜む習い事のうち、どれが一番楽しいのか聞いてみたことがあった。彼女は長い間考えてから「やらなきゃいけないことだから、楽しいとかはよく分からない」と言った。「お母さんがね、私は特別なんだから、全部できないといけないって」と、あの困ったような控えめな微笑みを浮かべた。
 あの子が、なるかなあ、こんな風に。まあ八年経って、大学生だった私もいつの間にか子持ちの主婦になっているのだから、変わるのかもなぁ、思春期だし。なんて思いながら、ページを進める。
「私は欧州のとある精子バンクを利用して、未婚のまま娘を授かりました。それを公表したとき、世間から予想外に大きな反応があり、批判の声も頂きました。愛する人と結婚して、子供を授かる。そうしたステップを踏めることは、素晴らしいことです。しかし、私の場合、仕事などの兼ね合いから、どうしてもココで妊娠したい、というタイミングがありました。その期限が近づいているのに、結婚したいと思う相手にも出会えない。人生の中で、子供は絶対に産みたい。私に残された選択肢は自明で、精子バンクを利用することに、迷いはありませんでした」
 この話は、少し前にワイドショーを賑わせていたので私もよく覚えている。ちょうど草太が産まれたばかりの頃で、寝不足のぼんやりとした頭でテレビを眺めていたらこのニュースが流れ、一気に目が覚めた。
 一緒に過ごした頃のひかりちゃんの顔が、次々と浮かんでは消えた。なぜだか彼女との思い出の手触りが、急にひんやりと無機質なものになっていく気がして、ぐずる草太の温かい身体を、ぎゅっと抱きしめた。
 そのカミングアウトを機に、ひかりちゃんの母親は、先進的な女性の代表として取り沙汰されるようになっていった。女性雑誌でも度々見掛けたし、本が出るのは、まあ順当といったところなのだろう。
「そもそも日本では民間の精子バンクが認められておらず、未婚女性では精子提供を望めなかったため、私が子供を産むには、海外の精子バンクを利用する必要がありました。今思えばこれが大正解。海外で展開する精子バンクの中には、病歴や身体情報など、ドナーの情報を細かく公開しているところも多く、さまざまな条件を考慮して、自分の納得のいく選択ができるのです。私は妊娠出産にあたり、絶対に後悔したくありませんでした。結果として、海外のバンクで、多くのドナー情報を吟味しながら、とても満足のいく選択ができたと思っています。
 これは人生のどの場面でも言えることですが、大事なのは、主体性を持って、百パーセント心から納得できる選択をすること。悔いのない選択をすれば、自ずと結果はついてくるものです。あなたの人生を、自分の理想通りに輝かせるためには、まず選択に妥協しないこと。だいたいにおいて、上手くいっていない人は」
 そこまで読んで、本を閉じた。胸がざわざわして落ち着かず、気分が悪かった。新刊本のコーナーを離れ、店の奥、壁沿いのひっそりした一角、『育児』の札が掲げられた棚まで足を進める。
 頭のいい子の育て方、天才は五歳までに決まる、世界のエリートの教育法。キラキラしたタイトルが並ぶ棚の隅、『障害児教育』というインデックスの先、『うちの子、へん?~発語・発育の遅れQ&A』という本に手を伸ばす。
 ズボンのポケットに振動を感じる。スライド式の携帯を開くと、草太を見てくれている母から、そろそろ限界だ、と帰宅を促すメールが来ていた。
 草太は産まれてからずっと神経質で、赤ちゃんのときは、長時間眠ることが本当に無かった。いつでもグズグズと不機嫌で、それ以外の感情表現は薄い。日々のちょっとした変化、例えば食事のとき、フォークとスプーンを置く位置がいつもと違うとか、そういうことで火がついたように泣き叫ぶ。もう二歳になったのに、言葉もほとんど話さない。私の不安をよそに、医者は「三歳までは様子を見ましょう」と言う。毎日、不安を抱えて一人で息子と向き合って、心も体も限界だけど、夫も仕事が忙しい。たまに母が来てくれて、ようやく自分の時間を捻出できるが、母も高齢で、草太をそんなに長くは任せられない。帰らねばならない、カオスという言葉がぴったりの自宅を思い、ぐっと肩が重くなる。
 結婚も、出産も、あのときの選択に迷いはなかった。妥協なんて、欠片もなかった。それでもいま、思ってしまう。この生活が、いつまで続くんだろう。私が選んだのは、こんな生活だったのか。私が思い描いていたのは――。
 そのときふと、考えてしまった。もし自由に、自分の子供の遺伝子を選べたら、私は草太のような子を選んだろうか、と。
 すぐに、ものすごい自己嫌悪が私を襲う。「草太の成長が少しフツウより遅いからって、それが何だ」と自分を鼓舞できるときもあるのに、外側からの声に負けそうになる。「さらに良く、さらに輝いて、その先にある成功を」という声。そういう風には動けない私たちは取り残されて、周りと比べて、ひどく後退した気分に陥る。
 妥協の無い選択を。人生は理想通りに。
 さっき読んだ本が頭で鳴って、しゃらくせぇ、と心の中で吐き捨てる。全部が全部、お前が正しいと思うなよ。
 選んだわけでなく与えられて、それが切り捨てられるようなものでもなくて、迷って悩みながら、全部大事に抱えて進むしかない。そういう人生を、勝手に値踏みするな。
 本を手にレジへ向かいながら、ひかりちゃんの困ったような笑顔が頭に浮かんだ。
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